後編 ー 真実

秋分の日を過ぎると、今まで鳴いていたセミたちが静まり返り、街全体が金木犀の香りに包まれる。平日は学生らしく、大学とバイトに勤しむ私だけど、休日には彼氏との時間を優先する。高校が同じだった私たちは、大学入学と同時に付き合うことになった。同じ趣味があったり、同じ部活なわけではなかったが、それでもお互い気を使うことなく、一緒にいて居心地がよかった。


 一人暮らしをしている私は、朝から洗濯機を回し掃除機をかける。花嫁修行というわけではないが、実家で暮らしていた時に、母からみっちり仕込まれたのだ。講義のない土日でも早起きするのは、きっと習慣なのだと思う。こうした何気ない日常生活の中で、母を思い出すことは少しだけ嬉しかった。たぶん、ちょっとだけホームシックなのかもしれない。


 家事がひと段落ついたところで、彼氏に送っていたメッセージに返信がくる。「おはよ! 今通話しても平気?」この短い文面を見ただけで幸福感を得られる。すぐさま「大丈夫だよ」って送ると、その5秒後には彼との通話が始まった。


 たわいもない話が続く。お互いの学校の話だったり、バイト先で起こった話、今度行く旅行先の相談だったり。彼との話は時間を忘れさせる。それだけ楽しい時間なのだ。ただ、通話越しだとどうしても物足りない感じがする。彼の目を見て話たい。彼が笑う顔がみたい。彼の体温を感じたい。こうした欲求が一定数に達すると、いつも私は、唐突に彼を遊びに誘う。衣擦れする音が聞こえるので、もしかしたら出かける用事があるのかもしれない。それでも、聞いてみないことに始まらない。


「今日って午後から暇だったりする? あれ、もしかしてお出かけだった?」


「うん。友達とお買い物」


「そっかぁ。じゃあ明日遊ぼう!」


 今から会えないのは残念だったが、明日の予定ができたので良しとする。付き合い始めた頃、「お互い束縛しないから本当に居心地がいいよ」って言う彼氏に、私も笑顔で同意したが、本当は私のことだけを見ていて欲しかった。だけど、そんなワガママを言ってしまうと、今までの関係が崩れてしまう気がして、溢れ出す気持ちをぐっと堪えた。


 こうして彼氏との通話が終わり、再び自分の時間が始まる。家事は午前中に済ませたので、借りてきた映画でも観よう思い、部屋のカーテンを閉める。本当は彼氏と一緒に見るために借りてきたのだが、返却日が近づいたため、一人で見ることにする。真っ暗になった部屋で一人ソファーに座る。本当だったら隣に彼氏がいるはずだった。そう思うと、少しだけ胸が痛くなった。


 1本で終わりにしようと思っていた映画も、シリーズ作品だったということもあり、気づいたら3本目のエンドロールが流れていた。カーテンを開けると外はもう暗くなっており、改めて日が短くなったことを実感する。時間を確認するためにスマートフォンを見ると、メッセージが1件届いていた。千尋、ちーちゃんからだ。「また新しいパンケーキ屋さんでも見つけたのかな」と呑気な事を考えながら通知を開く。そして、内容を見た私はその場で固まり、スマートフォンを落とした。


 それからどのくらいの時間が経ったのだろう。「そんなことはない。勘違いだ」そう思った私は、真意を確かめるために落としたスマートフォンを拾いあげ、その場でちーちゃんに電話した。3コール目で繋がった彼女の電話先では、車が行き交う音が聞こえる。


「もしもし、ちーちゃん? さっきのどういうこと?何かの勘違いじゃないの?」


「うん。送ったままの意味だよ」


「だってあり得ないじゃない! 『彼が浮気してる』だなんて。彼は本当にいい人だし、今朝だって一緒に通話してたんだから」


「午後からは一緒じゃなかったんだね」


「うん。友達とお買い物するって言ってたから」


「あのね。冷静に聞いてね。私、さっきまでそこのショッピングモール行ってたんだけど、彼が女の子と二人でいるところを見ちゃったの。しかも腕組みながらアクセサリーショップに入って行ったよ。私本当にびっくりしたんだけど、心当たりないの?」


 ちーちゃんの言葉で血の気が引いていくのが分かった。メッセージに書いてあった「彼氏、浮気してるみたいだよ」という短い文でも頭が真っ白になった私は、直接この事を耳にして立っていられるはずもなかった。私にはもう何も分からなかった。スマートフォンを握る手に力が入らず、左手で右手首を支えるような格好になる。それでもまだ、私は彼を信じていた。


「それって、ちーちゃんの見間違いじゃないの? 近くで見たら違う人だったってことあると思う」


「同じ高校の仲良しさんを見間違えるほど視力は悪くないよ。それに腕組んでた子も、私たちの隣のクラスの子だったと思うよ」


 もう何も言葉がでなかった。休日に二人で過ごすことが、付き合い始めた頃と比べて減っていたのは確かだった。今日だってそうだ。私は一緒に映画を見たかった。先週もそうだし、先々週もそうだった。一度疑い始めたら最後。彼の今までの言動や行動が、他の女のためについた嘘だと思うと、吐き気すら感じた。今まで築き上げてきた信頼が悲鳴をあげて崩れていった。


