夢渡り

 空間を吹き抜けた灰紫の風が、渦巻いて一カ所に集まり、人の姿をかたち作る。下から順番に、煙の粘土をこねるように。

 マリオンたちは警戒の色を濃くし、アリソンを取り押さえる数人だけを残して、煙人形に向かって油断なく身構えた。


『もう大丈夫』


 くぐもった声で煙がアリソンに向かって言う。


 アリソンは涙がこぼれそうになったけれど、それはなんとか堪えることができた。

 いなくなってしまったと思われた友人が、帰ってきたのだ。歓喜の渦が胸の奥に広がって、身体全体が打ち震え、ふくらはぎのあたりから、希望と勇気と力が湧き上がってくる。


 アリソンは、たまらなくなって叫んだ。


「フリント!」


 アリソンの声に、煙人形がびくりと身を震わせた。何かに戸惑うような様子だった。煙がディテールを帯び、質感と、重さと、色を纏うにつれ、その理由がアリソンにもわかった。


『あー……』


 実体を伴うにつれ、煙の声は明瞭になってゆく。低く、気だるそうな声だった。

 アメジスト色の瞳は、べたべたと素手で触ったみたいに曇って澱んでいて、かけた眼鏡も同じように油ぎっていた。髪の毛はぼさぼさで、ついさっきまで寝ていたかのようだ。身に纏う黒いローブは毛玉だらけで、手の甲には毛が生えている。

 煙がかたちを成したのは、うらぶれて、くたびれた、無精髭のおじさんだった。


「少しの間に、なんだか……気さくになったみたいだね。ミス・シュリュズベリー」


 くわえ煙草で器用に口を動かして、くたびれたおじさんこと、《烟霧えんむ》の魔術師、フリント・クラーク・コーシャーソルトは言った。


「先生……」


 アリソンは本気で落胆した。

 フリントが、旅を共にした友人が、本当に戻ってきたと思ったのに。コーシャーソルト氏はフリント・クラーク・コーシャーソルトその人であるから、フリントであることには間違いない。それは間違い無いのだけれど、でも、本当に嬉しかったのに。


 ミスター・コーシャーソルトはそれきり押し黙ったアリソンを一瞥し、それからマリオンたちに向き直って、くわえ煙草のまま、礼儀正しく伝統的な魔女のおじぎをした。


「初めまして、いにしえの大魔術師、マリオン・ウェインライト。我が身、我が憧憬、我が忌み名は煙。《烟霧》のフリント・クラーク・コーシャーソルトと申します。お会いできて光栄です」


 マリオンたちはおじぎには答えず、ミスター・コーシャーソルトを上から下まで観察して、それから声を揃えて言った。

 

「「「〝夢渡り〟の秘術か」」」


 コーシャーソルト氏は片眉だけを上げ、それに答える。


「流石のご明察」


 答えてから、吸い終わった煙草を捨て、新しい煙草に火を付けた。


 夢渡り。

 意識の深層に眠る集合的無意識を橋渡しに、他者の夢に侵入する魔術的儀式のこと。高度な精神の同調を必要とし、リスクとして肉体的な反作用を伴う。

 と、。思うと同時に、眠りにつく前の出来事を反芻していた。ミスター・コーシャーソルトの作った祈祷薬は、確かに二本あったことを。煙の魔術師は、アリソンが眠りについたあと、自らにもその薬を使ったのだ。


「ひどい旅路でしたよ。なんというか、子どもの見る夢は、もう少し夢と希望にあふれた、都合の良いものでないと」


 世間話をするように、コーシャーソルト氏はへらへらと笑ってマリオンに言った。煙草を捨て、新しい煙草に火を付ける。見ようによっては権威におもねっているように見えたから、アリソンはさらにがっかりとする羽目になった。


「「「それで、《烟霧》の魔女は何の用でここに?」」」


 マリオンが言った。突然の闖入者の態度から、目的を測りかねているようだった。


「仕事です」と、コーシャーソルト氏は言った。「それから、〝魔女〟は差別的表現です。魔術師と」


 マリオンたちは、寸分違わない動きでコーシャーソルト氏の抗議を鼻で笑った。ふん、という、空気が鼻腔を抜ける音が重なって、とても大きな音に聞こえた。どうやら古き編纂者は、性差による差別の解消にはあまり興味がないようだった。

 コーシャーソルト氏は続ける。


「……僕の仕事は教師です。不本意ながら、どんな生徒でも守り、教え導く義務と責任がある。どんな生徒でも、です。わかりますか?」


 いったん言葉を切り、煙の魔術師はマリオンの返答を待った。マリオンたちはミスター・コーシャーソルトの問いかけには答えなかった。ミスター・コーシャーソルトはくわえた煙草を地面に捨て、即座に新しい煙草に火を付けた。

 アリソンは魔女たちにいましめられたまま、「わたしの中でぽこぽこ煙草を吸ったり捨てたりしないでほしい」と強く思った。実際にやられてみると、すごく汚された気分になる。

 コーシャーソルト氏は、そんなアリソンの気持ちなんてお構いなしに、大きく煙を吸い、まずそうに吐いた。辺りに揺蕩う煙は、すでにほとんど濃霧のように見える。


「本当は向いてないんですよ。子どもなんて嫌いだ。どいつもこいつもお菓子の袋みたいにきらきらしていて、前を向いていて、浅はかだ。いつだって自分のことを無謬で、価値のあるものだと思っている」


