外国生まれ、日本育ち

@Hinode_Tsukuyo

外国生まれ、日本育ち

 私は、中国で生まれ、朝鮮語を使い、そして日本でこれまでの人生の大半を過ごしました。


 もう少し詳しく言うと、中国の吉林省という朝鮮半島にかなり近い場所で、朝鮮民族の両親の下に生まれたのです。


 もちろん、この時点で日本には何の関わりもありませんし、そもそも私はこの時まだ赤子でしたから、国なんて概念など知りもしませんでした。


 そんな私がなぜ日本に来たかというと、お恥ずかしい話なのですが両親が離婚し、母親が私を連れて彼女の姉、母(私から見れば叔母と祖母ですね。)と共に日本に渡ったからです。祖父は私が生まれる前に他界していました。私が二歳のころです。




 私が覚えている日本での最初の記憶は、二歳も終わろうかというころに保育園に預けられた日のことです。


 その時私は日本語があまり達者でなく、周りの大人が、子供たちが、何を言っているのか断片的にしかわかりませんでした。ですが、何となくそこの大人たち(当時の私に区別はつきませんでしたが、恐らく先生方でしょう。)にあまりいい顔をされなかったのは覚えています。


 その時の生活はおおよそ、起きて祖母に連れられ保育園に行き、先生方に日本語を教わり、また祖母が迎えに来るまでじっと、部屋の隅で待っている。そういうサイクルでした。


 当然子供たちは持ち前の無邪気さで私に話しかけてきたり、物珍し気に私を見ていましたが、まだ幼い私にはそれは恐怖でしかなかったのです。それは私が人並みに日本語を使えるようになるまで続きました。


 また、家での生活もとても裕福と言えるものではありませんでした。私が保育園にいる間、母は自転車で家から少し離れた工場にパートに行き、叔母は夜勤で母と入れ替わりに暗い道を働きに行き、決して若くはない祖母まで近所の農家の家で手伝いをしていました。




 三歳の半ばにもなると、幼子というのは成長が早いもので私は人並みには日本語ができるようになっていました。私にとって周りの人間は理解の及ばない恐怖の対象ではなくなっていましたが、依然私に友人というものはできませんでした。


 それが変わったのはおそらく五歳のころだったと思います。柚月という少年でした。彼には友人も多く、この後入る小学校でも大変世話になった記憶があります。


 ある日私がいつものように祖母を待っていると、それは一時の気紛れだったのでしょうが、彼は私に話しかけてきました。内容は詳しく覚えていませんが、直後外で戸惑いながらも一緒に遊んだ(今思い返すと彼の真似をしていただけですが、その時は確かに遊んでいるつもりでした。)記憶があるので、そのような内容だったのでしょう。


 ところで、彼には特に親しい友人が何人かいました。字を思い出せませんが、らく、じょう、れい、という名前でした。彼らにも良くしてもらった覚えがありますが、今はもう音沙汰もなく、連絡もつきません。




 六歳になり、私は小学校に入りました。例の柚月やその友人たちも一緒です。


 そこで私は、今でも鮮明に思い出せますが、今の私の人格を作り上げただろう人物と出会います。西沢という女教師でした。


 おそらく彼女は私が中国人であることが気に食わなかったのでしょう。何かと貴方はほかの人と違うのだから、もっと努力をしないといけないと言われていました。(自慢にもならないですが、当時の私は平均より出来が良い生徒でした。)


 彼女は私がなにか目立った行動をするたびにそれにつけこみ糾弾してきました。明らかに他の友人と私の扱いには差があり、それには友人たちも気づいていたらしいのですが、まだ一年生や二年生の時でしたから教師に楯突けるものは居ないのでした。




 四年生のころ、ふたつの転機がありました。担任が変わったことと、私が金管バンドに入ったことです。


 この担任は吉澤という男で、たいへん面倒見の良い父親のような人間でした。この男とはつい最近まで年賀状を送りあったりしていましたが、いつしか年賀状は届かなくなり、終いには向こうからも来なくなりました。


 金管バンドですが、私を誘ってくれたのは例の柚月少年でした。彼はじつに多芸で、私が知っているだけでも野球、チェロ、ヴァイオリン、トロンボーン、パーカッションなどを習得していました。私が楽器を始めたのも彼への憧憬からです。


 私が曲がりなりにも社会に溶け込むことができたのは、この金管バンドのおかげであると言えるでしょう。紆余曲折もありましたが、最終的には関東大会まで出場できるところまでは上達しました。


 その後私は放送委員長という役に付きましたが、そこでは副委員長に迷惑をかけていた記憶があります。




 そして私は中学校に入学したのですが、そこでもやはり私の存在は浮いたものでした。その頃は所謂爆買いやら、竹島、尖閣諸島等の問題で特に中国や韓国の話題に敏感な時分でしたので、そこで私の存在はちょうどよい吐け口だったのでしょう。


 中国人にはわからんか。やっぱり韓国に関係あるやつは頭おかしいよ。そんな言葉を投げかけてくる者もいましたし、これ見よがしに自分は違うと、君の見方だという人もいましたが、私にはそれすらお前とは違うと言われているように感じられたのです。


 二年生にもなるとそういった者たちも少なくなりました。少なくなるというのは、全くいなくなるわけではなかったからです。それを言い続けるのが面白いと、そう思っていたのでしょう。


 三年になると、そもそもクラスの形態が変わりました。面白い人が所謂カーストの頂点に立つようになったのです。そしてそれは、私にとって都合の良いことでした。皆が注目するのはその人自身でなく、言動になったからです。そこには生まれも話題の種類も、性別さえ関係なくなりました。




 そして今、私はとある県の高専(高校と短大を足したような学校)に通っています。そこでは今までと違い、自分が中国人で朝鮮民族であることは広まっていません。それでいいのかはわかりません。正直隠し事をしている気分ですし、あまりいい気持ではありません。

 それでも、いつか大手を振っていけるようになればいい。そう思います。












______

私自身、初めて人様に見せるために文を書きました。


もし、不快に思われたのでしたら、私に意見をお伝えください。


在日外国人がすべて私のような考え方ではないこと、あくまでも一個人の意見であることを理解していただけたら幸いです。


誤字脱字、文の乱れ、申し訳ありません。

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