もっとも強いもの(1)

 無数のマリオン・ウェインライトが、押し合い、へしあい、絡み合って、途轍もない大きさの蛇をかたち作った。めちゃくちゃに折り重なった手足は奇形の鱗のように見え、わさわさとせわしなく動いている。蛇は五つの金色の瞳を持ち、天をつくほどの高さで鎌首をもたげ、アリソンと煙の魔術師を見下ろしていた。


「ふざけるなよ……」と、コーシャーソルト氏は端的に感想を述べた。その表情に余裕はなく、冷や汗が頬を伝っている。

 マリオンに演算能リソースのほとんどを食い尽くされてしまったアリソンは、這いつくばったままコーシャーソルト氏の背中に問いかけた。


「先生……もう一度、さっきの……さっきの、はできないの?」


「無理だ。時間がないし、これは……大きすぎる」


《烟霧》の固有術理は、その性質から極端に不意打ちや騙し討ちに特化している。コーシャーソルト氏自身の性格と同じように、正面切っての喧嘩にはてんで向いていないのだ。いわんや殺意をむき出しに襲いかかる相手を前に、ぷかぷか煙草をやっている暇などありはしない。


 虫を見る目でふたりを見下ろしながら、大蛇は言った。


「「「おまえたちは……どうして、ひとの気持ちがわからないんだ? 私はただ、生きていたいだけなのに。より善い身体で、より永くありたいだけなのに!」」」


 アリソンはぎょっとして絶句した。おそろしく身勝手で自分本位な物言いだったからだ。

 コーシャーソルト氏も同意見のようで、失望に近い表情を浮かべていた。敬重すべき古き魔女の、その願いの成れ果てがこれだとは。


 子供じみた、とすら言えない手前勝手な言い分に、やっとの思いで声を出し、アリソンはマリオンに問いかける。


「……あなたは、生きて、どうしたいの」


 大蛇は短く、くだらない質問だとばかりに低い声で答えた。


「「「ただ、永くありたい。あの本や、あの本のように」」」


 アリソンは悲しいような、腹立たしいような気分になった。すでにわかっていたことだけれど、マリオンは――この大魔女の残滓には――まるっきり話が通じない。

 なんのために生きるのか、なんのために善く有ろうとするのか。そういったものが、この偽物のには、すっぽりと存在しないことが演算野を通じて伝わってくる。

 このいのちには、祈りと呼べるものが、皆目存在しないのだ。


「やっぱり……あなたには、わたしの身体はあげられない」


 改めて、アリソンは心からそう思った。はなからそんなつもりはなかったけれど、ただ永らえたいだけの、からっぽのいのちの出来損ないに、譲ってやる席などないと思った。


「「「そうか。では消えてくれ」」」


 マリオンは言った。彼女たちのほうにも、もう話すべきことは残っていないようだった。


「「「【Aktivigo,発理、】」」」


 大蛇の全身に、理力の青い光が無数の蛍のように灯った。光のひとつひとつが、音を置き去りにする速さで敵を鋭く撃つ、魔法の〝矢〟の光だ。放たれれば、たちどころにふたりを穴だらけにするだろう。


「ミス・シュリュズベリー!」と、コーシャーソルト氏がほとんどやぶれかぶれで叫んだ。


「275ページ! 思い浮かべろ!」


 言われるがまま反射的に、挺身騎ていしんき、と。強く

 激発された矢の雨がふたりを穿つ寸前、騎士の国ダーム・デュ・ラックの対魔術兵装――理力を弾く金剛鋼の輝く具足が、煙の魔術師の全身を覆った。アリソンの脳みそが世界の力学と法則を破綻なく計算し、完璧に近い精度でそれを再現する。対魔の鎧はアリソンを脇に抱え、信じられない力で跳躍する。すんでのところで矢を避けて、コーシャーソルト氏は悲鳴を上げた。


「死ぬ、死ぬ、死ぬ!」


 頭を覆う兜のひさしや、鎧の隙間から大量の血液が吹き出して、アリソンの身体を汚す。

 挺身甲冑を無理やり筋骨に縫い止めるためのボルトが、内部で彼の身体をむちゃくちゃに突き刺しているからだ。


「ごめんなさい!」


「いいんだ! その調子だ! もっとだ! ……948ページ!」


 しゃんたく鳥、と

 アリソンの脳みそが痛みとともに目まぐるしく回転し、鎧の背中を突き破って、ガラス質の羽が生えた。巨大で、力強く、とても速い、極彩色の翼。

 けれど、獰猛で気難しいその本来の持ち主と同じように飛ぶことはできなかった。自由に飛ぶには重すぎるのだ。アリソンの法則は公平で、自分勝手な都合の良さを許してはくれない。

 それでも何とか滑空し、矢の雨あられを回避する。


「ままならないな、そう真面目だと!」


 魔術師は叫びながら、空を滑り降りて着陸し、アリソンを物陰に隠す。


「もっと強く!」


 煙の魔術師が雄叫びを上げ、アリソンは〝鋭角の犬ティンダロス

 アリソンの脳みそが焼き切れそうに回転する。コーシャーソルト氏の右腕がねじれ、すき間の猟犬、その口吻に作り変えられる。不潔な注射針によく似た、鈍い光をたたえた触腕だ。

 触腕が意思を持った投げ縄のように伸び、大蛇の顔面を斬りつける。巨大な蛇の化け物にはでも、大した脅威ではないようだった。お返しとばかりに撃ち放たれる矢の雨を必死でかわしながら、コーシャーソルト氏はさらに叫ぶ。


「……もっとだ!」


 アジ・ダカーハ、と。煙の魔術師の頭が裂けて、三つ首の竜に変わった。悲しくもないのに目尻から涙がとめどなく溢れて、視界を赤く歪める。頭のどこかがパンクして、血の涙が流れているのだ。


 都市を焼き尽くす地獄の業火を吐き散らしながら、まぜこぜの化け物になったコーシャーソルト氏が、竜の頭で辛うじて人間の言葉を発音する。


『もっとだ! あいつを倒せる力を!』


 アリソンは、自分の頭の中を必死で探した。

 逆境に立ち向かい、挫けず、折れず、強大な敵を倒しうる力を持った、正しい存在を強く強く強く願った。

 視界は真っ赤に濡れ、鼻血で溺れそうになった。頭痛と吐き気は止めどなく、胃酸と鉄錆の味が舌に広がる。耳の奥が詰まり、きんとした。

 限界に近い負荷の中で、アリソンは自分の脳内を、膨大な自由律百科事典の目録を、凄まじい速さでり送る。

 

「あっ」


 ひとつのページに思い当たったとき、煙の魔術師の身体が輝き、紫色の花火のように爆ぜた。


 魔女の国の空を揺蕩う、死者の魂の輝きの色だ。光が萎むように消え、あとにはひとりの女の子が立っていた。


 やせっぽちで、ちびで、猫背の、やぼったい茶色の巻き毛。ぐりぐりとした黒目に、右手には紫檀の重たい箒を持っている。


 ――ニナ・ヒールドはエルダー・シングス魔術学院の競技滑翔スカイ・クラッド代表箒手です。

 と、

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