「ちーちゃん。私、どうしたらいいかな」


 乾いた口から絞り出した声で、私は彼女に問う。か細い声だったのにも関わらず、彼女は慈愛を持って受け止め、まるで母のような優しい口調で言葉を紡ぐ。


「私たち同じ高校で一緒に過ごして、こんな親にも言えないような話ができるような関係になれて、私はすごく嬉しいって前から思ってたの。それで、親友の私からのアドバイス。彼とはもう別れた方がいいと思う。浮気は不治の病だから、一度浮気すれば、二度三度するから。それじゃあなたが不幸になる。だから、お願い、ちゃんと現実を見て」


 途中から涙声になりながら語りかける彼女につられ、私も声を出して泣いてしまう。家だからいいものの、側から見たら異様な光景だったと思う。

 私のことをここまで考えてくれて、一緒に泣いてくれる親友がいる。それだけで、彼という存在が消えて、ぽっかりと空いてしまった心の穴が満たされていく気がした。


「ちーちゃん、ありがとう。大好き」


 私は、それだけを告げて電話を切った。異様な疲れと喪失感に見舞われ、私はソファーに横たわった。あまりにも急なことで、頭が追いついていなかった。心の整理も兼ねて、その場で目を瞑った。そのまま私は眠りについた。


 それからの私は、彼のことを早く忘れるため、大学にバイトに今まで以上に熱心に取り組んだ。ありがたいことに友達は少なくなかったので、平日も色んな人と関わり、新しい繋がりもできた。私は着実に立ち直っていると思っていた。

 それでも家に帰るたび、既読をつけられない彼からのメッセージの通知を見るたび、布団にうずくまり涙してしまった。


 こんな毎日ではダメだと思い、私は意を決して彼に連絡をする。「明日、11時にいつもの喫茶店にきて」これだけの短いメッセージを送った。これに対して返信や着信が数時間置きにくる。これだけで私は彼のダメさ加減を身をもって知ってしまった。「もうこれで最後ね」と心で呟きながら、彼の連絡先を消した。この先、私は彼のことで涙することはもうないだろう。


 ーー


 その日はすごく暑かった。天気予報では30°を超えると伝えていたが、きっと体感温度はそれ以上あったと思う。街路樹に咲く金木犀の甘い匂いが、心を落ち着かせる。店内に入ると奥のテーブル席に彼がいた。待ち合わせの時間まであと30分はあった。「待たせてごめんね」とだけ言い、空いていた壁側の席に座る。カウンターで注文したアイスコーヒーをストローで一口飲み、今日の要件を端的に伝える。


「私たち、別れましょう」


 この言葉を皮切りに、彼の口から色んな言葉が発せられた。それは疑問の言葉だったり、いつぞやの思い出話だったり。しかし、私にはもう彼の言葉は何も響かなかった。浮気した上で、それを隠し続けていた彼の言葉はもう聞きたくなかった。

 アイスコーヒーがなくなり、ストローで中の氷を回し続ける。それだけ彼の話が退屈だった。


「えっと、なにか注文する?」


 そういってメニューを向ける彼は、どこか挙動不審な態度で、ますます彼のことを嫌悪していった。


 入店してから1時間くらい経ち、彼の言葉数が少なくなったのを見計らい、財布からアイスコーヒー代だけを置いて店を後にする。

 浮気が原因とはいえ、私から別れを切り出した以上、彼の言葉や言い分を聞かなくてはならないと思っていたが、口を開けば「なんで」「どうして」「なにが悪かったの」としか言わない彼を目の前にするのが、ただただ苦痛だった。


 冷房の効いた店内とは打って変わって、季節外れの日差しが私を照らす。私がするべきことはした。もう彼と会うことはないだろうと決意し、足早に喫茶店を去る。スマートフォンで何度も時間を確認しながら歩いていると、後ろから声をかけられた。


「暗い顔してどうしたの?」


「あ、ちーちゃん。うん。実はさっき彼に別れようって話をしてきたとこなの」


「えー! そんな大事な話するなら相談してよ。それで、大丈夫だったの?」


「うん。たぶん。彼が何と言っても、もう付き合う気はないからさ。ほとんど会話にならなくて出てきちゃった。えへへ」


「無理して笑わなくていいよ。辛かったよね。大丈夫。わたしが側にいるから」


 そう言うと千尋は私を抱きしめ、そっと背中を撫でる。この優しさに当てられ、道の往来にも関わらず私は声を出して泣いてしまった。

 今まで我慢してきた彼への鬱憤や、そんな彼の浮気を見抜けなかった自分の不甲斐なさ、そして、そんな私に手を差し伸べてくれた親友の存在。私の心に巣食っていた黒い感情が消え去り、千尋の温かな感情が私を満たしていく。「涙でちーちゃんの服を濡らしてしまったけど、あとで謝ったら許してくれるかな」今はそんなことを考える余裕さえあった。抱きしめられた彼女から匂う金木犀の香りが、私の心に残っていた彼という存在を消していく気がした。


 こうして私と元彼を取り巻く物語は幕を閉じる。

 この先、私は彼と会うことはないだろう。大好きな親友と仲のいい友人たちと明るい人生を送る。そして、浮気をしないような素敵な旦那様と生涯を共にする。そう思っていた。

 そう、7年後に届いた結婚式の招待状を見るまでは。



 金木犀の花言葉は「真実」


 もう誰も信じない。


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悔恨と金木犀 いぬい。 @inui_s

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