とある三文画家の憂鬱

阿部善

1940年、ロンドン

 不味まずい。どうしてこんなに不味いんだ。

 私は小さなカフェーで、パンと牛乳、フライドポテトという実に質素しっそな食事を取った。どれも不味い。イギリスのものは何もかもが不味い。共産党きょうさんとう政権せいけん掌握しょうあくしたドイツからのがれてはや七年、イギリスでの暮らしも大分だいぶれてきて、ドイツにいた時よりも快適かいてきとすら思えることもある。だが、食事の不味さはどうにも我慢がまんならない。食べることが拷問ごうもんのようにすら思える。それでも私は、それらを口の中にみ、のどへと通す。

「何の絵をえがこうか……」

 私は絵のアイデアが一向いっこうに思い浮かばない。画家という職業柄上しょくぎょうがらじょう、絵を売らなければ生計せいけいが立てられないのだけれども、何を描けば良いのかが全く分からない状況じょうきょうがここ数ヶ月続いていた。気が付けば家賃やちんも三ヶ月滞納たいのうしている。追い出されるのも時間の問題だ。本当はカフェーなんか行っている場合では無いのだけれども、それでも行ってしまう。いつものことだ。ここに行けば何かアイデアが浮かぶかも知れない。あわ期待きたいを抱いて、いつも裏切うらぎられる。

 そんな時、ラジオのニュースが耳に入った。連日れんじつ報道ほうどうされている、東京オリンピックのこと。私は亡命ぼうめい後に一生懸命いっしょうけんめい覚えた英語を、頭の中で必死ひっし翻訳ほんやくしながら内容を聞き取る。どうやら日本の選手が陸上りくじょうで金メダルを取り、現地げんち歓喜かんきに沸いているそうだ。

「オリンピック……。この表彰式ひょうしょうしき題材だいざいに描くか!」

 思わずドイツ語で声を上げてしまった。

 東京オリンピックで、日本の選手が表彰……。いや、ちょっと待て、そんなのはえない。メダルを受け取るのも、授けるのもみにく極東きょくとう黄色人種おうしょくじんしゅだ。絵面えづらとして最悪だ。誰も買わないだろう。

 では、何を描けば良い? 考えて、考えて、考え続けては途方とほうれる。結局けっきょく、何も描けないのか……。

 私は渋々しぶしぶカフェーを出た。きりの都という異名いみょうを持つロンドン。異名の通り、さむくてジメジメしている。こんな街にいるだけで、陰鬱いんうつな気分になってしまう。私のような三文さんもん画家の絵でも買ってくれる人が時々現れる、その一点以外のメリットが全く無い。イギリス人はよくこんな所に街を作ったな。

 何か題材は無いか、そう思って今度は書店しょてんへ入ってみた。書店で、ドイツ関連かんれんの本を探していると、その中から『国家社会主義こっかしゃかいしゅぎドイツ労働者党ろうどうしゃとう その成立せいりつ崩壊ほうかい』という本を見つけ出した。私はその本を手に取った。

 国会社会主義ドイツ労働者党、反ユダヤ主義や国家主義を掲げ、一時期は世界恐慌きょうこうたんはっする混乱こんらんじょうじて共産党、社会民主党に次ぐ第三党だいさんとうにまでのぼめた政党せいとうだ。だが、権力けんりょくに近付く事無く、共産党によって禁止されるという形で終焉しゅうえんを迎えた。何故なら、有力なリーダーがおらず、まとまりに欠けていた為だ。共産党はカリスマ的指導者しどうしゃであるエルンスト・テールマンの下、勢力せいりょく拡大かくだいすることに成功したのに対して、彼等は余りにも無力だったのである。

 彼等が弱小じゃくしょう政党の頃、私は彼等にシンパシーを覚えていた。今もあの頃も売れない三文画家。にも関わらずパンの代金すら惜しんで寄付を続けていた。名前は覚えていないけれども、私の饒舌じょうぜつさを気に入り、入党をすすめた党員とういんがいたことも覚えている。背が低くて、ガリガリにせこけた男だった。だが、入党して政治活動に参加するようなことは無かった。政治家などという道よりも、画家という道を選んだからだ。これで良かったのか、疑問ぎもんは残る。

 もしかしたら、私ならば、あの党を躍進やくしんさせることができたのではないか。妄想もうそうしてみたけれども――無理か。どうせあの男にはかなわなかっただろう、そう、エルンスト・テールマン!

 ドイツは今やあの男が全てを牛耳ぎゅうじる共産主義国家だ。スターリンのソ連とがっつり手を結んでいる。イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本……。各国の指導者しどうしゃたちはこの二国を如何いかにしてふうめるかを議論ぎろんしている。どうしてこうなった、どうしてこうなった、どうしてこうなったんだ!

