EP:3 卵泥棒にはうってつけな日/A Perfect Day for Egg napper
玄関の扉を開けると、母の声がリビングから聞こえてきた。
「あら、おかえり」
舞華の母はいつもと変わらない、のほほんとした表情でソファに座りながら、お茶請けの菓子を片手にテレビを見ている。弟と父親の姿は見えない。
「お父さんと創也は?」
「いつも通り残業。創也はまだ友達の家だって」
ふぅん。と返すと、舞華はリビングのダイニングテーブルに、草津の温泉まんじゅうを置いた。アリバイ作りの品として通販サイトで予め買っておいたものだ。もちろん実際のところ草津になど行っていない。
「あら、温泉まんじゅう。お父さんと一緒に箱根に行った時が懐かしいわねえ……待ってて。すぐお茶入れるから」
「いいよ。すぐ部屋戻るし」
「すぐできるから。ちょっと待ってて」
母は台所で緑茶を淹れると、舞華に差し出した。緑茶の香り高い風味が鼻腔をくすぐる。母は自分の分の湯呑をひとくち啜ると、早速お土産の饅頭に手を伸ばした。
「それにしても、舞華がインカレ系のサークルに入るとはねえ……いい加減、彼氏候補の人とか見つけたんじゃない?」
「そんなんじゃないって。だいたい男漁りが目的なら、最初からアウトドア系のサークルなんか入らないし」
家族に対して、舞華はインカレのアウトドア系サークルに所属しているという建前で通している。今回は群馬県の草津まで登山旅行に行っていたという事になっており、恐らく疑われている様子はない。
「変な男にだけは引っかからないでよ。ちょっとくらいハメ外すのは良いけど、あんまりだと流石に心配だから」
「もう、だからそんなノリのサークルじゃないって言ってるじゃん」
ふふふ、と母は悪戯っ子のような表情で笑う。何歳になっても子供のように茶目っ気があり、無邪気な部分があるのが舞華の母親だった。
「でも、よかった」
母は湯呑みを啜りながら、ほっと息を漏らす。
「ほんとに心配してたんだから。あのまま、ずっと元に戻れないんじゃないかって」
「……私はもう、大丈夫だよ」
東京時空渦災害から生還して以来、舞華はずっと部屋にこもりきりだった。いわゆるPTSD――心的外傷後ストレス障害と呼ばれるものだと精神科の専門医は言っていた。幼馴染を見捨て、自分だけ生き残ったという罪悪感と自罰的感情が心を支配しており、舞華は重度の鬱状態に苛まれ続けていた。
リストカットや睡眠薬の過剰摂取などで、自分から命を断とうとした時もあった。そんな時にいつも止めてくれたのが、舞華の母だった。
残された人の事も考えず、自分勝手に人生を諦めようとした愚かな自分を、見捨てずに愛してくれている母には、正直頭が上がらない。
だけれど、今も自分は母に対して嘘をつき続けている。娘がアノマリー・ポイントに不法侵入を繰り返す犯罪者と知ったら、母はどんな顔をするのだろうか。
生まれたからずっと面倒を見てくれた両親にただのひとつの恩返しもせず、自分の目的の為に法を犯している事を考えると、当然胸が痛む。
――それでも、永理の生死を知るまでは、やめる訳にはいかない。
そう自分の心に固く誓ったのだ。
お茶を飲み終わると、舞華はそっと席を立った。
いつになったら、自分はこの罪悪感から逃れられるのだろうか。
母への後ろめたい気持ちを抱えながら、舞華は浴室へと向かった。
*
シャワーを浴び、寝間着のジャージに着替えた後、自室のベッドに寝転がる。溜まっていた疲れが一気に体の内側から押し寄せてきて、舞華はほう、と息を吐いた。
金曜日の夜にアノマリー・ポイントに向かい、戻ってきたのは土曜日の夜。時間にしては丸一日だが、他の
平均的に
本気で生存者を探すとなれば、もっとアノマリー・ポイントの深部まで潜らなければ話にならない。例えば神保町や秋葉原、霞ヶ関付近は
だが、それには何としても実力が足りない。一歩進む度に肉食恐竜の気配に怯えているようでは元も子もない。入江にガイドを頼める時間にも限りがある。なるべく早めに
ふと、枕元に置いていた預金通帳に目をやった。
