こんなとき、僕は安心していいのだろうか
「よし、これで完璧ね」
恵里香さんの満足げな声が、控え室内に響いた。
僕自身、不覚にも恵里香さんの言葉に安心感を覚えてしまった。実際にこのとき僕がしていた格好は、白のリネンシャツにベージュのジャケットでトップをまとめ、ボトムスはグレーの細めのカーゴパンツ、シューズは黒のレースアップスニーカーだった。
言うまでもなく、外出時に限っては制服以外で久々に男らしい格好ができてしまった。それまでのプロセスは不本意ではあるが、そんなことは関係ない。
僕は風紀委員会に救われたのか。そう思っていいのか。そんな葛藤に支配されていた。
ふと床を見ると、黒い蝶の仮面が落ちていた。
「あっ、もうこれも必要ないよね」
杏ちゃんがそれに気付いて拾い上げると、控え室の角に置いてあったゴミ箱に持っていく。
「ちょっと待ちなさい」
美里愛ちゃんが静かに一喝し、杏の動きを止めた。
「それ一応私のコスプレコレクションの一部なんだけど。清太がバニーガールのコスプレを恥ずかしがるから、黒い仮面をつけてあげれば少しは正体がわからなくなるでしょ、ってことで貸してあげたのよ」
そう訴える美里愛ちゃんの服装は、黒いレース地のシャツに、緑色のワンピースを合わせたものである。ワンピースのスカート部分は膝上丈だが、縁のフリルの広がりが形状記憶のようにはっきりとした感じで、なんか動きやすそうだ。
「美里愛ちゃん、その格好、なんか、可愛い」
女装コスプレ地獄から解放された喜びを抑えきれず、ついつい美里愛ちゃんの非コスプレ衣装を褒めてしまう。
「可愛いわけないでしょ」
美里愛ちゃんが気持ち悪がるような口調で否定した。
「そう遠慮なさらずに。杏ちゃんがここまで働きかけてこなければ、新しいコスプレの形にも出会えなかったんだから」
恵里香さんがやんわりと美里愛ちゃんを諭す。
「これのどこがコスプレ?これのどこが、異世界に溶け込むための礼装よ」
どうやら美里愛ちゃんとってのコスプレは「礼装」らしい。まあ、今日行われていたコスプレイベントではそれが真理なんだろうけど。
「いつまでも何を言ってるのかな、この脳みそ変態ガールは。私たちにいわせれば、これも立派なコスチュームプレイよ」
杏ちゃんにとっての私服はそういう認識なのか。何かお互い、服に対して変な認識を持っているみたい。僕はとんでもない女子たちと空間を共にしているのか。そう思うとつい苦笑いが出てくる。
「美里愛ちゃんの言うことも分かります。ただ、風紀委員会の人たちは、こうした格好は『モデルのコスプレ』と表現していましたよね?私も正直そうした意見は聞いたことないんですが、風紀委員会も実際にそれで会場入りを許されたわけですよね」
美里愛ちゃんをなだめようとする香帆ちゃんの格好も、清純ぶりが引き立っていて愛くるしい。白い薄地のベレー帽がまずポイント。同じく白の長袖Tシャツに、ピンク色の膝丈のスカート。シンプルながら愛嬌のある全体像に仕上がっている。
「アンタまで何受け入れちゃってるの?それ認めちゃったらJ.K.C.K.の名が泣くよ?」
「ほら、そうやって相手の話もまともに聞こうとしないで、すぐ自分の陣地に人を引き込もうとする。それがアンタのダメなところよ」
「何ですと?」
美里愛ちゃんが杏ちゃんのダメ出しにムキになる。
「アンタは要するにアレよ。自分の素肌を極限まで露出させることしか自身の価値を見いだせない。露出することで自らの殻を破っているように見せかけて、本当は露出という名の殻に閉じこもった引きこもり」
「引きこもり?なんでそんな扱いされなきゃいけないの?むしろ私は外に出ている時間の方が長い派よ」
「そんな物理的な話じゃないわよ。アンタは生き方を問われているの」
杏ちゃんは鼻で笑いながら美里愛ちゃんの反論を一蹴した。
「もう中学時代だけで三年間、私たち散々こうやってやりあってきたじゃない。だけどもう終止符を打つ時ね。高校時代も合わせて6年間も服装のことでやりあうなんて、バカらしくて仕方ないからさ」