「おお、見付けましたぞ、そこのあなた」

 背後はいごから聞こえた言葉。ドイツ語だった。ここロンドンで、ドイツ語を聞くのは何年ぶりだろう。振り向くと、そこには初老しょろうのスーツ姿の男が立っていた。

貴様きさまは誰だ」

 私はその男に問う。

「そう言われても、仕方しかたが無いでしょうね」

 男は丁寧ていねい素振そぶりで私に返事をした。非常に紳士しんし的な男で、言葉遣ことばづかいも、いも、身だしなみも、何もかもが上品であった。

「そう言うなら、名前くらいべろ」

「失礼しました。では改めて。私はフリッツ・オッペンハイマーともうす者です。ドイツでは銀行を経営しておりました。あなたと同じく、共産党が政権をにぎった際、ドイツから亡命し、ここイギリスへと来たのです」

 何でそんなことまで知っているのか、不気味ぶきみだ。私の言葉をぬすみ聞きでもしていたのか?

 だが、それよりもこの男の名前……。オッペンハイマーというのがどうもかる。オッペンハイマーと言えば、典型的てんけいてきなユダヤ系の姓だ。つまり、この男は……

「貴様はユダヤ人か?」

「はい。しかし祖父の代にプロテスタントに改宗かいしゅうしていますし、私自身は無神論者むしんろんしゃです」

「そう言う問題では無い。いく信仰しんこうてようと、けがらわしい血が流れている限りユダヤ人はユダヤ人だ! そのいやしい本性は改宗や棄教ききょう程度で隠れるはずもあるまい!」

 私が身振り手振りで高まる感情を伝え、この男を追い払おうとするも、一向に引かないばかりか、感心するような素振りを見せる始末。一体何なんだ、この男は。

「実に素晴らしい。あなたの話術わじゅつには他人ひとき付ける力がございます。あなたが絵画かいがを売る時のたくみな話し方、それを見て確信していましたが、英語ですらあれ程上手うまいのに、母国語であるドイツ語で話すとこれ程上手いとは。そんなあなたに、ぴったりな仕事がございまして」

 さっきから何だ、このユダ公は!

 この男は慇懃無礼いんぎんぶれい態度たいどで、カバンから一枚の紙を取り出して、私に渡した。全英亡命ドイツ人協会、そう名乗る組織そしきのようだ。

「ドイツの人々に対して、ラジオで共産党政権への抵抗ていこうを呼びかける、そんな仕事でございます。給料はしっかり払いますよ。ケンジントンに、豪邸ごうていが建てられる程に」

 こんな甘い呼びかけをされたって、乗らないわ、このユダ公め!

 カネ? 豪勢ごうせいな生活? 快楽かいらくさそおうとしている所に、ユダヤ人の汚い本性がけて見える!

「ユダヤ人のくせに恥ずかしげもなく『ドイツ人』協会などを名乗りやがって。貴様は何様なのか? ドイツ人に成り済ますだけでなく、ドイツ人の代表のようなつらをしやがって! 寄生虫きせいちゅうにも劣る劣等れっとう民族が!」

 その男が立ち去るまでもなく、私は書店から逃げ出した。バスを乗り継いで、薄汚うすぎたないマンションへと戻る。部屋に入れば、そこは私のアトリエだ。私はキャンバスに、今考えていることを、思い思いになぐった。不思議なことに、いつもなら十日くらいかけて完成する程の絵でも、わずか三時間で完成させることができた。

「これぞ、これぞ我が最高傑作けっさく……」

 密室みっしつにユダヤ人を大量に集める。そこには一酸化炭素いっさんかたんそ充満じゅうまんさせて、奴等やつら皆殺みなごろしにするのだ。密室の中で阿鼻叫喚あびきょうかんの中死んでいくユダヤ人ども。何とも愉快ゆかいな絵面。中央には、血塗ちぬられた、くずる大きなダビデの星。ユダヤ人どもによる卑しい世界征服せいふくの野望は、奴等がことごとく死にえることにより阻止そしされる。それを端的たんてきに表現するのである。フフッ、ようやく売れるぞ、我が人生で最高の一枚だ!

 そう愉悦ゆえつひたっている最中さなか、ドンドン、とから大きな音が聞こえた。ノックする音だが……。

「いつまで借金滞納たいのうしてんだ! 早く返せやコラ」

 大声の英語が聞こえてくる。

 こいつは借金取りだ。毎度まいど毎度、返済へんさいを迫ってくる。その度、利息りそく上乗うわのせして返す、そう言って誤魔化ごまかしてきたが、もうかないだろう。口約束くちやくそくで上乗せされた利息も積み上がっている。もうそろそろ限界げんかいだ……。

「ヒトラーさん、早く家賃払ってください。家賃を滞納した状態じょうたいでいつまでも住まわせる訳にはいきません!」

 家主やぬしまで来やがった! もう最悪だ。逃げ場は無い。

 私の頭は、この場をどうやり過ごすか、そのことで一杯になっていた。

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