高校生の預金残高としては目を疑うほどの金額が、通帳に記載されている。つい先ほど振り込まれた報酬だけでも、ゆうに百万の額を超えている。クライアントからの仲介料を差し引いてもこの値段だ。金儲けやギャンブル感覚でアノマリー・ポイントに潜りたがる愚か者が多いわけだ――と舞華は改めて実感する。
かといって、稼いだお金を使う宛もない。舞華と同世代の学生のように、特にブランド物やファッションに興味があるわけではなく、遊び歩くような友達もいない。せめて親孝行として、両親や弟に何か買ってあげようか――と思いつつ、何か高額な物を買ってしまえば、お金の出処を不審がられる恐れもある。
そもそもからして、ちょっとした外出や娯楽でさえも、心から楽しめない日々が続いていた。永理と離れ離れになってからずっとそうだ。
例えば家族と外食に訪れた時や、一緒に旅行に行った時。
いつだって、誰かに見られているかのような気がした。ひどく粘り気のある罪悪感が、背中に張り付いて剥がれずにいた。
永理を見捨てて助かったお前が、幸せになる資格なんてない――と、もう一人の自分が耳元で囁いている。
アノマリー・ポイントに潜っている時だけは、そんな不安から逃れられた。中生代の過酷な自然環境の中、生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれている時、初めて生きている実感を肌に感じる事が出来た。一歩足を踏み外してしまえば、最後は大自然の餌食になる運命が待っている――にも関わらず、今の舞華にとっては危険と隣り合わせの環境こそが、麻薬のように心地よく感じられた。
いつしか、次の侵入に至るまでの日を心待ちにしている自分がいた。
舞華は枕元の携帯を手に取ると、慣れた手つきで留守番電話を再生する。
『わたしはここにいるよ』
何度も繰り返し聞いた声が再生される。
誰しもが悪戯と決めつけた、いわば幽霊からの留守番電話。しかし、罪悪感に心を支配されている舞華にとって、この録音こそが今に残された唯一の希望だった。
携帯の液晶に表示されていた履歴を選択し、発信元に電話をかけ直す。
いつも通り電話はつながらず、形式ばったアナウンスだけが流れてくる。
「……だよね」
スマートフォンを枕元に放り出すと、再び舞華は仰向けに天井を仰いだ。
結局、何をいくら考えても仕方がない。永理の生死を自分の目で確かめるまで、今は一瞬たりとも迷っている暇などないのだから。
一歩一歩、自分に出来ることを着実に進んでいくしかない――そんな事を考えながら寝転んでいると、ぼんやりと微睡みが漂ってきて、舞華を眠りの海に誘ってくる。
舞華は眠気に抗おうとせず、そっと瞼を閉じた。
EPISODE:3
"A Perfect Day for Egg napper"
一週間後。
蔵井戸舞華と入江甲介は、再びアノマリー・ポイント内部に侵入していた。
新宿第9隔離地区から西新宿方面へと向かう途中の、かつて青梅街道と呼ばれたオフィスビル群は、今やシダやソテツなどの裸子植物に埋め尽くされ、背の高い針葉樹が欝蒼と茂る湿地帯と化していた。
熱帯のように蒸し暑い気候が体を蝕み、歩いているだけでじっとりと汗が滲む。
ぬかるんだ道を一歩一歩着実に踏みしめ、立ち塞がる草木を
森の中を進む度に、爬虫類や昆虫の類が足元を駆け抜けていく気配がある。目の前を横切る羽虫一匹取っても、それはきっと、現代の地球には存在しない、既に絶滅した生物なのだと思うと、どこか不思議な気持ちになる。
欝蒼とした密林をやっとのことで抜けると、かつての淀橋付近に到着した。神田川にかかっていた橋は崩れ落ち、かつての風景の面影はほとんど無くなっていた。おまけに神田川は
ビルの一部は倒壊し、植物に埋もれ小高い丘になっている箇所もある。液状化現象に伴う地盤沈下の影響か、地面から湧き出た水が沼のようになっている。水源の周囲に生い茂る豊富な植物を求め、草食恐竜が群れを成していた。
「見えるか、あそこがハドロサウルスの営巣地だ」
