第54話  薔薇と獅子と影


 叔父であるユーフューズ・アーサー・ティル侯爵のノルウェー視察に護衛として付き添った時のことである。

 熱を出してホテルで寝込んでしまったミスズを、忙しい身でありながら叔父は見舞ってくれた。ホテルの部屋もグレードを上げた特別室に変更してまでくれたのだ。

 オスロに到着して二日目。

 早朝から高熱を出し、立っていられなくなったミスズを抱き上げて、宿泊室へ連れ戻したアイザックが端末を取り出した。

『・・・やめて、叔父様に、知らせないで。』

 意識が朦朧としていても、端末の音で、アイザックがティル侯爵へ連絡を入れようとするのがわかるのだ。ミスズはそれを止めたかった。

 アイザックは、重い声音で懇願するミスズを振り返り静かに言い返した。

『そんな訳に行くはずが無いでしょう。閣下に知らせないでどうやって代理のSPを呼ぶというのですか。』

『アーサー様に心配かけたくない。』

 そう言いながらも、ミスズの身体はガタガタと震えている。

『病人は静かに寝ていなさい。』

 穏やかに言い放って彼が端末を操作し始める。

 ミスズの要望を聞いてくれない相棒を罵倒したくても、そんな元気もなく。

 何よりも、幼い頃からろくに病気一つしたことがないミスズは、こんなふうに寝込んでしまう事が酷く恐ろしくて、不安だった。

 頭が重くて全身がだるい。今まで感じたことがないくらいの、強烈な寒気に襲われて歯の音が合わない。

 ホテル内の客室は冷暖房完備で、真冬であっても室内は十分に温められているのに、ミスズはいくら着こんでいても寒気が消えないのだ。

 一瞬でも気を抜けば、意識が持っていかれそうで。朦朧としている状態のまま、どうにか耐えているけれど、いつまで持つのか。

 そんな状態だったので、いつのまにか叔父が傍に来てくれていたことにさえ気付かなかった。

 冷たい手が額の上に乗って心地いい。信じられないくらいに寒いのに、その感触は気持ち好かった。

『ミスズ・・・大丈夫か?目が覚めたか?』

『アー・・・サー様・・・すみませ』

 譫言のように言おうとすると、その冷たい手が口を押さえる。

『いいから喋るな。物凄く熱が上がっている。オスロの寒さにやられたか。・・・ミスズは北欧訪問初めてだったもんな。』

 ぼんやりした視界に、叔父の金髪が見えた。その向こうの茶色の頭が多分アイクだろうか。

『低体温症になるよりはマシです。肺炎を起こさないように気を付けなくては。』

 知らない声が聞こえた。医師を呼んでくれたのかもしれない。そう思うと、益々申し訳なかった。

『すみませ・・・』

『馬鹿言うな。お前は俺の護衛である前に、大切な姪なんだぞ。お前に何かあったらアイコに顔向けが出来ん。』

 少し怒ったような口ぶりが逆に嬉しかった。

『あ~あ~、泣いちゃってるじゃねぇか。可哀想に、熱のせいで涙が止まらないんだな。アイク、そこにあるタオル取ってくれ。』

 乾いたタオルが顔の上に乗る。丁寧とは言い難い仕草で、溢れている涙を拭ってくれた。

 確かに高熱のせいで涙が出ることもあるだろう。

 大切だと言われたことが嬉しくて、涙が出たのだとは。言うつもりもないし、ミスズ自身も認める気など無い。

 左腕が押さえつけられて、なんだか針を刺されているようだけれど、いつものように抵抗も出来ない。注射嫌いのミスズは、無駄とわかっていても健康診断の採血の度に抵抗するけれど、今日ばかりはどうにもならない。

 その後はもう完全に意識が途絶えた。



 次に意識を取り戻したのは、真夜中だった。

 ガタガタと震えている、その歯の音によって目覚めたみたいに、自分の歯の音がやけに耳に付く。

『目が覚めたのか。大丈夫かミスズ?』

 大きな手がそっと顔を撫でた気がする。

 しっかりした声音。叔父の、男性らしい深い声が近くで聞こえる。

 ずっと傍でついていてくれたのだろうか。

 いいや、そんなはずはない。ミスズが倒れた日、侯爵のスケジュールは分刻みだったはずだ。彼の護衛をする予定だったミスズの頭には叔父の予定が頭に入っている。いくつかはキャンセルや延期できたとしても、全て出来るわけではない。 

