第5章・後 ユズル2013-2014

1.すべてが失われた、はずだった

 瞬間に戻ってから……二週間が経った。

 シィナが降ってくることもなく、そのため遊園地に行くこともなく、マリカに会うこともなく……淡々と日々が過ぎて行く。


 だけどトーマは、明らかに変わった。

 この夏休みの二週間、トーマは大学もバイトもないはずだけど、なぜかどこにも遊びに行こうとはしなかった。

 見張っていた訳じゃないけど、アパートの隣の部屋だからすぐに分かる。

 学部の友人に誘われて一度飲みに行ったみたいだけど、それっきりだ。毎日、何だかボーっとしていた。

 そして……夕方になると、公園に出かけて行った。しかも、僕を誘って。


「何か……落ち着かないんだよな」


 トーマは不思議そうに首をひねった。


「何となく、ジョギングでもしていた方がしっくりくるんだよな」

「いいんじゃない? 健康的だし」


 僕が答えると、トーマは「そうだよな」とちょっと笑って走りに行った。


 ――やっぱり、何となく身体が憶えてる……って感じだよな。


 シィナがいたとき、トーマはシィナを守るために身体を鍛えようと、毎日ジョギングしていた。

 その近くで僕とシィナがフェルティガの訓練をする、というのがここ二週間ぐらいのかつての日課だった。それを忘れていないんだろう。

 でも、身体はともかく記憶の方は完全に消去されたはずだった。時の欠片を継承したシィナの力はすさまじいものだったし……。


 ――なのに

「ウルスラ……って何だっけ」

と、ある日突然、トーマが聞いた。


「えっ……」


 唐突過ぎて僕が戸惑っていると

「あ、ごめん。多分……夢の話だ」

と口ごもり、頭をポリポリ掻く。


 おいおいおい……。どうなってるんだ。

 この後トーマが『ウルスラ』という単語を発することはなかったけど、僕は急に不安になった。

 こんなことが続いたら、トーマの精神が壊れてしまうんじゃないか。


 不思議なことはまだある。

 僕は人の心を読むことができて……特にトーマは素直な性格で大声で考えることが多かったから、かなり読みやすい方の人間だった。

 勿論、読まれる方は嫌だろうし、普段はシャットアウトして読まないようにしているけれど。


 それなのに――トーマの心が、かなり読みづらくなった。

 今も、そう。読もうとしても……何かノイズのようなものが邪魔をする。

 記憶を視ようとしても、画像がひどく歪む。


 ――ひょっとしたら、シィナの時の干渉の期間だからかもしれない。

 シィナと別れた、あの時間まで進めば……トーマの歪みも、僕の力も治るのかもしれない。

 ……あのとき――彼女と会うときまでは、そう思っていた。


   * * *


 トーマが二泊三日の泊まりのバイトから帰って来て、僕はトーマと一緒にトーマの実家に行くことになった。

 僕の実家は母さんが亡くなったときに引き払っていたから、もうない。


 トーマとは小三からの仲だけど、トーマの家には行ったことはなかった。今回が初めてだ。

 ただ、トーマのおじいさんとは勿論面識はある。母さんの葬式のときはかなりお世話になったし。

 ただ、僕の左目が本当は紫色であることや、心が読めることは話してないと、トーマが言っていた。


「まぁ、そんなことを気にするようなじいちゃんじゃないけどさ。ユズが嫌かと思って」

「嫌ってことはないけど、気持ちは楽だね。ありがとう」


 僕がお礼を言うと、トーマがちょっと照れたように「へへっ」と笑った。

 トーマのこの笑い方は、小三の頃から全然変わらない。


 電車とバスを乗り継ぎ、僕たちが育った町に戻って来たのは、もう夕方だった。


「思ったより遅くなっちゃったな」

「バスが来るのが遅れたからね」


 バス停からトーマの家までの道を歩く。じとっとした汗が額に滲むのを感じた。


 ――今……ぐらいだろうか。シィナと別れた、瞬間。


 そう思った途端、トーマがふと足を止めた。


「……何か、変だな」

「え?」


 ドキッとして顔を上げると、もうトーマの家の前だった。僕が考え事をしている間に着いたらしい。

