ヨルベという女

 結局、ミササギが魔物の調査や魔物の死骸の移動、守備兵の要請などを済ませた頃には日が暮れ始めていた。

 書斎で一息つきながら、ミササギは右手首に目を落とした。今では傷を隠すように包帯が巻かれている。

 傷を完全に治せたわけではないので、法医師に診てもらった結果だ。

 少なくとも明日までは、右手首を必要以上に動かしてはならないとのことで、ミササギは急ぐ必要のある書類だけ優先して処理をした。

 それにしてもあの二匹の魔物は、誰かが、クラースの森に来るのを待っていたかのように現れた。

 おそらく相手は、誰かが調査をしに来ることを見越して魔物を仕向けたのだろう。風で道から消されていたものは、その人間の足跡であった可能性がある。用意周到だ。


 その時、不意に彼の思考を打ち切るように、トントンと扉を叩く音が聞こえた。ミササギが「入れ」と言うと、シルワが扉の間から顔をのぞかせる。


「あの、ミサギ様に会いたいという方が来ているんですが」

「こんな時にか」


 ミササギはため息を吐いてから、一階に意識を集中させて魂を探った。その動きが固まる。


「ヨルベ・フロース、という女性の地方領主の方なんですけど?」

「…………」

「ミサギ様? 疲れてますか?」


 答えようとしないミササギに、シルワは心配そうに問いかけた。


「いや、彼女をここに呼んでくれ。君はもう帰って構わない。君こそ疲れただろう」

「え、でも」

「そうして欲しいんだ」


 ミササギは、少し強い口調でそう言った。彼がそのような調子で言葉を言うのは珍しかったので、シルワは少し驚いた。


「で、ではお呼びしますね。ちょうどお茶を入れたところだったので、それだけお出しして、失礼します」


 頭を下げてから、シルワはゆっくりと退室していった。

 そして、少し時間がたってから扉が再び開く。お茶のセットを持って現れたシルワの後ろに、来客は立っていた。

 艶やかな桃色の髪が目を引く美しい女性だ。肌も白く小顔だが、その瞳はどこか鋭く確かな意志を感じさせる。

 身にまとっている服が華美に過ぎないからこそ、女性の美しさが際立っているように見える。年はミササギと同じくらいだろうか。


「久しぶりね」


 先に口を開いたのは、ヨルベの方だった。口元には笑みを浮かべている。


「二か月前、レイリ様のお葬式で会った以来かしら?」

「そうなるな」


 ミササギは、ヨルベを注意深く見つめたまま答えた。

 その間に、シルワが応接用テーブルにお茶を置いて退出していった。ヨルベはそれを見ると、テーブルの前に座りお茶を飲んだ。ミササギは立たずに、仕事机に座ったままだ。


「それで、地方領主である君が何の用だろうか?」

「あら? 婚約者が婚約者に会いに来るのに、理由なんている?」


 ミササギは珍しく驚いたのか、目を少し見開いた。


「何?」

「いや、君がそんなことを言うとは思わなかっただけだ」


 どこか力ない声でミササギは言った。

 ヨルベはカップを置くと、ミササギを鋭い目で見つめた。いつの間にか、その顔からは笑みは失われている。


「『君』なんて、あなたみたいな人に呼ばれたくないんだけど」

「失礼した。それなら、あなたはなぜ私みたいな人に会いに来たのだろうか」

「性格悪いわよね、あなた」


 ヨルベは立ち上がると、ミササギの机に近づいた。歩きながら部屋の中を見渡す。


「つくづく思うのだけれど、モルスの書斎は変な所にあるわね。王城の端って、来るのが面倒なのよ? 裏門は普段通れないし」

「モルスに魔法の許可や魔法禁書の管理といった役割が増えていく中で、禁書の管理に都合のよい図書館の横に、モルスの書斎兼住居を作ることになった結果だ」

「なるほど。だから図書館と繋がってるのね、この建物」

「こんなことを話したいわけではないだろう?」


 ヨルベの真意を図りながら先を促したが、彼女はまるでそれが聞こえていないかのように話を続ける。


「最近なんだか物騒らしいわね、この王都も。大きな魔物が王城に侵入したっていう噂を、王都に来る間に聞いたわ」


 ヨルベは、ミササギの怪我をしている右手にちらりと視線を向けた。ミササギはそれに気づくと、さりげなく机の下に右手を下ろした。


「他にも、モルスを煩わせていることが色々とあるみたいだけど」


 ヨルベは彼の前まで来ると、トンッと机に手を置いた。近距離で互いに顔を合わせる。


「あなた、誰が犯人なのか、実のところわかっているのではないの?」

「……いや」

「本当に? あなたわかっているの? こんなことができるのは、あなた以外には浮かばないのよ。普通に考えたら」

「ならば、私を捕まえるか?」


 ミササギは小さく笑みを浮かべると、首を傾げてみせた。はじめて、ヨルベが言葉に詰まる。


