第48話 くしゃみが可愛いね

 

 自分の肩を抱く大きな手をゆっくりと押さえた。

 なんて大きな手だろうか。

 はじめてこの手に触れたのは、彼の母親が出産して間もない、生後7日目だった。ヒカルは生まれた時から余り泣かない子で、早くからその青い眼開いてをそこら中へ向けていた気がする。ミスズの方がとても大きな声で泣く元気な赤ん坊で、彼らの両親はあやすのに手を焼いていた。

 自分の手の中におさまってしまう小さな手は、とても小振りでありながら既にすべての部品を揃えていることに小さな興奮を覚え、イタズラ心から指先をベビーベッドの上で踊らせた。まだあまり見えていないはずの青い眼は、まるで愛子の指を追いかけているようだった。気配を感じたのか、僅かながら触れたのか、ヒカルの小さな小さな手が愛子の指をきゅっと握った時には、自分でも説明のつかない愛おしさを感じて狼狽した覚えがある。生まれたばかりの赤ん坊を間近で見たことが初めてだったので、親友とは言っても他人の子供に対してこうまで愛情を感じてしまう自分が不思議でならなかった。

 あの小さかった手が、今は逆に愛子の手を包んでしまう。この手で抱き上げたあの身体が、反対に愛子を抱きしめる。

 力強くて温かい感触にうっとりと目を閉じた。

「ねえ、僕を捨てないで。家事も手伝うし、夜が明けるまでセックスしようなんて言わない。貴方が嫌なら、避妊だってする。貴方の言う事をなんだって聞くから。だから、だから傍に居てよアイコ。貴方がいない場所でなんか、僕は、僕は・・・!」

 壊さんばかりの強さでかき抱くヒカルが言い募っている。

 少し痛いくらいだが、心地いい。愛されている実感が湧くのだ。

「愛してるんだ。貴方以外、誰も見えない。貴方だって僕を愛してるって言ってくれたでしょう!?だから、僕がいなくても平気だなんて、そんな悲しいこと言わないで。」

 哀切なほどの響きで聞こえてくる。

 逆らうことはせず、黙って身を委ねたまま。ぽつりと言った。

「私はアラフォーのおばさんよ。一回り以上も若い子供の相手なんて出来ないわ。出来る限りやってみようと思って頑張って来たけど、やっぱり無理だった。貴方がいなくて平気なはずがないけど・・・でも、それ以上にもう疲れてしまったみたいなの。いくら頑張っても、父親の事を見ているんだと思い込んでいる貴方と一緒にいるのは・・・。」

 虚を突かれたように強かったヒカルの腕の力が、僅かに緩んだ。

「・・・父さんの?」

「わからない?わたしはわたしなりに貴方を異性として扱おうとして、一人前のパートナーとして見ようと思ってきたけど、やっぱり駄目。我が子可愛さでどうしても厳しく出来ない。どうしようもないのよ。だって可愛いもの。貴方は10年も育てた私の可愛い息子だもの。貴方が外で何をしようと信用しているし、我儘も聞いてあげたいと思うわ。多少の無理をしたってヒカルのために何だってしてあげたい。でも貴方はどうかしら?わたしとの関係をよりよくするために努力をしてきたかしら。信頼してきてくれたかしら。自分はあの人の息子だから、あの人に似ているのだから絶対にわたしから離れていかないって高を括っているのではなくて?わたしが貴方に請われるままいくらでも愛情を注いでくれると思っているのではないの?」

 ゆっくりと身を離し、彼の顔をまっすぐに見つめた。

 愛子の大地色の瞳は潤んでいて、そして優しい。形のいい唇が紡ぐ言葉はヒカルを責めていても。

「そんな」

 ネイルのはがれてしまった指をそっとヒカルの輪郭に沿わせる。

 なんて似ているんだろう、長い間、ずっと思い続けたあの人に。年を追うごとに似てきたヒカルの顔は、彼が亡くなって数年経てもなお彼の面影を彷彿させる。色褪せていくはずのそれが、より鮮明に、より印象的に。金色だった髪が黒く、青だった瞳も黒くなり、愛子の中で最愛だった面影はいつのまにか目の前の少年に変化していった。自分がずっと思ってきたのは、この人だったのか、と。

