第5話 おはようございます



「おはようございます!」

「うおっ。」



突然の挨拶に思わず変な声を出して、

つまずきそうになる。




「うおっ!だってぇ!」

「だっさ!」



振り向くとそこには、

黄色い帽子を被り

ランドセルを背負った近所の坊主2人が、

キャッキャッと笑いながら俺を指さしている。



釣られてへらりと笑ってしまったが、他の人にしたら問題になりかねない。



町内会の集まりでよく会って

気は知れているし、家族ぐるみの付き合いだ。

びしっと注意してやろうと目線を合わせる。




「あのなあ、驚かせんじゃないよ。

 母ちゃん達に言うぞ。」

「別に言えばいいよ!」

「お?えらく強気だなあ。」



思わぬ反応で呆気にとられた。


2人はランドセルを前に回して腹で抱え、

留め金をパチンと外し、

かぶせの隙間から手を差し入れて

ぐちゃっとしわの入った画用紙を

引き出し掲げた。




「あいさつ運動週間?」

「今日から色んな人に挨拶して、

 朝の会で誰に挨拶したか発表するんだぜ。」

「一番挨拶したら表彰されるんだよ!

 ぜってえ負けねえ!」

「へえ、自己申告制ねー。平和だわ。」

「怒られるどころか母ちゃん褒めるって!

 な?」

「うん!」


なるほどな。


どおりで、

普段は母ちゃんの雷を恐れている

康平と健太が、珍しく強気なわけだ。



しかし、ここで折れる俺じゃない。


ぴんっとひらめいてにやっと笑い、

顔をぐっと近づけて脅しをかける。



「だからって突然後ろからでけえ声で

 驚かせて良い訳がねえだろ?

 このこと先生が知ったら

 どうするだろうなあ?

 表彰もらえねえかもなあ?」



得意げな俺を冷たい目で見てくる2人。

健太が口を開いた。



「歩きたばこ禁止だぜ。おっちゃん。」



思わぬ言葉にうっと言葉が詰まる。



目線を宙に泳がしながら

ゆっくりと上体を起こした。



変な姿勢をとっていたせいか

腰がぎりっと痛む。



煙を一吹きしてから、

静かにきざみが大分残っている煙草を

惜しみながら携帯灰皿に押し込んだ。




「ああやってえらそうに説教すんのが

 ダサいんだよな。」

「結婚してなくて話聞いてくれる奥さんが

 いないからかわいそうって

 母ちゃん言ってた。」

「先生が保健の授業で言ってたよな。

 肺が真っ黒になるってさ。」

「なんで吸うんだろうな。大人って。」




済ました会話をして去っていく

後ろ姿を見ながら、

(そういえば来年になったらもう高学年か。)ということを思い出していた。







「あんた、知らなかったの?

 ほんと回覧板見ないんだから。」



今朝の散歩であったことを、

食器洗いをしている母さんに話せば

間髪入れずに飛んできた説教。




別にこの年になって

親に慰められることは望んじゃいないが、

間髪いれずに責められれば流石さすがにへこむ。


我が家特性の焦げたハンバーグの味が

一瞬感じられなくなった。



「ちゃんと紙が挟まってたわよ!挨拶週間が始まるのでご協力お願いしますって。」




回覧板を見ずに回しているがばれてしまった。

次からはちゃんと中身を見ておこう。



じゃあ、あれも挨拶週間の一環なのだろうか。




「挨拶週間って地域でやることなのか?」

「はあ?違うわよ!

 本当に見てないんだから。

 小学校だけの取り組みだってば。」

「そうだよな。」

「なによ、急に。」

「いや、

 家の前で知らない人に挨拶されんだよ。」

「ええ~?