 トーマは玄関の戸をガタガタ揺らすと

「やっぱり、じいちゃん出かけてるな」

と少し不満そうに呟いた。どうやら鍵がかかっているらしい。


「そうなんだ」

「今日帰るって言ってあったんだけどな……」


 トーマはぶつくさ言いながら鍵を取り出すと、玄関の戸を開けた。


「勝手に入っていいの?」

「いいだろ」

「いや、トーマはいいけど……僕は、初めてお邪魔する訳だし」


 何となく、申し訳ない気がする。


「じゃ、探しに行くか。多分、神社だよ」


 荷物だけ玄関先に放り込むと、トーマは再び鍵をかけた。


「神社?」

「あの、木がいっぱいある石段の上の……」

「……ああ、あそこか」


 それは、僕も時々散歩に行っていた近所の神社だった。

 すごく古い大木があって……どう言ったらいいかわからないけど、何だか落ち着く場所だったから。

 母さんの話を聞いてから――多分、ウルスラと近い場所なんだろうなと直感で思った。


「じいちゃんさ、警察官だったって言っただろ?」

「うん」

「あれ、全然別の県で働いてたらしくてさ。この県とは何も縁がなかったんだって。たまたま非番の時にここに来て、あの神社に寄ったんだって。それで気に入って、退職後にこの町に来たんだってさ」

「……そうなんだ……」


 トーマのおじいさんもお気に入りなのか。

 でも……ここって、わざわざ観光に来るようなところかな……?


 そうこうしているうちに、神社に着いた。長い石段を登る。

 トーマがダダダッとすごい勢いで駆けあがっていった。僕はそこまで体力はないので、走ってゆくトーマの背中を見ながらゆっくり歩いて石段を登った。


「じいちゃん! やっぱりここにいたかー!」


 石段の一番上に着いたところで、トーマが大声を上げた。


「……トーマは元気だよね……」


 僕は独り言を言いながら石段の一番上まで登った。

 見ると、トーマが「今日帰るって言ってあったのに……」とぶつくさ言いながらおじいさんの方に駆け寄るところだった。

 おじいさんは若い女の子とベンチに腰かけていた。

 トーマを見て

「ああ……悪い、悪い」

と言ってベンチから立ち上がる。


 ところで、この女の人は誰だろう? 多分、僕らと同じくらいの年齢の……小柄な女の人だ。


「え、あの……さっきの……」


 彼女が慌てて立ち上がって何か言いかけようとしたけど、おじいさんは黙って首を横に振った。

 二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。


 ――何だろう。何か……違和感がある。


 僕は申し訳ないと思いつつ、彼女の心を読もうとした。

 やはり、これからお世話になるトーマのおじいさんに術を仕掛けるのは気が引ける。まずは得体のしれない彼女から――と思ったのだが。


「……?」


 おかしなことが起こった。心も――記憶も、全く視えない。

 どれだけ集中しても、フェルティガを注ぎこんでも、何も視えてこない。

 ノイズとか歪みとか、そんな問題じゃない。何も……全く何も効いていない。そういう感じだ。


 何だ? どうしてだ? こんなこと、初めてだ。

 そう言えば、母さんも……いや、違う。母さんの場合は、障壁シールドされて力が弾かれた、という感じだった。シィナが拒絶したときも、そうだった。


 でも、そうじゃない。彼女の場合は、僕の力をどんどん呑み込んでいる感じがする。僕の力を、完全に無効化しているってことだ。

 こんな人間、初めてだ。何が起こってるんだ?


「ユズ? どうした?」


 トーマが僕の腕を掴んで激しく揺すった。


「あ……」


 僕はハッと我に返った。とりあえず頭を下げる。


「すみません、ちょっと考え事……してて……」


 どうにかそう答えたけど、まだ冷静にはなれなかった。

 何が起こったんだろう。彼女は……何者なんだ?


 僕の背中に、冷たい汗が流れた。

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