 本当に嫌そうに、苦り切った顔で、吐き捨てるようにコーシャーソルト氏は言った。恐ろしい憂鬱のシーツを頭からかぶっているように、その顔は暗い。


「ものを知らないくせに頭だけは回って、愚かで、素直で、狡猾で、夢見がちだ。純粋に世界で一等美しい時間がずっと続くと信じ切っているのに、自分の足下を見ることすら不安がる。ちぐはぐが服を着て歩いているんです。大人になりかけの子どもっていうのはそういう子たちで……教師ってのは毎日が戦争なんです。本当に、本当に嫌になる。……でも、未来だ。この子らは、僕らと違って」


「「「何が言いたいのかな、夢渡りの道化。」」」


 マリオンたちは苛立ち、語気を強めて言った。彼女の苛立ちはでも、仕方のないことだった。夕飯時にごちそうにありつこうとしたその瞬間に、不審者がどこからともなくやってきて勝手に座り、いきなり仕事の愚痴を吐露しはじめたみたいなものだ。誰だって不快に思うだろう。

 ミスター・コーシャーソルトは寝ぐせ頭をぼりぼりと掻き、ため息を吐いた。吐き出された煙に、マリオンたちは不快に眼をすがめる。


「そんなこともわからないのか」


 呆れたように吐き捨て、煙草の吸い殻を指で弾いて捨てる。吸い殻は勢いよく飛び、マリオンのうちのひとり、その額にぺちりと当たった。


「過去が未来を奪うな、老いぼれ」


 喧嘩を売られている、ということに気づいたマリオンたちの顔が、攻撃的な笑みに浮かんでゆく。こめかみには青筋が走り、金色の眼がらんと輝いた。


「「「大きく出たね、坊や。だったら、お前が取り戻してみるといい」」」


 数十人からのマリオンの群れが、まるで槍ぶすまのように、一斉にミスター・コーシャーソルトを指差した。ほんの数瞬のあと、つるべ打ちの〝矢〟が彼を穴だらけにするだろう。


「そうさせてもらいますよ、仕事だから……それで、もう十分


「「「なんだと?」」」


「【Fumu ĝin.じゃあ、死ね】」


 その場にいたコーシャーソルト氏以外の人間には、なにが起こったのか全く理解することができなかった。

 彼がたった一小節の呪文を唱えると、五十人近いすべてのマリオンが、前触れなくばたばたと地面に倒れた。アリソンを押さえつけていたマリオンたちも例外ではなく、彼女の上に折り重なるようにしてくずおれた。

 古魔女たちは、皆揃って口から泡を吹き、青黒い顔に苦悶の表情を浮かべている。肌は水ぶくれだらけで、変色した木いちごを思わせた。


「なにが……」


 何が起こったのか、とアリソンは問いかけようとして、その言葉を途中で飲み込んだ。聞く意味がなかったからだ。どう甘く見積もっても、全員が完膚なきまでに絶命していたからだ。

 アリソンには知る由もなかったけれど、煙の魔術師の肺腑、煙草のでぎとぎとになったその内臓には、びっしりと付与の術理が刻まれている。吸い込んだ煙を、任意の毒に変性するための術式だ。

 変性される毒煙の種類は多岐にわたり、それは「特定の誰かだけを殺す毒」や「術者の理力の激発に反応して発症する毒」を含む。


 卑劣で、狡猾で、名誉のない、《烟霧》の固有術理。薄汚れた静かな悪のふくろ


 敵の目の前で、呪文を唱え術式を構築する必要なく、ただ静かに理力と煙を練り合わせ、音もなく敵の体に侵入させる。迂遠で益体もない長話は、全てのマリオンたちにたっぷりと毒の煙を吸い込ませるための時間稼ぎだった。

 術理を誇示する太古の魔女とは最低の食い合わせだろう。なにしろ、魔術の撃ち合いそのものを拒否しているのだから。


「なんでもいいよ……早く帰ろう」


 コーシャーソルト氏はそう言って、へたり込むアリソンに手を差し伸べた。アリソンは少し迷ってから、その手を握り返すことにした。コーシャーソルト氏の手のひらは、思っていたよりも硬く、ごつごつしていて、かすかに煙の臭いがした。


「先生、」


 アリソンが言いかけて、鼻の下に温かく湿った違和感があるのに気づいた。左手で拭うと、べっとりとした赤い血が流れ出ている。どくどくと流れる鼻血は、口から顎をつたってアリソンのシャツを汚した。


「……なんなの?」


 先ごろからの頭痛が、一向に収まらない。どころか、どんどん強くなってゆく。頭蓋の中で嵐が吹き荒れるような痛みと不快感。流れる鼻血はとめどなく、シャツを染め上げる血はほとんどなにかの虐殺の後のようだった。


「ミス・シュリュズベリー……」


 つぶやいたコーシャーソルト氏のこわばった顔は、まるで蝋石のように固く青ざめている。彼の視線はアリソンの背後、ずっと遠くを見つめていた。


「隠れろ、すぐに」


 言うなり、コーシャーソルト氏はアリソンの腕を力の限り引っ張り、彼女を乱暴に後ろに投げ飛ばす。

 肩が抜けそうな痛みと、地面に叩きつけられた衝撃。アリソンが見たのは、煙の魔術師の背中とその向こう、ぼろきれを纏った肌色の津波のような、千人を超えるマリオンの大群だった。

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