入江が指し示す方向から、ガチョウのように低い声が重なって聞こえてくる。舞華が双眼鏡を覗くと、河原の平坦な部分に、カモノハシのように口元が平坦に広がった顔つきの草食恐竜が群れを成していた。
全長はおよそ9メートル、高さは3メートルほど。竜脚類ほどではないが、双眼鏡越しにも巨大な体躯が見て取れる。焦茶色の体色に白みがかった縞模様が特徴的な恐竜が、草で覆われた巣を中心に、合計二十頭以上も散らばっていた。
その更に向こうには首が長い竜脚類――アラモサウルスが同じく群れを築いていた。貴重な水源に豊富な食料。ここは植物食恐竜にとって憩いの場のようだった。
「危険……じゃないよね」
「でかい牛みたいなもんだ。特に刺激しない限り向こうから襲いかかってくることはないが……時期が時期だ。産卵期で気が立っているメスもいる。注意してかかれ」
入江の言う通り、ハドロサウルスがゆっくりと草を食んでいる様子は、さも牧場の牛を遠目で見ているかのようだった。だが一頭の大きさとして考えると、牛とは比べ物にはならない体つきだ。遠くから見ていても、その巨大さは一目瞭然だった。
今回、舞華たちがアノマリー・ポイントに侵入したのは、恐竜の卵の密猟を目的としての事だった。現代でもダチョウやエミューの卵は食用として親しまれているが、草食恐竜の卵も実は鳥類のそれに近い味わいだという。
勿論、アノマリー・ポイントから卵を持ち出す事は法律にて固く禁じられている。ゆえに恐竜の卵は禁断の珍味として、裏市場にて高値で取引されているのだ。
双眼鏡越しに見ると、円形に土が盛られた塚のような巣に、ハドロサウルスが咥えた草を被せている。巣の中にはおそらく二十個ほどの卵が産みつけられているはずだ。巣の周りには大人から幼体まで複数の個体が徘徊しており、卵を狙う不届き者がいないか、常に警戒していた。
入江は背負っていたリュックサックから、2リットルのペットボトルに入った茶色い液体を取り出した。
「それ、なに」
「聞かないほうがいい。黙って頭からかぶれ。鼻はつまんどけよ」
「マジで何それ、ねえったら」
茶色い液体の中には白濁した固体のようなものも所々浮かんでいる。
苦い顔で黙りこくる入江を、舞華はしつこく問い正す。
「……ハドロサウルスの糞尿だ。こいつがお前の臭いを消してくれる」
「うっそでしょ、私にそんなのぶっかけようとしてたわけ」
観念して答える入江に対し、舞華は露骨に顔を歪めた。
いくら花も恥じらう女子高生とはいえ、フィールドワークにはもう既に慣れっこだ。多少なりとも汚れたくらいで今更気にも留めないが、さすがの舞華でも、頭から汚物を被るとなれば、話は別だ。
「あのな、恐竜は意外に鼻が利く生き物だ。警戒されないようにするにはこれが一番なんだ。奴らを怒らせたりしてみろ。草食でも洒落にならないぞ」
舞華ははぁ、と大きく溜め息を吐いた。入江の言う事はもっともだ。なりふり構っていられる状況じゃないのは分かっている。
これも全て、永理を助けるため。
こうなったらやけだ。糞でも尿でも何でも来い――と舞華は自分に言い聞かせる。
「……はいはい。わかりました。もう、こうなったらヤケクソ」
舞華は差し出されたペットボトルをしぶしぶ受け取った。
「それでいい。息を止めて一気にいけ」
入江の言う通り、相手は人類に飼いならされた家畜ではなく、遥か先史時代の地球を支配していた生態系の王者なのだ。あの巨体に小突かれるだけでも大怪我はきっと免れない。だから油断は禁物――
舞華は覚悟を決めてペットボトルの蓋を開けると、ぎゅっと目をつぶり、頭から茶色く濁った液体をかぶる。
「うっ……!」
鼻をつまんでいるにも関わらず、饐えたアンモニアの悪臭と、肌にまとわり付く不快感が一気に押し寄せてくる。
「我慢しろ。肉食恐竜のよりかはマシなはずだ。念のため、風上から大回りするぞ」
「……最悪」
戻ってきたら全力で水浴びしてやる――舞華はそう決意すると、入江と共に臭いに気づかれづらい風上の方角へと向かった。
*
