4-3 お願いがあるんです

 追いかけると言っても走れない状況では、本気で逃げられたら負け。どこにいるか考えて当てるしかない。

 僕と秡川さんは、紅白戦は早い時間に終わるから、と荷物を教室に置いてきた。秡川さんが帰るつもりなら、まずは教室に戻るだろう。教室に残っていれば僕も会えるだろう。教室を出ていたら? 秡川さんが行きそうな場所を僕は知らないし、ましてや秡川さんの家は知らないし上がれる訳もない。

 秡川さんが教室にいなかったらアウト、か。分の悪い賭けだなぁ。

 足を引きずるように教室に向かう。廊下と教室はもう照明が落とされていて、窓から射す西日だけで照らされていて、白い壁が少し赤く染まっている。僕たちの教室も照明が落とされているのが見えた。これはもうダメか。それでも足をなんとか動かして教室にたどり着き、扉を開けた。

 そこには一人残った女の子に西日が当たり長い影を作っていた。

 秡川さんがすすり上げていた。

 僕が近づくと秡川さんは顔を上げ、叫んだ。

《来ないで!》

「来ないで!」

 秡川さんの精一杯の拒絶は僕には二回届いた。

 ここで、僕は言葉をつながなければいけない。

「秡川さんに嫌らしい言葉を言わせたのが僕なのか、僕を疑ってかまわないよ。でも、秡川さんを見てていい?」

《見ないで!》

「見ないで!」

 秡川さんは左手で顔を覆い右手の平を僕に向けて僕を制止させた。

 それでも、秡川さんを独りにさせてはいけない。

「見ないから、ここに居ていい?」

 秡川さんは応えない。頭の上のトラックも灰色のまま。

 僕は入り口に一番近い席に腰を下ろして、秡川さんに背を向けた。

 そして時間が流れるのを感じている。

 夕暮れをゆっくりながめるのは、いつ以来だろう。日が次第に朱くなり、そこに青が差し込んで紫色に変わっていく。

 僕と秡川さんの間に言葉はなかった。時折秡川さんがすすり上げる音が聞こえる。僕はなるべく身体を動かさず無音を保つ。

 日がほとんど沈んだ頃、頭に声が聞こえた。

《どうして私にかまうんですか?》

 振り向くと秡川さんが視線を下に落としたまま言葉を口にしていた。

「どうして私にかまうんですか?」

 僕の気持ちは分かってもらえないかもしれない。それに、大した理由は持っていない。でも、僕が伝えるなら、その媒体は……

「『可愛い』が嫌みになるほど綺麗な娘(こ)が『どこが好き?』って聞くのはずるい」

 我ながら駄作だ。字余りが二カ所もある。何のひねりもない、思春期の男の子のゲスな感情垂れ流し。それを、百人一首で読み上げるときのような抑揚をつけて語った。秡川さんにもこの言葉の形式が分かるはずだ。

 それでも足りないような気がして、秡川さんが応える前に補足をつける。

「綺麗だっていうのは、それだけで有利だよ。そんな子が泣いてると、男の子はなんとかしなきゃと思うものだよ。小さい人間でごめんね。それでも、秡川さんが受けてきた仕打ちを聞いちゃうと、頑張れる気がする。あっ、気がするじゃなくて、頑張れる」

 秡川さんが顔を上げる。そして発した言葉は、ちょっと意外だった。

「和歌ですか?」

 そうか。普通の思春期の子にとっては五七五七七は百人一首だからなあ。

「短歌。和歌というほど古風じゃないよ。大人の先生について勉強してるけど、ほぼ自己流。大してうまくないし」

 もう教室は暗くなって顔はよく見えないけど、秡川さんの顔は、きょとんとしていたのが、急にはっきりした。そんな気がした。

《言葉は好きですか?》

「言葉は好きですか?」

 なんだろう、このストレートな問いかけは。ここで迂闊なことを言うと秡川さんとのつながりは切れるだろう。でも、ダメだなあ、僕は大したことが言えないや。

「好きだけど、言葉の方が僕を好きかは分からないなあ。ずっと片思い、かな」

 秡川さんが席を立って僕の方に近づいてきた。

「お願いがあるんです」

「お願い?」

 秡川さんから近づいてきたのはうれしい。でも僕が応えられるだろうか。

 秡川さんは僕の隣に来た。

《岸凪君に見てもらいたいものがあるんです。見たことを他の人に言ったら、岸凪君がしたことをみんなにばらします》

 え? ここで脅し? 僕も秡川さんを脅したけど、意趣返し?        

「岸凪君に見てもらいたいものがあるんです。見たことを他の人に言ったら、岸凪君がしたことをみんなにばらします」

 隣に立つ秡川さんを見ると、真剣なのが見て取れる。

 ここまで来たんだ。途中で投げ出す訳に行かない。有沢さんも投げ出すなって言ってたしね。

「分かったよ。それで、お願いって何?」

「さきにStringのアカウントを交換しませんか?」

 秡川さんとメッセージアプリStringのアカウントを交換? 急にそんなに近づいていいの? うれしいけど、戸惑うけど、やっぱりうれしい!

「待ってて。スマホを持ってくるから」

 僕たちは自分の鞄からスマホを取り出した。スマホをポケットに入れる人もいるけど、スマホってポケットに入る大きさじゃないよね、と意外な共通点を知ってうれしくなった。

 暗がりの中、画面の灯りだけで操作して僕たちはアカウントを交換した。僕が感慨に浸っているとメッセージが届いた。


   次のサイトを見て、感想を教えてくれませんか?

   今日は感想を聞くまで帰りたくありません

   どこかいい場所はありませんか


 秡川さんのメッセージにはURLが付いていた。僕も知ってる、小説投稿サイトだ。

 ここで、小説投稿サイトの、感想? その作者って……

 頭はぐるぐる回るけれど同じ場所に留まったままで、結局無難な答えしか出なかった。


                   市立図書館がまだ開いているから

                   そこで読もうか


 スマホが鳴って、一言。


   はい


 とだけ書かれていた。

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