第25話 別れじゃない  (一時完結)

 ミスズは、家を出て侯爵家の別邸に移る。

「だからね、おうちを綺麗にして上げたかったの。立つ鳥跡を濁さずって言うでしょ?」

 すでに必要な荷物を運び出していた。愛子とヒカルがいない間にやってしまったらしい。後期の授業は別邸から学校へ通うのだと言う。

 寂しさを感じながらも、相変わらず明るい彼女には救われる。叔父の元へ行ってしまっても、きっと週末には顔を出すと言ってくれた。

 18歳の誕生日には、スコットランド観光の費用と同じだけの現金を、と言われたことを思い出し、銀行から現金を引き出して彼女に手渡した。

「覚えていたのね、ママ。ありがとう。」

 リビングのテーブルでお茶を飲みながら迎えを待つミスズは、驚いたように青い眼を丸くした。

「約束だもの。無駄遣いしないでね。」

 両手でそれを受け取って、中身を確認したミスズは再びをそれを封筒にしまう。

 そしてもう一度、愛子の手に戻した。

「・・・ミスズ?」

「引っ越し費用にしようと思ってたの。でも、必要ないって叔父さんに言われたから、返すわ。・・・ヒカルの学費の足しにして。芸術系の専門学校は費用が掛かるもの。」

「貴方だって必要だわ。引っ越し費用がいらなくても、何かと入用なのよ。」

「必要なものは全部叔父さんが出してくれる。遊びに使うお金は充分あるし。・・・あと半年で就職するアタシには必要ないわ。」

「ミスズったら、何言ってるの。これは貴方の18歳の誕生日プレゼントよ。ヒカルと平等に、いつだって祝って来たわ。ヒカルにだけ上げて貴方にだけ上げないなんてルールは認めない。貴方は私の娘でしょう?」

 少しだけ困ったように、娘が苦笑する。そんな笑い方、滅多にしない子だ。

「やめてよママ。・・・嬉しくて泣けてきちゃう。ママはこれからはヒカルとのことだけを考えて生きていくのよ?私の事はもういいのよ。」

「馬鹿言わないで。誰と一緒になったって貴方は私の子供だわ。アーサー様にセクハラされたら一番にママに言うのよ?とっちめてやるんだから。」

「やあねぇ、ママ。叔父さんはそんなことしないわよ。アンジェ様のが怖いんだから。」

 娘は苦笑いを笑顔に変えて、明るく笑って見せる。

 金茶色の髪が少し震えた。

「アタシがママにしてあげられることって、ヒカルとの仲を邪魔しない事だけだから。」

「ミスズ」

 身の回りのものだけを詰めた小さなボストンバッグを手に、彼女は今日、この家を出て行く。

 突然のようで、以前から予期していたこの日を、出来るだけ明るく笑って過ごしたい。気持ちよく彼女が出て行けるように。

 呼び鈴の音が響くと、部屋にいたヒカルが出てきて、玄関へ行く。

「ミスズ、アイザックが来た。」

 頷いてミスズが立ち上がる。

 愛子は返された封筒を彼女のボストンバッグに強引に押し込んだ。

 玄関のドアの向こうで立ち尽くす彼女の相棒は、軽く手を上げて挨拶する。愛子はそれに答えて笑って見せた。

「アイク、ミスズをどうかよろしくね。無茶をする子だから、よく気を付けてやって。」

 茶色の瞳が愛子の方を見る。それからおもむろに右手を差し出した。

 何度か会っているが、アイクに握手を求められたのは初めてだ。彼の手を両手で強く握る。

「お任せください。必ずお守りします。」

 強く手を握り返した彼が、低い声で言った。

 彼の声を初めて聴いた気がするけれど、こんなにも低い声だったのだ。ハンサムな外見に似合わぬ重低音に、目を丸くする。

「じゃあね、ヒカル。また学校で!」

「ああ。遅刻するなよ、ミスズ」

 双子の兄妹がハグし合って別れを惜しんだ。この二人は何故か、ハグはするけれど互いにキスはしない。母にはするのに、不思議だった。小さなころはしていたような気がするのだが。

「ママ!来週末にはきっとまた来るから。美味しいステーキをご馳走してね!」

 アイクの手を放すと、ミスズが割り込むように入ってきて養母を抱きしめてくれた。

「いいわよ。電話してね。・・・愛してるわ、ミスズ。くれぐれも気を付けて。」

「アタシも愛してるっ。いつでも幸運がママの元にありますように。・・・じゃあね!」

 元気よく踵を返し、小さな荷物を片手に道路の方へ消えて行く。片手はアイザックの腕にしっかりと絡めて。道路を横断し、さらに向こうの交差点へ弾んだ足取りで歩いて行った。その角を曲がってしまえば、もう見えなくなる。

 玄関で見送る母の視界から二人が消えた頃、背後に寄って来たヒカルが後ろから優しく抱きしめてきた。

「今日まで休みが取れててよかったわ。ミスズを見送ってやれたもの。」

 努めて明るくそう言う。

「うん、そうだね。」

「初めてアイザックが喋るのを聞いたわ。・・・ちょっとびっくりしちゃったけど、頼りになりそうな子でよかった。」

「大丈夫、きっとうまくやるよ。」

 言いながら、肩が震えるのを抑えきれない。

 目の奥がつんと痛んで、涙が溢れる。

「・・・泣かないで。僕がいる。」

「ええ、寂しくないわ。」

「ミスズの事なんか忘れちゃうぐらい、今日はいっぱいしてあげるから。アイコの部屋のベッドがいい。アイコのベッドは広いから思い切って動けるし。」

「ばっ・・・!昼間っから、何言ってんのよっ」

 涙で赤くなった目で睨んだ。でも、顔は赤くなっているのがわかる。ヒカルの大きな手が、愛子の顎を弄ぶようにさっきからくすぐっている。

「明日からまた仕事なら、今夜は早く寝なくちゃでしょう?じゃあ、昼間からたっぷり可愛がってあげなくちゃね。」

 これ以上の会話を世間様に晒すわけには行かない。

 慌てて玄関のドアを閉めて鍵をかけた愛子を、ヒカルが嬉しそうに笑って抱き上げた。

「やっと誰にも気を使わずに貴方と愛し合える。・・・ふふ、寂しがってる貴方には悪いけど、僕はさっさとアイクがミスズを連れ去ってくれないかなって、そんなことばっかり考えてたよ。ああ、せいせいした。」

「ヒ、ヒカルっ貴方ね、仮にも、双子の妹が・・・!」

「昨夜は一回きりだったから、今日はもっとしてもいいよね?」

 人の話を聞いてください。

 元々、言い出せば聞かない子だったのはわかっていたけれど、このところ彼の自己主張は激し過ぎる。

 そんな彼に、やっぱり逆らえない愛子は、それ以上何も言えず大人しく自分の部屋へ連行された。

 心の底で、来週からジムかプールへ通おうと決心しながら。 


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