本棚の奥に隠すものといえば、なあ?

「意外と綺麗なのね」

「当たり前だろ」


 背中に汗がしたたっているが、これは駅まで急いで橘を迎えに行ったからだ、ということにしよう。

 

「あんまりじろじろ見るな」


 彼女はロングスカートをふわりと靡かせながら、ぐるっと値踏みするように部屋を見回している。

 正直、気が気でない。ちゃんと掃除も片付けも徹底したはずだが……。


「見られたらまずいものでもあるの」

「まさか。好きに見てくれ」


 売り言葉に買い言葉。

 思わずそう返すが、全神経は本棚の一番下に集中していた。


「ふーん、まあそうよね。これから一緒に住むんだし」

「やっぱり俺たち夫婦になるんだな……」


 当たり前のように橘は言っているが、俺にはまだ現実味が感じられない。

 こういう時の踏ん切りの良さは、やはり彼女の方が圧倒的に上だった。


「もう婚姻届も自分たちだけで出せるけれど、とりあえずは事実婚とするのが妥当ってところかしらね」

「まあそうなるだろうな」


 そうなるのか……?

 確かにいきなり区役所に婚姻届持ってくわよ、なんて言われるよりかは幾分かマシか……。

     

 座布団を用意して、橘に座るよう促す。

 あら、気が利くのね? という皮肉を頂戴しつつ、俺も向かい合うようにして座った。


「じゃあ事実婚から始めるとしてだな」

「ええ」


 プライドも手伝って俺も覚悟を決める。

 固定概念という鎖に繋がれ、新しい価値観を受け入れられない悲しい大人じゃないんだ。

 俺は自分たちで導き出した新理論に、意地でも食らいついていくことにした。 


「あ、でもすぐに籍を入れる予定よ」

「スグニ?」


 覚悟二秒後に振り落とされた。

 いや待て。思考過程抜きで結果だけ話す橘にも非はある。


「だったら何故いまじゃないんだ? ちゃんと説明してくれ」

「いくら私たちに信頼関係があっても、それは一緒に暮らせるかどうかとは別問題でしょう?」

「暮らしてみると、考えや価値観が違って揉めたりというのはよく聞くな」

「そう。だからお試しで一緒に生活してみて、上手くいきそうなら……って感じかしらね」

「なるほどな」


 論理としては納得できるものだったので、柔軟な頭の持ち主である俺は何も戸惑わない。

 橘に意表を突かれっぱなしで悔しいが──というかこいつは故意に突いて楽しんでいるが、今はこれからのことを取り決めていくべきだろう。

 ……ったく、橘はいつまでも子供だな。


「そもそもまずどこで暮らすんだ? いや、ここでいいか」

「え、ここ? 二人では少し狭いし、その……」

「ん? どうかしたか?」


 橘がベッドの方をちらちら見て、顔を仄かに赤らめている。

 流石にシングルベッドで一緒に寝るなんてことは到底できないだろう。

 橘の言い淀む姿に思わずにやける。


 お子様なのはお互い様だったな。

 とりわけ橘に対して、俺は昔から負けん気が強い。


「ええ、まあそうね」

「うん?」

「万が一相性が悪かった時に、部屋を借りていたりしたら色々と面倒だし。ここにしましょう」

 

 ・・・えっ?

 すましたような顔でそう言う彼女は、どこかほくそ笑んでいるようにも見える。

 ここで俺が戸惑いの表情を見せたらこいつの思う壺だ。

 あくまで冷静沈着に。

 

「じゃあ新しい布団をもう一式買わないとな」

「要らないわ」

「はあ?」


 おいおい、どういうことだ。

 脊髄反射で驚きの声が漏れる。目の前の橘に目で説明を求めた。

 なぜ驚くの? とでも言いたげな素っ頓狂な顔で──勿論演技であるが、彼女は事も無げに口を開いた。 


「だって私、毎日ちゃんと実家に帰るもの」

「へ?」 

 

 思わず間抜けな声が出てしまった。

 みるみるうちに口角をつり上げ、勝ち誇ったように笑う橘。


「あら、そんなに一緒に寝たかったの?」

「い、いや! 夫婦といえばそうだろ……!」


 俺は何も間違ったことを言っていないのに、なぜこうも翻弄されなければいけないのか。

 ううむ。もしや橘、以前に比べて会話の腕を上げたな?

 いや、寧ろ俺が大学で人間と会話してないばかりに力が劣ったか? それだな。


「つまり、事実婚とはいえ半同棲から始めるってことでいいのか?」

「そういうこと。一度も朝帰りしたことのない真面目で可愛い娘が、突然一度も帰らなくなったらびっくりでしょう?」

「そう、だな」


 可愛いか否かはともかく、橘はいつも真面目に千葉から東大まで実家通いをしている。

 通学時間は約一時間半と、けして短くないが、父親に下宿の反対を受けたそうだ。

 

「じゃ、まずは夕飯ここで食ってくだけって感じだな」

「ええ。どうせ料理なんてしてないんでしょう?」

「まさか、弁当まで作って持って行ってる」

「あなたがそんなことしていたら、この季節に毎日台風ね」

「違いないな」


 くだらないやりとりに二人して笑い合う。

 余計な気疲れも、気遣いもなく。

 

 自分のことを理解してくれている。

 相手のことが理解できている。


 たったそれだけのことで、心に温もりが寄り添うかのような安心感に包まれていた。

                     

「思ったよりも上手くいくのかもしれないな」

  

 ポロっと心の本音が口を衝くと、彼女が少し目を見開いてこちらを見た。

 そして一呼吸おいて、まあそうねとだけ小さく零す。


「ところで私は、掃除はしない方がいいのよね?」

「え、ああ……」


 照れ隠しか何かなのか、すぐに話題を逸らした橘。

 まったく。こいつのこういう素直じゃないところは、本当に可愛くないな。

 

「だって、見られたら恥ずかしいものもありそうだもの」

「え・・・」


 彼女はにたーと笑って、横目に俺の背後の本棚の一番下を見つめている。

 

 しまった、ばれていたのか……。


 ふふ、と目の前からアルトの笑い声が聞こえてくる。

 困惑する俺を見て、さぞ満足そうだ。いや本当に可愛くないなこいつ。


「意外。一瀬でも成人誌とか持っていたりするのね」

「は? セイジンシ?」

「それを隠そうとしていたんでしょう?」

「……はあ。なんて失礼なやつだ」


 ため息をつきながら立ち上がって、本棚の一番下、更にその奥からある本を取り出す。

 それを橘に手渡すと、彼女は眼をキョトンとさせた。


「ね、猫の写真集……?」

「ああ、そうだ」


 正直、そんな可愛いキャラでもないので、特に橘には見せたくなかったんだが。

 こいつが思わぬドジを踏んでくれたおかげでそんな恥はどうでもよくなってしまった。


「へえ、橘はそういう本に興味津々だと」

「ち、違うわよ!」

「はっはっは、どうだろうなー」


 今日は防戦一方だったが、なんとか一矢報いることができて非常に満足だ。

 

 悪いな、橘。


 俺はもっぱら、そういうのは電子書籍派なんでね。

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