 誰か引っ越してきたっけ・・・あ。」




何か思い出したのだろうか。

母さんがエプロンで手を拭きながら

左上を見上げる。



「あ?」

「そういえばほら、

 健太君達が通ってる小学校。

 最近、新任の先生が来たって聞いたわよ。」

「へえ。じゃあその人か。」

「確かあんたの同級生だって言って

 盛り上がったんだけど…

 誰だったっけな~…。」

「え?知ってる奴じゃなかったけどなあ。」




その時のことを思い出す。




煙草を中途半端に止めたせいか、

気分が落ち着かなくなって

早めに散歩を切り上げて帰ったんだ。



(今夜は出勤か。

 団体客とか来ないといいな。

 何年も働いてるけどあれの対応はきつい。)


とアルバイト時代から働いている、

駅前の居酒屋のことを考えて

気持ちが少し暗くなっていた。



さっさと煙草吸わないとな、と

あくびをした時だ。



「おはようございます。」



変なタイミングで呼び掛けられて、

喉の奥に眠気をまとった空気がこもる。



家の前に立っている電柱の側に、

こちらに身体を向けた女性がいる。


目が合うと、

口角を上げただけの笑みを浮かべた。



まず、誰だ?と思った。

見たこともない人だ。



でも、向こうは視線をそらさない。


もしかしたら、自分が忘れているだけで、

どこかで会っていたのかもしれない。


驚いて声が上手く出せなかったから、

軽く会釈だけ返してそのまま家に入った。





「ねえ、聞いてんの!?」

「えっえっ、何?」

「だから、どんな人だったって聞いてるの。

 それ聞いたら思い出せる気がするのよ。」

「お、ああ。えーと。・・・あれ?」




変だ。



今朝会ったばかりなのに、全く思い出せない。

女性だったことは確かだった。




「やっべえ。思い出せないわ。」

「やだ、歳?

 あんたもおじさんになったのね。」

「まだ20代だよ…。アラサーだけど。

 あ、やっべ。こんな時間だわ。行ってくる。

 帰るまでには思い出す!」

「仕事に集中しな!

 気をつけて行ってらっしゃい!」



荷物をひっつかんで駆け足で玄関に向かう。



半歩外に出たとき、

母さんが何か言いながら笑顔で走ってきた。



その手には、

まだ泡が付いたままの玉杓子が握られている。



開いたドアを閉じないように片手で支える。



急いでいるから背中越しに

「何?」と乱暴に言う。




「思い出した思い出した!

 新任の先生、

 あんたと同級生の陽太君だよ!」

「え?」



手から扉が滑って、ガチャンと閉まった。



(陽太…?

あの、野球部だった陽太?)



ガタイが良かったのは覚えている。

大人になって雰囲気が変わったからって

女に見間違えるわけがない。



(ってことは…俺に挨拶してきたのは

 誰だったんだ?)



例の電柱が視界の端に入り、

ビクッと体を震わせてそちらを見るが

誰もいない。



中庭の隅に停めているバイクの側に立って

フルフェイスのヘルメットを被れば、

自然と仕事のスイッチが入って冷静になる。



(ただの知らない人だったから

印象が薄くて覚えられなかったんだろうな。)



荷物をトップケースに押し込みながらふと思った。

そういえば、俺はなんで女だってことだけ覚えてたんだっけ?て。




バイクにまたがった瞬間、はっと思い出して呟いた。





「髪だ。」



髪が長かったんだ。



目と口が辛うじて分かるぐらいに顔の左右を、

腰まである長い髪で隠した白いワンピースを着ていた。






ギッシと後ろが沈む。


誰かが、乗ってきた。


冷汗が額から流れて、鳥肌が立つ。



無意識に背後を確認しようと見てしまった

サイドミラー。



そこには俺の肩越しに、あの女が映っていた。




まっすぐこちらを見ながら、

下瞼をせり上げ三日月のように細めて、

にたりと笑った。



そのまま大きく開いて見えた口の中は、

ぽっかりと開いた穴のように真っ黒だ。





耳じゃない。




頭の中に、

あの時とは違う

妙に高い歪んだ声が響く。






「おぉはよをうぅござあいぃます」



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