第5話 手を挫くマーシャ


 要は稼ぎだと、うそぶいた事がある。

 例外的な稼ぎになる、だから運び屋になったのだと。


 月15ドル。これが大抵の者の稼ぎだった。

「連帯」の結成する数年前まで、その額は変わらない。

 一方で肉の値段は去年、5割引き上げられた。

 運び屋なら、一度に3000からを稼ぐ。

 要は密輸だ。海外遠征できる登山家は、お陰で人気の職業と来る。


 貨幣の強さを考えると、その差はさらに開いていく。

 1年前の100ズロチとの交換、それが今や120ズロチだ。

 外貨を持つ。ただそれだけで、使える額は増えて行く。


 だが。


 稼ぎだけなら、何も連帯に加わる必要など無いはずだ。

 党に、引いては背後、ロシアに歯向かう類の真似など。

 制約が終われば、この稼ぎもまた終わりを告げる。

 密輸とは、そこに制限あってのものだからだ。

 自由が来れば必然、不自由ゆえの旨味もまた失われる。


 際限ない考えを浮かべ、マーシャは苦痛を紛らわせる。

 左手首。その外側だった。

 上着に、血がにじんでいく。


「……やるじゃねえか」

「マーシャちゃん」

「来るな」


 触れられる訳にはいかなかった。

 いま、こちらに触れられては。


「来るんじゃねえ」


 傷口を触りそうになる右の手は、意志の力で黙らせた。

 左手の指、一本ずつに力を入れる。

 筋肉を動かすたび、血が湧く感覚。

 だが動かせる、大事ではないはず。

 顔をしかめながら、そう判断する。


「派手なだけだ、大したことじゃねえ」

「救急車を――」

「そしてそのままブタ箱行きか。じきにここの主が来る、手当てならそいつにしてもらう」


 強がりではある。

 だが全てが嘘でもない。


「良かった」


 ユスティナは感情を隠そうともしない。


「――ごめん。良くはないけど――でも、良かった」


 泣いてこそいない。

 泣いていないと言うだけだ。


「――なんで、こんな事に」

「なんで、か……認めたんだったな。認めるには、何か証が必要だろうな……昔話、してやるよ。つまんねえ昔話だ」


 ポーランドではありふれた、それはただの昔話。


「祖父は2人とも、地下水道に行ったのだとさ。ドイツ野郎を蹴散らしにロシアが攻めてくる、対岸まで来た今が蜂起の時だ……そうしてロシア野郎はたっぷり5ヶ月、対岸で止まりやがった。結果は知っての通り、40万の余計な屍。ワルシャワは廃墟。祖父1も祖父2もそれきり、誰も知りやしねえ。どこぞに迷い込んだか、それともヴィスワ川に流されたか。誰も知りやしねえ、知りたくもねえ」


 言っても詮無いことだ。

 マーシャにもそれは分かっている。

 なぜなら。


「奇遇、だな――うちは2人とも森。スモレンスクから投函した手紙を最後、それきり」


 互いの昔話に、ユスティナの方は冷静を取り戻しつつあった。

 石のような、しばしの沈黙。


「今度はこっちが訊くぜ……なら、なぜ党に従ってる?」


 ロシアの傀儡の。その言葉は飲み込んだ。

 今はもう、試すような時ではない。


「――比較の問題だ。そう言う時じゃない、少なくとも今は。党や戒厳令が最善とは思わない。だが内乱やロシアの侵攻に比べれば小さな罪――私は、そう信じる」

「閣下の小さな罪、か。狂ったチョビ髭閣下どのなら、とっくにくたばったぜ」

「ウチの閣下は禿に色付きメガネだよ、先月のTVでも見ただろう。もっとも閣下のメガネは、シベリアでの労働のせいだが。――ともあれ忍耐は必要だ、“労なくして釣果なし”と言うだろう」

「“労働は諸君らを解放する”からな……いや、悪い。言い過ぎた」


 いま一度、左手に力を込める。

 今度は握れた。

 血のこぼれる感覚も、先刻ほどではない。


「……やっぱ、痛えわ」

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