◆1-2

「やあやあ、リュリュー殿! 無事の御目覚め何よりです、我が家の寝台の心地は如何でしたかな?」

「男爵様……!」

 ドリスの手を借りて身支度を終え、用意されていた簡素だが着心地の良いドレスに恐縮しながら袖を通し。召使に先導され、食堂へと辿り着いたリュクレールは、聞き覚えのある陽気な声に迎えられ、ぱっと顔を輝かせた。

 朝にしては随分と大量の料理が並んでいるテーブル、その前に据え付けられた大き目の椅子。そこにみっちり詰め込まれた、丸々とした体をぽいん! と弾け出させ、悠々とした風に立ち上がったのは、この家の主であり、リュクレールの夫にして救い主、ビザール・シアン・ドゥ・シャッス。いそいそと短い手足でリュクレールの傍に馳せ参じてきたので、慌ててドレスの裾を抓んで淑女の礼を取った。

「図々しく眠り続け、申し訳ございませんでした。男爵様には大変ご迷惑をおかけしてしまい――」

 まず非礼を詫びて頭を下げるリュクレールの旋毛の上に、ンッハッハ! といつも通りの笑い声が届く。

「いやいや、あれだけの大立ち回りをした上、心身ともにお疲れであったのでしょう。まずはゆっくりと体を休めて頂くのが一番です。そうだろうヤズロー?」

「はい。何より、食事の前から旦那様を引き剥がしたというだけで、奥方様の功績は素晴らしいと存じております」

 テーブルの傍に控えていた、矮躯の少年――銀の義手と義足を持った従者のヤズローが、表情を変えぬ無愛想のままきっぱりと答える。相変わらずの主を主と思わない言い草に、ビザールは丸々とした腹を揺らしてまた笑う。

「ンッハッハ、それは確かに! しかし吾輩まだまだ腹八分目どころか三分目ほどでしてな、よろしければご一緒に朝食をいかがでしょうか? お腹は空かれておりませんか?」

「はい……いいえ、わたくしは……」

 促されたテーブルの上に所狭しと並べられた料理の多さに目を瞬かせ、リュクレールはほんの少し迷う。彼女の葛藤を理解しているのか、ビザールはにんまりと丸い頬を緩ませて言葉を続けた。

「まずは、ミルク粥と飲み物から参りましょう。大丈夫、少しずつで良いのですよ、リュリュー殿」



 ×××



 リュクレールはあの塔に居る時、まともな食事を取ったことが無かった。もっと言うなら、人間が食べられる食材というものが、あの塔の中には殆ど無かった。

 ヴィオレを初めとする霊達も塔に縛られていた為、地下に生えていた僅かな薬草ぐらいしか、口にすることが出来なかったのだ。

 だから、テーブルに着いた目の前に、柔らかく湯気の立つミルク粥が出されても、まずは臆してしまう。テーブルマナーだけなら習ったが、何かを食べる、という行為自体が彼女にとっては未知の領域だ。

 設えられた匙を手に取りつつ、助けを求めるようにすぐ傍に座っている男爵へ視線を向けると、スープを匙で掬いながらムチン、と肉に埋まるウィンクをして見せた。後ろに控えるヤズローは心底不愉快そうに眉間に皺を寄せていたが、リュクレールはどこかほっとして肩の力を抜き、改めてそっと皿の中身を掬う。

 ほんの僅か、小鳥が啄む位の量を匙の先端に乗せて、食む。

 そこまで熱くは無かったが、ふわりと口の中に広がる今まで嗅いだことの無い匂いに目を瞬かせながら、こくんと飲み込む。喉と腹腔が僅かに温かくなったような気がして、安堵の溜息を吐いた。

「いかがですかな?」

「ええ、大丈夫です。食べられます」

「うむうむ、食事は生きる為に不可欠ですからな! この吾輩の魅惑の肉体を保つためにも!」

「旦那様、寝言は寝て言って下さいませ」

 ぽんぽんと腹を叩いて笑う主に対し、苦虫を噛み潰した顔で従者がぼそりと呟く。

「ンッハッハ、お前も食事を取って良いのだぞヤズロー?」

「旦那様と奥方様の食卓を、邪魔するつもりはございませんので」

「なんと、気が利くではないか! 流石吾輩の一の執事!」

「二番目以降が存在しないのですから、当然ですね」

 軽快に言い合う主従の会話に、リュクレールは自然と顔を綻ばせた。

 しかし、彼女が匙を動かす間隔は少しずつ長くなり、ついに止まってしまう。生まれてから殆ど成長していない彼女の内臓は、皿半分の粥でいっぱいになってしまったようだ。生まれて初めて感じる腹の重さに、リュクレールはほんの僅か眉を顰めてしまう。

 気取られないように小さく溜息を吐いたが、耳聡い男爵には当然気づかれてしまった。

「おや、お口に合いませなんだかな?」

「いいえ、そのようなことは。……ですが、申し訳ございません」

「謝る必要など御座いませんよ、リュリュー殿。寧ろ、量のことを考えずお出ししてしまったのをこちらがお詫びしなければ」

「旦那様が食べる量から逆算したのが間違いだったようですね」

「ならば私の責任ですね。ヤズロー、控えなさい」

「……失礼致しました」

 丁度食堂へ戻ってきたドリスが逃がさずぴしゃりと言い、ばつが悪そうにヤズローが一歩引いて口を噤んだ。あの軽妙な会話は、この厳しいメイド長がいる場では許されていないらしい。その手の盆にはシロップ漬けの果物が盛られた皿があったが、まずはリュクレールに頭を下げた。

「申し訳ありません、デザートは本日お止めした方がよろしいでしょうか」

「ええ……ごめんなさい」

「奥方様が気になさる必要は何もございません。残されたものは全て、旦那様に平らげて頂きますので」

「任せたまえ!!!」

 さらりとドリスから言われた言葉に驚く間もなく、満面の笑みで男爵は頷いた。決して下品でないスピードでフォークを閃かせ、丁寧に、しかし見る見るうちに皿を空にしていくその様はまるで魔法か何かのようで、リュクレールは目を瞬かせてしまう。

(――あら?)

 デザートの器を全てビザールの前に配膳していくドリスの横顔が目に入って、リュクレールはほんの僅かな疑問を抱く。

 男爵が食べていく様を見守る彼女の顔が、ほんの少しだけ――安堵しているように見えたからだ。

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