「じゃあ、仕掛けてこなければいいでしょ。それなのにアンタの行動は何のつもり?ウチの大切なアシスタントを拉致したり、今日に至ってはこんな味気ない服を着せたり」
「味気ないとは失礼ね!これでも私たち一生懸命juvitaを参考に服を厳選した方よ!」
杏ちゃんがそれまでの冷静沈着な態度を一変させ、不機嫌をあらわにした。
「この味気ない服装にして何が狙いだって言ってるのよ!」
「狙いはたったひとつ、品性下劣なコスプレの撲滅です!」
杏ちゃんは美里愛ちゃんの前に人差し指を立てながら高らかに語った。
「杏ちゃんの狙いというか、風紀委員自体がそんな感じなのよね。工藤高校の生徒を日本に誇れる清らかな高校生として認知させるためには、コスプレイベントにこっそり潜り込むアンタたちにお仕置きすることも必要ってこと」
「と言いながら私たちが表現の自由を奪うわけ?私たちからエロティックを奪うわけ!?」
「ひゃあっ!」
杏ちゃんが耳を塞いでしゃがみこんだ。どうやら「エロティック」という言葉に過剰反応したようだ。
「もうそんな言葉はやめて!あとああいう、下品で過激な格好も!大体、あんな下着みたいなボトムスで外に出る人の気が知れないわ!」
「杏ちゃん、しっかり」
「大丈夫?」
二人の名も知らぬ風紀委員メンバーが杏ちゃんを気遣う。
「ありがとう、でも大丈夫。ちょっと気が動転しちゃっただけ」
杏ちゃんは二人に感謝しながらゆっくりと立ち上がった。
「とにかく、アンタたちが観念するまで、私は諦めないから。今すぐここで、誓約書を書いてもらうわよ!」
「そうそう、その誓約書というのがね」
恵里香さんがジャケットの懐から誓約書を取り出した。文字は明らかにパソコンで打ち込まれたもので、シンプルなフォーマットに仕上がっている。
「苦労したのよね、スマホ人間でパソコンには慣れてないから。これのせいで学校終わったら近所のパソコン教室通おうかなと思ったわ」
そんな愚痴を言いながらも、なかなか綺麗に仕上がった誓約書を美里愛ちゃんに突きつける。
「誓約書
私、奥原美里愛は、下品なコスプレの一切を永久自粛することを誓約いたします。そして、現在活動中のJ.K.C.K.(自由気ままなコスプレ研究会)は、この日を以って、解散いたし、二度と復活させないことを誓います。
以上」
こう書かれた誓約内容の下には、署名欄と思われる下線が引かれていた。
「さあ、今からサインして」
「何によ」
「決まってるでしょ、これにサインするの。ペンなら貸してあげるから」
恵里香さんがジャケットの懐からボールペンを取り出し、美里愛ちゃんに手渡した。しかし、美里愛ちゃんは恵里香さんからペンをぶんどると、ためらいなく後ろにポイしてしまった。コンクリートの床に叩きつけられたペンの無機質な音が、控え室内に響き渡る。
「ちょっと、それはいくらなんでも失礼じゃないかな」
「男はうるさい、黙ってて」
たしなめる僕を、美里愛ちゃんが冷たく突っぱねる。
「アンタ、よくも!」
「何よ」
杏ちゃんが美里愛ちゃんの襟首を掴んで詰め寄る。
「私たち風紀委員会をなめるんじゃないわよ!」
「そっちこそ、高校生から表現の自由を奪って楽しいわけ!?」
「アンタたちのあの格好はいくらなんでも自由すぎて、見るだけで息苦しいのよ!」
「あっそう、じゃあとびっきり地獄で苦しんでなさい」
「ふざけんじゃないわよ!」
「そっちこそふざけんじゃないわよ!」
美里愛ちゃんが杏ちゃんを押し倒し取っ組み合いになった。
「ああ、言わんこっちゃない」
恵里香さんは呆れた様子でつぶやいた。
「君たち、ケンカはダメだって」
僕は思わず二人を止めにいこうとしたが、女子の身体に触れる恐怖心が消えたわけではなく、残り数メートルまで 近づいたところで体がフリーズした。
「お願いだから、ケンカはダメ!」