「冗談だ」


 ヨルベが何か言い出す前に、ミササギはそう言い放つと、左手をついて立ち上がった。そのまま彼女に背を向けるように、窓辺に足を向ける。


「あなたが、私を嫌いなのはよくわかっている」


 ぽつりと、ミササギは言葉をもらした。


「そして、あなたが約束を守ってくれていることも」

「ミサギのことを疑うわけにいかないもの」


 ヨルベが強い口調で言い返す。ミササギはその言葉を聞くと、彼女に向かって優しく微笑んだ。


「なら、それでいい」

「あなた、どうする気なの」

「二百年の間、この国が抱いてきたものを守る。それだけだ。必ず異変については解決するつもりだ、不安に思う必要はない」


 それを聞いて、ヨルベは束の間目を閉じてから彼に顔を向けなおした。


「何の用かって、聞いたわね」

「ああ」

「そもそも、私は儀式のための捧げものを国に渡すために来たのだから、用と呼べるほどのものはないわ」


 彼女は、その顔にようやく柔らかさを取り戻した。それぞれの地方領主には『御魂みたま送りの儀』のために、その領地の特産品を捧げるという決まりがあるのだった。


「普通は、家臣が捧げものを国に渡しに来るだろう」

「古参の家臣が気を回してくれたのよ、あなたに会えるように。そう言われたら、ここに来るしかないでしょ」

「そうだな。悪いことを聞いた」

「別にいいけど」


 ヨルベは肩をすくめると、扉の方に足を向けはじめた。


「でも、そう。一つだけあなたに言っておくわ」


 振り返ったヨルベの桃色の髪が揺れた。


「噂と言えば、あなたに関する悪い噂も聞いたの」

「悪い噂、か」


 またその話かとでも言いたげに、ミササギはつまらなそうな声を出した。


「ミサギは最年少のモルスで、先代モルスも死ぬ間際まで元気でいらしたから、早くモルスになるために殺したに違いないって言われているけど、おかしいわ。早くモルスになったところで何の得もない。給金も高いかもしれないけど、元々貴族階級であるミサギにとっては、お金なんてさしたることじゃない。それに、噂が聞こえ始めたのは、レイリ様が亡くなった時ではなく最近のことよね」

「ああ」

「だからおかしいわ。傷が残らない魔法で、現モルスが先代モルスを殺したなんて噂が、今になって現れるなんて。自然に生まれたものと思えない」


 ヨルベは眼光を強めた。


「誰かが、あなたに悪意を向けているのは確かね。それも、モルスの地位をゆるがせようとしている。としたら、その誰かと魔物の事件のこと、関連あるんじゃないかしら? 私がレイリ様に関する噂をはじめて聞いたのは、魔物が王城を襲った事件の数日前だもの」

「……待て。ということは」


 ミササギは記憶をたどった。彼がこの手の噂に気づいたのは、五日ほど前の話だ。

 王都でこの噂が流れ出したのなら、王都から馬車で三日ほどかかるヨルベの領地に同じ噂が伝わるには時間がかかるだろう。

 だが、ヨルベが王都に向けて出発する前に、すでにヨルベの領地で悪い噂が流れていたとするのなら――


「ええ。私の領地か、私の領地からそう遠くないところから噂は流された、ということになるわね」


 ヨルベの領地は王都から北側、国全体で考えても北部に属している。


「北側の領地が怪しい、と言いたいのか?」

「可能性はあるんじゃないの?」

「そうだな。儀式が終わったら調べてみよう」


 ミササギは、ヨルベに小さく頭を下げた。


「ありがとう」


 そのミササギをヨルベはどこか戸惑ったように見つめてから、深く息を吐いた。


「私があなたのことを嫌いになりきれないの、そういうところのせいかしら」


 独り言のように言ってから、今度こそヨルベは背を向けた。扉に手をかける。


「セラギがあなたのことを気にしていたわ。近いうちに、あなたに会いにくるかもしれない。クラーウィス家の領地は王都に近いもの」


 ミササギはヨルベの背から目を離すと、窓越しに見える、夜に染まりつつある空に体を向けた。寂しげに笑う。


「それは困ったな」

「自業自得でしょ」


 振り返らないまま言い残すと、彼女は扉を開けて出ていった。パタンッと扉が閉まる。

 ミササギは音を追うように扉を見てから、来客用テーブルの上にあるカップに視線を移した。

 空のコップを見つめてからソファに座ると、残ったもう一つのお茶を口にする。そのままカップを置いたその顔は、寂しげに笑ったままだ。


「借りたものは返すさ。約束だからな」


 彼はまるで、誰かがその場にいるかのように言ったが、その言葉は誰に向けられたものなのか判然としなかった。

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