第63話 ただ、傍に居て。(完結)

 ケンジントンの墓地に、双子の両親は眠っている。


 大きな向日葵を抱えきれないほど手にしたライオンヘアのミスズが、歩けるようになったローズマリーの手を引いてやって来た。

 その後方に、ヒカルと腕を組んだ愛子がミスズを追うように歩いてくる。

 ローズがミスズの手を振り解いて、広い墓地へ駆け出していくと、仕方なくヒカルがその後を追いかけて行った。残されたミスズと愛子は、夫婦の眠る墓石の前に佇んだ。

 短い夏が訪れたイギリスは、そこかしこで花が咲き乱れ、墓地と言えども鮮やかな花弁の色が目を引くようだった。

 シンプルな十字架と長方形の墓石の上に、ミスズが向日葵を置く。

 どこかで野鳥の声がした。空は濃い青に浮かぶ白い雲と、強い日差しの太陽が輝いている。墓地のそこかしこに植えられた木々が、風が吹く度に音を立てて騒いだ。

 硬い物音に気付き眼を向けると、しっぽの太い野性のリスが隣の墓石の上に落とした木の実を拾おうと身を屈めている。ミスズや愛子の視線に気づき、軽快な動きで素早くその場を逃げ出していった。焦っていたのか、道々に木の実の欠片をこぼしながら。

「パパ・・・ママ。明日、日本へ行ってくるわ。ローズを見せてくるの。アイコママの親戚の人達にも紹介して上げなくちゃだからね。」

 しゃがんで語り掛けるように呟いたミスズは、なんとも言い難そうに躊躇った後、再び口を開いた。

「あと、来年には、多分アタシも結婚することになりそう。・・・アーサー様にしつこく言われちゃった。」

 くすっと笑った愛子が口元を押さえる。

 あんなことを言っているが、結局ミスズはアイザックに根負けしたのだ。叔父のせいでもなんでもなく、ミスズがアイクに彼に押し切られたのが事実だろう。

「ヒカルもアイコママと一緒になれるみたいだし・・・少しは安心させてやれたかな。」

 そう言って立ち上がったミスズは、愛子を振り返る。

「ママ。アタシとヒカルはローズと一緒に先に空港へ行っているわ。パパとママと存分に名残を惜しんできて。」

「ありがとう、ミスズ。気を付けてね。あとから追いかけるから。」

 双子と共に彼らの両親の墓を訪ねる時は、いつも最後に愛子を一人残してくれる。

 それは愛子が彼らの両親と堅い友情で結ばれていたと双子が知っているからであり、愛子が双子の前では言えない言葉があるだろうとの心遣いでもあった。

 手を振ってその場を去るミスズの左手の薬指には、アイクから贈られた指輪がはめられている。

 愛子の左手にも、同様に指輪が光っていた。今年から講師として働き始めたヒカルが、初任給を全額注ぎ込んで買ってくれたものだった。

「お久しぶりです。セイラ、由良ゆらさん。ご無沙汰をしてしまってすみませんでした。」

 誰もいなくなった墓地に、愛子の独白が響いた。

 双子の両親の名前を口にして、軽く会釈する愛子は、昔を懐かしむように、その視線を遠くへ向ける。

「貴方がたの大切な息子さんをわたしなどが貰ってしまっていいのかと、何度も自問自答してここまできましたが。結局いくら考えても答えはでなかった。」

 勿論、応えがあるはずもない。墓地にはただ野鳥の声が響くばかりだ。

「セイラ・・・わたしは貴方が好きでした。貴方以上に愛せる男性は存在しないと、何年も、ずっとそう思っていました。だから、ヒカルとは結婚はしません。一緒に暮らすことは有っても、神の前で永遠の愛を誓う事はないでしょう。わたしがあなた方の所へ行く頃にはきっと、ヒカルもそれが正しかったのだとわかってくれると思います。彼は若くて才に溢れた子で、わたしのような年老いた女が拘束していいはずがないのですから。」

 今はただ、長年の片思いを成就するために。ずっと感じていた寂しさを埋めるために。ヒカルとアイコは恋人で婚約者だと触れ回るだろうけど。

 それは一時的なものに過ぎないのだと、割り切って考えなくてはならない。

 結婚しない理由は、年齢差だけではない。愛子自身にもある。

 現在のヒカルは、まさにセイラの生き写しと言ってもいい。ヒカルを見る度にその父親を思い出し、とうに癒えたはずの、忘れ去ったはずの、叶わなかった恋の傷が開く。

 愛子はヒカルを愛しているのか、彼の父親に似ている彼を愛しているのか次第にわからなくなっていった。一人前の男性に成長したヒカルは、一層生前の彼に似て、戸惑ってしまいそうになるから。

