◆7-2

 深い闇の中、落ちる。リュクレールは咄嗟に、自分の体の力を緩めた。体の輪郭が僅かに薄れるような感触と共に、僅かに体を浮かせ、床であろう場所に緩やかに着地しようとしたのだ。

 リュクレールの体は今も、半分以上が霊質のままだ。物質の頸城に囚われず、浮かべる筈の体は――耐え切れず、どんどん落ちていく。

「あ……!」

 そこで気づく。首から下げた、青石の護符。これがある限り彼女の霊質は固定され、揺らがない。肉体とほぼ変わらぬままの質量で、床面へと激突する覚悟を決めたその時、

「奥方様!!」

「っうぐ……!」

 ぐん、と腰を引っ張られ、息が詰まった。衝撃と共に、体の落下が止まる。

「っ、申し訳ありません、乱暴を……!」

 僅かに苦しげな息の下からヤズローにそう言われ、ぎゅっと閉じていた瞳を開ける。暗闇の中、リュクレールの体は銀腕に抱きかかえられ、宙に浮いていた。上を向くと、ヤズローが何か見えない紐に捕まって、中空で堪えているのが解った。

「わ、わたくしは大丈夫です、ヤズローこそ、怪我は?」

「問題ありません。……このまま降ります」

 その声と同時に、まるで滑車が下がっていくように、するするとヤズローの体が降りていく。一体どういう仕組みなのかと目を瞬かせていると、自分の懐がもぞりと動いた。

「あ、」

 それは、出発前にドリスから預かった、使い魔である小さな金色の鱗を持ったカナヘビだった。鱗よりも濃い金の瞳が、まるでランプのように光を灯し、辺りを照らす。

「まぁ、有難う」

 リュクレールが礼を言うと、カナヘビはまるで言葉を理解しているかのように、踏ん反り返って見せた。改めて上を向くと、光に照らされてきらりと細いものが輝く。

 ヤズローの手首、銀腕から解けたような細い糸が、上から繋がっているようだ。そしてその指先に、小さな銀の蜘蛛が止まっていることにも気づく。ヤズローがいつも耳に着けている飾りと良く似ていた。

 その正体に目を瞬かせている内、ヤズローの足先が床に着地する。どうやら土が剥き出しの、地下室のようだ。

「奥方様、失礼します。……手荒な真似をして申し訳ございません」

 そっと地面にリュクレールを降ろすと、ヤズローは一歩下がって深々と礼をする。

「いいえ、おかげで助かりました、有難うございます。……ここは、何のための部屋なのかしら」

 優秀な従者を労うように礼を返し、改めて辺りを見回す。饐えた匂いのする、真っ暗な世界。まるで、地下牢か何かのようだった。上を見ても、そこそこ高さはあるが平面の天井で、穴は全く見えない。

「……魔操師の力で、穴を塞がれました。恐らく、土で埋めただけ故に、糸が切れなくて助かりましたが」

「その蜘蛛ですのね? 不思議な糸を持っているのね」

 何故か物凄く不本意な顔でヤズローが差し出す手甲の上、銀色の蜘蛛が侍っている。興味深そうに近づいてきたカナヘビが、舌をちろりと伸ばした瞬間、大きさは断然小さな筈の蜘蛛が足を振り上げて威嚇した。ピャッと小さな鳴き声を上げてリュクレールの肩へ逃げたのを、宥めるようにそっと指先で鼻を撫でてやっていると、

「――糞がッ!」

 ざん、と大きな音と共に罵声が響き、リュクレールは飛び跳ねてしまった。苛立ちの籠った声と共に、ヤズローが床を思い切り蹴り付けたようだ。驚きに固まっていると、彼の方もすぐ誤りに気づいたらしく、気まずそうに顔を顰めて頭を下げた。