舞華と入江は、木陰に隠れながらハドロサウルスの群れの様子を観察していた。距離にしておよそ10メートルほど。少し走れば巣に手が届きそうな場所で、舞華は木陰から飛び出すタイミングを見計らっていた。
周辺を見張っていた雌と思しきハドロサウルスの成体が巣の近くから離れた途端、舞華は姿勢を低くし、一気に駆け出そうとした。
「待て、様子がおかしい」
木陰から飛び出そうとした舞華を、入江が肩を掴んで制止する。
「……もしかして、バレた?」
「いや、そうじゃない。ひょっとするとだな――」
ハドロサウルスが落ち着かない様子でうなり声を上げ始める。群れ全体が慌ただしく動きはじめ、巣の周りを囲うように集まり始める。
もしかしてこっちの存在に勘付かれたのだろうか――舞華が不安げな表情で、入江の顔を見上げた。
次の瞬間、川原にいたハドロサウルスが全て体の向きを変えた。
入江の表情が、何かを察して険しくなる。
「まずい、逃げろ!」
ハドロサウルスの群れが、舞華たちのいる方向に向けて一直線で走ってくる。全長およそ九メートルにもなろうかと言う巨大な恐竜が、地鳴りにも聞こえる足音を響かせながら、舞華たちの方角に押し寄せてくる。
反射的に駆け出した舞華は、入江の後を追って近くにあった地面の窪みに身を隠した。窪みのすぐ横を、怯えたハドロサウルスが土煙を上げ駆け抜けていく。
「何かに追い立てられてるんだ、こいつは、おそらく――」
唯一逃げ遅れた若いハドロサウルスの背後から、さらに巨大な影が現れる。
森林の中から姿を現わした影の正体とは――
「アロサウルスだ!この辺りを縄張りにしている奴らだ。案の定出てきたか!」
青みがかった灰色の皮膚に、瞼の上にある突起が特徴的な肉食恐竜――アロサウルス・フラギリス。地球の歴史上、恐竜が最も栄えたと言われている中生代ジュラ紀後期にて、食物連鎖の頂点に君臨した獣脚類だ。アノマリー・ポイント内での目撃例は複数あり、舞華も存在自体は知識として把握していた。
しかし。
「ちょっと、何も聞いてないんだけど!」
「言ったらビビって逃げ出すと思ってな!」
この辺りが肉食恐竜の縄張りだとは一切聞いていなかった。
考えてみれば当たり前だ。植物食恐竜が生息していると言う事は、それを餌にする捕食者も存在するのが自然の理だ。
舞華は入江に対しての苛立ちと、自分の無知との両方を恨み、唇を噛んだ。
亜成体のハドロサウルスは、背後に迫りくる捕食者の影に怯えながら、懸命にひた走る。目の前の森に入ればおそらく追手を撒けるだろうという算段があったのかもしれない――森の中からもう一頭のアロサウルスが現れるとは知らずに。
現れたもう一体のアロサウルスは、鋭い牙がずらりと並ぶ顎を大きく開くと、亜成体のハドロサウルスの首筋に噛み付いた。
若いハドロサウルスは苦悶の鳴き声を上げのたうち回るも、アロサウルスの顎から逃れることはできない。鋸のような刃が付いた歯で食い付いたが最後、発達した首周りの筋肉が生み出す力で獲物を捻じ伏せてしまう。アロサウルスは首筋を咥えたまま鋭い前足の鉤爪で抑え込むと、暴れる獲物を易々と抑えつけてしまった。
一頭が亜成体のハドロサウルスを仕留めると、追っ手役のアロサウルスが後から追いついた。獲物を駆り立てる役と、仕留める狩人。おそらく群れの中で役目を決めて狩りをしているのだろう。二頭のアロサウルスは、まだ息があると思しきハドロサウルスの腹に食らい付くと、生きたまま新鮮な
「……すご」
舞華は驚愕に目を見開きながらも、アロサウルスが獲物に食らいつく光景から目を離す事ができなかった。眼前で繰り広げられる血みどろの食物連鎖。しかし鮮やかなる狩りの手口に、舞華は惹きつけられていた。
「見事なもんだろ。待ち伏せた後に群れで追い込み、獲物を仕留めにかかる――あれがアロサウルスのやり口だ。奴らに見つかるのはまずい。一旦戻って出直そう」
二頭のアロサウルスは一心不乱に、仕留めた獲物を骨の髄まで貪り続けている。
舞華はゆっくりと頷くと、窪みの影から立ち上がり、入江に続いた。
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