『ああ、寒くなったのか。汗をかきすぎたな。少し待っていろ、女性の看護師を呼ぶから。』

『申し訳ありません。アーサー様・・・。』

 端末を操作している音が聞こえ、外から看護師を呼んでくれているらしい。

 まもなく、アイクが白衣の女性を連れて部屋に入った来た。

 彼らと交代するかのように、侯爵は椅子から立ち上がる。

『すまんが、俺は少しはずす。ずっとついていてやりたいが、そうもいかないんだ、ごめんなミスズ。早く良くなってくれよ。』

 軽くちゅっと音をさせてミスズの額にキスをする。

『まだだいぶ熱いな。朝よりは下がっているようだが。』

 叔父の唇の感触が冷たく感じて気持ちいい。

 侯爵は後ろ髪を引かれるように何度か振り返りながら部屋を出て行った。

 その後姿を、まるで睨むようにしながら見送っていた相棒が、ベッドへ近寄って来る。

 清拭のための道具だろうか、白い箱の乗ったワゴンを押す看護師が、アイクよりも先にベッドに辿り着き、ミスズの脈を取った。体温を測り、顔色を眺める。

 箱から平たい端末を取り出し操作をすると、てきぱきと手袋をはめる。

 ノルウェー人の看護師にしては、少々色が浅黒い。移民だろうかと思わせるその女性は、愛想良く笑った。

『身体を拭きます。室温を上げますからね、大丈夫ですよ。』

 カーテンを引き、アイクからも遮る様にベッド周りを遮断する。

 黒い髪をひっつめてまとめた看護師は、手際よく毛布を剥ぎ取ってミスズを裸にする。

 恥かしいとか言っている余裕はなかった。寒気の余り気絶しそうだ。彼女が身体を拭いてくれている間、ほとんど声も出せない程震えていた。カーテンの向こうででアイク待っていることなど、気にもならなかった。

 真新しい着替えを着せてもらってようやく息をつけるが、それでも寒気はおさまらない。

 小さな錠剤を三つほどミスズの口の中に放り込んだ看護師は、ぬるい水を流し込んで強引に飲み込ませる。ちょっと強引だが、どうにか飲み込めた。

『お大事に。』

 短く告げた看護師がワゴンと一緒に退室して行く。

『・・・寒いのですか、ミスズ。』

 ずっと震えの止まらない様子を見ていたアイクが枕元に顔を寄せて尋ねる。

 小さく頷いた。

 寒い。全身が震えてたまらない。清拭をしたから余計だ。

 また熱がぶり返して上がってくるような気がする。それも怖かった。こんなに高い熱を出して寝込んだことなど今までなかった。

『温めて上げましょうか。』

 うんうんと何度も頷く。エアコンで室温を上げるのでも、毛布を増やすのでも、なんでもいい。

 全身を襲う寒気が、これからまた意識がとんでしまうほどの高熱を発すると言っているみたいで怖くなる。温かくなるなら、どんな方法でもいい。いっそベッドに火をつけてくれないだろうか、とさえ思ってしまう。

 何かが床に落ちた音がした、と思った。違ったようだ。アイクが上着を脱いで、椅子の上に置いただけだった。室温を上げたから、健康な彼には暑いのかもしれない。 

 大きな質量が乗ってきたことにベッドが悲鳴を上げる。

 毛布が剥がされ、何かが懐に入ってきた。

『・・・アイク、何してんの?』

『アーサー様じゃなくて申し訳ありませんが、俺で我慢してください。』

 そう言って間近でこちらを見つめてくるアイクは、いつものような穏やかな笑顔を浮かべてはいない。

 どこか悔しそうな、苦しそうな表情だった。

 そして、はじめて相棒ではない関係を結んだのだ。







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