「失礼致しました、奥方様。無作法、重ねて申し訳ありません」

「い、いいえ、大丈夫です。少し驚いただけですから。それに、男爵様とお話しするときはたまに、ヤズローはそういう喋り方になっているでしょう? 主従だけれど、気の置けない間柄のように見えて、わたくしも好きなの。だから、気にしないで」

 不安は有れど、本心を告げて微笑むと、ヤズローは戸惑ったように何度か目を瞬き、僅かに礼をして答えた。

「……はい、いいえ。子供の頃から、師匠――ドリス様に厳しく躾けられていたので」

「そうなの? わたくしにはドリスはとても優しいから、信じられないわ」

「あまりにも言葉が直らない時に、舌を七色蜥蜴に変えられたことがございます」

「まあ! 本当に厳しい罰なのね、わたくしも気を付けないと」

 真っ暗な部屋の中に閉じ込められたにも関わらず、思わずリュクレールの口から笑みが零れてしまう。暗くて狭い場所には慣れているし、ひとりではない。それだけで随分と楽になった。主の妻を危険な目に遭わせた失態に、己を怒っていたヤズローもそれで毒気を抜かれたらしく、僅かに肩の力を抜いて息を吐く。

「……男爵様達は、心配しているわね」

「使い魔の様子は、師匠達にも伝わっています。旦那様もこちらへ向かって下さるでしょう」

「ええ。でも、わたくし達も逃げる努力をしなくては駄目よね。なんとかここから出る方法はあるかしら」

「探します。少々お待ちを」

 改めて、慎重に部屋を探る。どう考えても先刻の部屋どころか、敷地程に広く感じる穴倉に戸惑うが、これも魔操師によって作られた空間かもしれない。

 ゆっくりと僅かな明かりを頼りに暗闇を進むと、不快な臭いが強くなった。逃げ場の無い穴倉に溜まった、腐り果てた肉の臭い――即ち、死臭だ。

「奥方様、どうぞこちらでお待ちを」

「……いいえ。大丈夫です、わたくしも『首吊り塔』におりましたから」

 死に親しんでいる、という悲壮な決意を込めて、優秀で優しい従者の顔を見詰める。ヤズローは少し困ったように眉を下げたが、リュクレールの決意を挫くつもりはないらしく、後ろに、とだけ告げて歩を進めた。

 やがて――部屋の隅に、まるで打ち捨てられるように放られた、恐らく人間であった筈のものを見つけた。

「……なんて、こと」

 話には聞いていた。それを見つける可能性も勿論あった。その上でこの役目を受けたのだから、覚悟も決めたつもりだった。――それでも。

「こんな、無惨なことを。何度も繰り返していたのですか」

 恐らく、まだ年端も行かぬ小さな体であった筈のもの。黒い染みに塗れ、腐り果てた肉と骨。

 それが、幾つも。何の尊厳も無く、ただ、打ち捨てられていた。

 虫が集っていないのは不幸中の幸いだ、その辺りは魔操師が保存する為手を加えているのかもしれない。……既に死んでしまったものに対しては、何の慰めにもならないが。

「奥方様。……霊質や、魂は、解りますか」

「いいえ。いいえ。霊質は、もう吹き散らされてしまったのでしょう。魂も――見えません。在りません。きっと、同じように……」

 搾り出すように返事をし、ついに耐え切れず、リュクレールは顔を覆ってしまった。ヤズローは責めず、そっと背を支えて、まるで獣に力任せで引きちぎられたかのような死体の傍から彼女を離す。