僕は必死に叫ぶが、取っ組み合いは終わらない。美里愛ちゃんも杏ちゃんも互いに罵倒しあいながら控え室の床をゴロゴロと転がったり、壁に相手の背中を打ちつけたり、他人の荷物を押し潰したりしながら乱闘を展開している。
「もう、いつまでくだらないことやってるの」
恵里香さんが遂に見かねて二人をとめようとするが、彼女たちのいがみ合いは終わらない。そうこうしているうちに、二人は恵里香さんの足を巻き込みながら転がり始めた。恵里香さんは思わず床に倒れその上を美里愛ちゃんと杏ちゃんの体がローリングしていく。すると、巻き込まれた恵里香さんのスカートがめくれ、水色のパンツがあらわになった。
「ええっ!?」
突然のアクシデントに、僕は呆気に取られた。
「やだっ……」
恵里香さんは思わず上半身を起こし、スカートを抑えながら恥ずかしがる。美里愛ちゃんと杏ちゃんもどこか気まずそうに、互いの襟首を掴んだまま恵里香さんの様子を気にした。
僕は、高校の先輩のスカートの奥に眠る秘密の花園を見てしまった事実に衝撃を受けた。深紅のナイアガラの滝が二本、盛大に僕の鼻を下り、床に注がれた。
「きゃあ、血いいいいいっ!」
恵里香さんは鼻血に恐れをなし、それまでのおしとやかな様子を全否定するような凄まじい形相で絶叫したかと思うと、その場に倒れ込んだ。
「大変!」
香帆ちゃんが思わず僕の体を抑え、ゆっくりと横たえさせた。また女子の体に触られたことで、鼻血に拍車がかかる予感がしたが、頭の中を恵里香さんのパンツがめぐっている今、抵抗という概念は消え失せていた。
「委員長!」
「大丈夫ですか!」
風紀委員会の名も知らぬメンバー二人が恵里香さんを介抱するのが見えた。
「恵里香さん、恵里香さん」
僕は倒れた彼女を心配して、身を起こそうとした。
「無理しないでください!」
香帆ちゃんが僕の体を抑え、再び床に横たえさせる。どうしよう、ガッツリ触られている。いいのかな?でもこっちも緊急事態だしな。
どうしてだろう、何だか急に気持ちよくなってきた。女子に触られることをあんなに嫌がってたのに、香帆ちゃんに触られるのは何でこんなに心地いいんだろうか?
「全くしょうがないわね、これを使って!」
杏ちゃんがスカートのポケットからティッシュを香帆ちゃんに投げ渡した。香帆ちゃんはそれを受け止め、「清太くん、しっかりしてください!」と言いながらティッシュで血を拭き取っていくと、両方の鼻にティッシュで作ったロケットを詰めてくれた。そんな香帆ちゃんを通し、女子がこんなに僕を気遣ってくれるって嬉しいことなんだと、心は気づきはじめていた。
「香帆ちゃん、ありがとう」
「……」
僕が口を動かされるように出た感謝の言葉に、香帆ちゃんは困惑した。しかし、すぐに屈託ない笑みを浮かべる。
「どういたしまして」
僕は香帆ちゃんの顔を見つめたまま、天にも昇るような気持ちになった。
「清太、アンタマジで大丈夫?」
美里愛ちゃんの重々しい心配の声が聞こえる。
「一応」
僕はそうとだけ答えた。しかしすぐに、段々と香帆ちゃんの顔がぼやけていくような気がした。いや、目の前全体がぼやけている。そうかと思うと、目の前はだんだん光を失っていき、やがて真っ暗になった。
気がつくと、僕は天井が薄暗くなっているのに気づいた。コスプレ会場で風紀委員会たちに連れ込まれた控え室は天井に二本一組の蛍光灯が6組あって、すごく明るかったはず。でも今、その蛍光灯は一組しか見えない。
「どうやら、軽い貧血ですね」
おじさんの声だった。父親とも工藤高校の先生たちとも違う、やたらと紳士的な声だった。その人は40代前後のような見た目で、顔の骨格が引き締まり、目鼻立ちはしっかりと整っていた。まさにダンディなアラフォー男性かという印象だった。何よりその人は、白衣をまとっていた。
「君、大丈夫?鼻血一発で貧血になったんだって?輸血パック持った方がいいんじゃない?」
この男性は間違いなく、医者だ。僕は病院に担ぎ込まれたみたいだ。
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