「わたしはやっぱり、貴方にも、貴方の息子にも相応しくない。いつまでも貴方に囚われ続けるわたしには。わたしだけを思ってくれるヒカルに・・・。」

 セイラの妻で双子の母親は素朴で優しい女性だった。

 不器用な人で、何をするにも一生懸命で、そして、墓石に飾られた向日葵のようにいつも陽気に笑っていた。彼の深い愛情に応えようと必死でひたむきだった。セイラが彼女だけを愛したように、彼女もセイラだけを愛した。

 それに比べて自分はどうだろう。いつまでたってもヒカルを彼の父親に重ね、比較し、事有るごとに子ども扱いしてしまう。

 強い風が吹いて、木々が揺れる。葉ずれの音が周囲を埋めた。

 思わず顔を伏せて風が巻きあげる埃を避ける。スプリングコートの襟を立て、両手で顔を押さえた彼女が再び顔を上げた。

 墓石の前に、背の高い人影が立っていた。

 長い金髪が風にあおられて舞い上がる。黒い革の上着を着た、青い眼の青年がぽつんと立ち尽くしていた。おもむろに、その唇が開く。

「・・・それでもいいって、言ったじゃないか。君がそれでもいいならば、僕は構わないと。」

 掠れた声の囁きが、葉擦れの音に消えかかりそうだ。

 その言葉は。

 日本語で、愛子の事を『君』という二人称で呼ぶのは、ヒカルではない。

 優しく温かい微笑。夢に見るほどに憧れたその声音。冬の空のような真っ青な瞳。

「・・・セイラ・・・?」

 思わず呟いた。

 人影は、ゆっくりと右手を差し出した。

 その手に、愛子の右手が重なる。温かかった。

「貴方の思うように・・・、アイコ。結婚するのがどうしてもいやだと言うのなら、僕は貴方に従うよ。」

 ぼんやりと、もう一度呟く。

「・・・ヒカル。」

「貴方が望むなら、父さんのように貴方を『君』と呼ぼうか。貴方の希望の全てを叶えて見せるから。・・・だから。」

 そこに立っていた人影は、愛子の身体を引き寄せて肩を抱きしめる。

「命尽きるまで傍に居て。それだけでいい。貴方が本当は父さんを・・・誰を愛していても構わない。代わりでもいい。」

 立てたコートの襟の内側へ手を入れて、愛子の頬に触れるヒカルの指は温かい。何度も繰り返し落とされる唇よりも。

「ヒカルより随分早くおばあちゃんになっちゃうのよ。」

「貴方みたいに可愛らしいおばあちゃんなら、最高だ。」

 いつまでも若くて綺麗だよ、と言うのではなく。

「今にボケが始まって、夜中徘徊したりして貴方を困らせるんだわ。」

「深夜の散歩も悪くない。ロンドンは眠らない街なんだから。」

 痴呆になんかなるはずがないと、否定されるのでもなく。

「いずれ介護がはじまって、下の世話までさせる時が来るのよ。」

「僕だって昔はずっとしてオムツ替えて貰っていたって聞いているよ?お互い様じゃないか。」

 言い返す言葉さえ、昔とは違っていて。

 愛子がヒカルと違っていくことを否定するのではなく、受け入れる答えを寄越す。その懐の大きさにさえ、かつてのヒカルではないような気がして、どきりとする。

 見上げれば、青い瞳がまっすぐに見つめ返す。

 その青が、空の青でも、・・・そして、あの人の青であろうとも、青色には変わりない。

「いつか貴方を、貴方の父親の名前で呼んでしまうかもしれないわ。」

「その時は、改名しようかな。貴方の呼びたい名前に。ね、知ってる?・・・名前って言うのはね、それを呼ぶ回数の一番多い人の好きなものを付けるべきなんだって。きっと僕の名は、実の母よりも貴方の方が多く呼んでいる。」

 両手をヒカルの広い背中に回し、しがみつくように抱き着いた。

「さあ、行こう。ミスズとローズが待ってる。飛行機の時間もあるんだから、余裕をもって出発しなくちゃね。」

 震える肩を抱きしめたヒカルが、その場を立ち去るよう促した。

 墓地を出て、路上に駐車しているタクシーへ足を進める。

 葉擦れの音が聞こえ、もう一度、愛子は墓地の方を振り返った。

 誰もいないはずの平坦な墓地の入り口に、二つの影が立っているのが見えた。

 淡い色の長い髪を持つ青年と、黒髪の東洋人らしい女性。その顔までははっきりと見えない。

 また風が吹いて、ヒカルの金髪が舞い上がる。愛子の視界がその金の光に埋まって、何も見えなくなった。

 風がおさまるのを待って、もう一度墓地の方を見て目を凝らす。

 愛子の大地色の瞳には、もう先ほどの人影は見えなくなっていた。






 

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