「すみません……ヤズロー。取り乱しました」

「お気になさらず。……奥方様。大変申し訳ありませんが、もうひとつ伺いたいことが」

「ええ、何かしら。何でも聞いて?」

 顔は白を通り越して青くなっているのに、気丈に微笑んで問うリュクレールに、ヤズローは詫びるように目礼をしてから口を開いた。

「奥方様の、瞳には。フランボワーズと、あの娘に……何が見えたのですか?」

「……」

 我慢できずに聞いてしまったのだろうヤズローに、リュクレールは困った顔をする。ほんの僅か、首を横に振り、彼女自身も良く解らないまま、そっと囁く。

「なにも。何も、見えなかったの」

 暗闇に、沈黙が落ちる。光を放つカナヘビの瞳だけが、ぱたぱたと瞬いた。

「それは――」

「プリュネ様の中に、魂が見えなかったの。多分だけど、彼女の声は、フランボワーズ様が喋っていたのだと思うわ」

「では、あの娘は」

 悍ましい真実に、ヤズローが辿り着きかけた時。僅かな明かりが、上から降り注いだ。

 はっとして、同時に顔を上げた瞬間。すぐに明かりが消え、ずしゃり、と何かが着地する音。

「奥方様!」

 ぐいと体を引き寄せられ、僅かな痛みに悲鳴を上げる間もなく、鈍い音が地下室に響いた。リュクレールを庇うように動いたヤズローが、己の腕で防いだのは、手袋に包まれた嫋やかな腕。

「……フランボワーズ様!」

 薄明りの下で見える薄紅色のドレスに、リュクレールは声を上げた。美しい人形の歌姫は、その表情を欠片も動かさないまま。――酷く不器用なダンスのように、両腕をぎしりと掲げ、凄まじい速度で殴り掛かってきた。

「ッチィ!」

「ヤズロー!」

 嘗て見せたぎごちない動きが嘘のように、出鱈目且つ容赦の無い拳が振り抜かれる。土壁を掠るがままに削り取り、礫をヤズローへと浴びせかけたので、堪らずに距離を取る。

 一度間合いを取った美しい人形は、正しく糸に吊り下げられた人形のように立ち、口から歌とは比べ物にならないほど、たどたどしい声で告げる。赤い瞳を真っ直ぐに、リュクレールにだけ向けて。

「お嬢様の、為に、貴女の魂を、摂取します」

「っざけ、んな!!」

 悪罵と共に、ヤズローが思い切り足を蹴り上げる。フランボワーズはドレスを着たまま、淑女とは思えない素早い動きで間合いを取り、再び殴り掛かってくる。その力は、受け止めるヤズローの銀腕をひしゃげさせん勢いだ――恐らく彼女の膂力なら、人間を容易く引き裂ける程に!

「ヤズロー!」

「ご心配なく! 必ず、お守りいたします!」

 従者はそう言ってくれるが、彼の愛用の槍斧は今手元にない。フランボワーズは女性としてもかなり長身で、手足もヤズローより長い。膂力の強さは間違いなく、徒手空拳なら圧倒的にヤズローが不利になってしまう。だがリュクレール程度の剣の腕では、太腿に忍ばせている小剣を抜いて間に入っても邪魔になるだけ。

 私のせいで、という自責を、唇を噛んで飲み込む。今は反省では無く、対策を考えねばならない時だ。僅かに震える手をぐっと握り締めて、リュクレールは必死に思考する。

 何か、何か手を。助けは無いか。恐らく男爵様達もこちらへ来ている筈。でも当然足止めはされるだろうし、そもそもこの場所が解らないかもしれない。教えるにしても、ここが屋敷の何処かすらわからない。

 考えて、考えて――リュクレールはふと思い出す。自分にしか、出来ない事を。

「――ヤズロー! どうか、少しだけ辛抱を! 必ず助けを呼んでまいります!」

「奥方様!?」

 叫び、リュクレールはずっと身に着けていた首飾りを外し、詫びつつも床に落とす。己の体がほんの少し、軽くなったのは気のせいでは無い。そして彼女は、真っ直ぐ壁に向かって走る。全力で体の力を抜き、水に飛び込むように壁に体当たりをする。

 からん、という軽い音と共に、太腿に結わえていた銀の小剣が床に落ちる。使い魔のカナヘビと一緒に、ふわりとドレスも。

 ほんの僅かの違和感と共に、彼女の体は限界まで物質のかたちを薄れさせ、壁を通り抜けたのだ。

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