「一人の男性として見ていたら、きっとわたしは貴方なんか見向きもしないでしょう。わたしの理想はとても高いのよ。だってあなたの父親そのものだもの。家事の全てをこなし、家族を養える収入を自分の力で稼ぎ出すことが出来て、そして家族に惜しみない愛情を注ぐ人。足りない所があれば別の部分でそれを補い、大切な奥様に対してだって間違っている部分は厳しく叱責した。誰に対しても優しく公平だった。貴方はどう?少しでもそんな人になろうとしてくれていた?わたしが貴方を甘やかすのは、あの人の息子だからではなく、私の息子だからよ。」

 事実を指摘することでヒカルの甘さを責めている愛子の口調はとても優しい。

 ヒカルだって彼女の言っていることが全て事実だとわかっている。否定できるほど愚かにもずるくもなれない彼は、ずっと騙し誤魔化してきたことをはっきりと言われて肩を落とした。

「・・・いや。いやだ。だって僕がどうやって父さんに勝てる!?もうここにはいない貴方の理想の男に、どうすれば敵うって言うのさ!?僕は父さんに似ていても、まだ子供で貴方を養う事も出来ない。出来ることと言えば力一杯愛してやることだけだ。父さんの息子である立場を最大限利用して、貴方に媚びを売るしかないじゃないかっ!」

 そこまでしてもこの人が欲しいのだ。自分自身を愛して欲しいと言う欲求を殺すほど、愛子の事が好きなのだ。

 代わりでもいいから、傍に居て欲しい。愛して欲しい。ヒカル自身では無理なのだったら、父親の代理でもかまわない。ずっと愛子が一途にひたむきに父を見ていたように、自分もそうやって見て欲しくて、思って欲しかった。そのためにななんだってやれると。

「でもそれは駄目よ。・・・それでは駄目なのよ。わかるでしょう?」

「う、うう・・・。」

「いい子ね、ヒカル。貴方はお利巧さん。聞き分けのいい貴方なら、私の言っていることがわかるわね?」

 そう言ってヒカルの頭を撫でる愛子は、あの日のようで。

 今日から愛子がママになるのだと、そう言われたあの日のようで。

 僕は愛子にママじゃなくて、違う存在になって欲しいのに。そう言いたかったのに言えなかった幼い日。でも嫌われたくなくて、ママと呼べなかったらきっと愛子が悲しむから。聞き分けのない子は嫌いだろうって知っていたから。

「うわああん!ああああああああ!」

 彼女の膝の上で号泣した。

 年甲斐もなく、大声で泣いて、彼女の膝に縋って。

「・・・いい子ね。貴方に厳しくなれない私を許してね。」

 ヒカルだけが悪いのではない。

 愛子自身もいけないのだ。何もかもを許そうとしていた自分もいけなかったのだ。




 翌朝愛子が目覚めると、ヒカルはどこにもいなかった。

 昨夜は何年振りかで、ヒカルが愛子のベッドで何もせずに眠りについた。泣き寝入りした彼を抱き締めて眠ったのは本当に久しぶりの事だ。いつもは逆に抱き締められて眠っていたから。

 まだ眩暈のする頭を手で押さえながらどうにか二階へ上がり、彼の部屋に入ってみるけれど、整然とした彼の部屋はなんの変化も無い。ただ、愛用していた大きなバックパックが無い事に気が付いた。クローゼットを覗けば、衣類の半分が無くなっている。

 主のいない室温の下がった部屋はとても寒くて、愛子はくしゃみを一つした。

 愛子のくしゃみって可愛いね。

 そんなことを言われたことを思い出す。

 数日前に愛子がベッドメイクをしてあげたままの、使った形跡のない平らな彼のシングルベッドにゆっくりと腰を下ろした。毛布を引き寄せて体に巻く。

 クリーニングしたばかりのそれに、ヒカルの匂いはしない。

 辛いなぁ、とあらためて思った。

 寂しくて悲しくて心が折れそうだ。

 わかっていたことだった。とっくの昔にこうなる日が来ることを、愛子は知っていたのだ。夏休みに、ヒカルと二人でスコットランドへ出かけた時に、離れなくてはいけないと思っていたのだから。

 ふとベッドの枕元に、小さな赤いカードが置かれているのに気が付く。

「・・・一人のクリスマスなんて、何年振りかしらね。」

 彼らしい流れるような筆記体で書かれたメッセージは途中で終わっている。




 『愛するアイコへ。メリークリスマス!きっと結婚しようね・・・』





 その後がどういう言葉に続くのか、愛子にはわからない。わからないけれど。

 今はただ、涙が零れる。


 

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