第5話凶宴

 空には雲もなく、丸い月が群星を遠ざけて中天に座す。月明かりの下、庭園にしつっらえた小舞台の上で、弦楽器を中心とした八人ほどの楽団が、古雅な調べの曲を奏でていた。夜空に鳴り渡る美しい音楽は、さながら月への捧げものであるかのようだ。

 五六分の小曲を五曲ほど演奏するプログラムで、その最後の曲だった。演奏が終わると客席から拍手が起こった。二十あまりの椅子を置いた客席には、正装の紳士淑女が着き、子供の姿もあった。そして客席の脇には、執事やメイド、お仕着せの使用人たちが控えていた。

「素晴らしい演奏だった」

 前列中央の席の恰幅のよい老紳士が立ち上がり、楽士たちに称賛を送る。

「ありがとうございます、まだ未熟ではございますが、心を込めて演奏させていただきました。お気にめしていただけたら幸いです」

「気に入ったよ。なんという曲であるか」

「いにしえの楽神バッハの小曲集です」

「古曲であるな」

「はい、源地球伝来と伝えられる、それは大層古い曲集です。それを今の人の好みに合わせて、編曲というかアレンジを加える。そういう工夫をするのも、また、この道の楽しみの一つでございます」

「そういうものか。いや。心地よいひと時を過ごさせてもらった」

 老紳士が執事に目配せすると、執事は小さな革袋を盆に載せて運んできた。

「男爵様よりの心付けである。納められよ」

 小さな卵を包んだぐらいの袋だったが、これだけの屋敷の当主からの褒美に、銀貨は有り得ない。ヴァイオリン弾きは袋を押し頂くと、掲げるようにして仲間たちに褒美を示した。

「みんな、ハイアット男爵様より、多大なる褒美を賜ったぞ」

 楽士たちは一斉にお辞儀をした。

「よいよい。今後とも精進いたせ」

 機嫌よく応じて、楽士たちに背を向けて歩き出したとたんに、ハイアット男爵の顔は、気難しげなものとなっていた。

 メイガス州ウォルトール郡。アナハイム市から南東に五十キロの森林地帯。コーラル湖という周囲百キロほどの美しい湖があった。ハイアット男爵の屋敷は、コーラル湖の近くにあって、十数代に渡って受け継がれてきた歴史のある建物だった。数万平米もある広い庭園を備え、気候のよい時期には野外で、大勢を招いての音楽会や、盛大なパーティーを催すこともある。今夜はうちわで楽しむだけの小さな音楽会で、近隣の村の有力者たちは招いたが、貴族などの地位のある招待客はなく、楽士も一流どころではない。正直耳の肥えた男爵にはいささか物足りなかったが、それでも音楽というものは良い。男爵はこのところ浮かぬ日々であったが、その胸を少し明るくしてくれたので、褒美も弾んだのだ。

 演奏が終わっても、人々は引き上げなかった。月明かりに加えて庭園にはクリスタルボウルの照明灯が各所に設置されていた。さすがに資産家のハイアット男爵でも、こんな田舎まで、魔道炉からのエナジーケーブルを曳いてくるわけにはいかない。クリスタルボウルは、クリスタルの器の中に発光石を入れた照明器具で、それが三メートルぐらいの高さのポールの先端に取り付けられて、ランプなどは比較にならない、魔道炉からのエナジーネットワークに繋がったルクスボール並の明るさで、煌々と辺りを照らしている。クリスタルボウルの照明灯が広い庭園のあちこちに立っていたが、発光石は錬金工房で作られる錬成製品。価格もランプに使う油など比較にならないほど高価で、かなりの資産家でなければ、こうもふんだんに使うことはできない。

 明かりに満ちた庭園では、そのまま夜会へと流れる形で、あちこちに置かれたテーブルで人々が語らい談笑し、使用人たちが慌ただしく飲み物やつまみの料理を運んでゆく。

 ハイアット男爵は、そんな様子に目をやってから執事を手招きした。執事は急いだ様子も見せず、しかし主を待たせぬ、あの、宮仕え特有のテキパキした動きで馳せつけた。

「ユノ男爵に、もう一度使い出せ」

「すでに三度使者をつかわしましたが、取り付く島もない態度だったそうです」

「臆病者め、そんなにランドールが怖いか」

 ハイアット男爵は吐き捨てると、押し殺した声ながら憤懣をぶちまけた。

「オルフェ皇子殿下という後ろ楯がある今こそが、ランドールの専横に終止符を打つ、絶好の機会なのだ。そのためには、我ら心有る貴族たちが一丸とならねばならぬのに、犬を怖がる幼子のごとく、ランドールの影に怯えるとは情けない」

 苦虫を嚙み潰したような顔の主の言葉を聞き入りながらも、

——これは、危ない橋を渡っておられるのでは——

 内心危惧せずにはおられぬ執事だった。

 最近袂を別つったものの、長年ランドール伯爵と同心して、様々な企みや陰謀に携わってきて、ランドール伯爵派の重鎮とみなされてきたのがハイアット男爵である。それだけに、伯爵の恐ろしさは、十分の分かっておられるはずなのだが・・・「今度はおぬしが使者に立て。なんとしてもユノめを説得するのだ」

「かしこまりました」

 分をわきまえて内心の懸念は出さず、おぼつかなげな心地で、主人の命に応える執事だった。

「おじいさま」

 幼い声に呼びかけられて振り返った男爵は、声の主に目を止めて相好を崩した。

「誰かと思えば、可愛いサラか」

 八歳ぐらいの女の子だった。ピンクのワンピースはカシミアのオートクチュールだ。

「お話しの邪魔をしたかしら」

「そんなことはないよ」

「では、私はこれで」

「うむ、吉報を待っているぞ」

「必ずや」

 執事は男爵に一礼すると、

「サラお嬢様、あまり夜ふかしなされませぬように」

 謹厳な顔でひと言注意して、二人に背を向けて歩いて行った。

「おじいさま、素敵な演奏会をありがとうございます」

「気に入ってもらえたかな」

「はい、彼女たちも、とても喜んでいます」

 サラが手を高く差し伸べると、羽ばたく透明な羽のキラキラと月光を撒くようにして、フェアリーたちが舞い降りて来た。フェアリーにも男女があるが、いま、夜空より舞い降りて来たのは全員が女性、八頭身美女をそのまま十分の一サイズに縮小したような、小さくて華麗な乙女たち。それぞれが、赤や青やピンクやパープル、ライムグリーン、色違いの服を着た十人のフェアリー、十人十色の妖精たちだった。

ハイアットの旦那さま、お礼を申し上げます。とても素敵なコンサートでしたわ」

 ゴールドのドレスのフェアリーが、仲間たちを後ろに従えて宙に羽ばたき、優雅なしぐさで一礼して、仲間のフェアリーたちも彼女に続いた。

「おお、ミネルバ、そしてその妹たち、我が家の小さきレディーたちよ、お気に召してくれたのなら嬉しい限りだ」

 十分の一サイズでも、美女がこれだけ揃うと見ごたえがあり、ハイアット男爵、この老練なる貴族も無邪気な笑顔を見せる。

 ミネルバという名のゴールドのドレスをまとったフェアリーは、器量よし揃いのフェアリーの中でも、美貌艶やかに抜きんで、豊かなブロンドを腰まで流し、プロポーションも完璧。人形サイズながらあやしい色気すら漂わせ、これがもし人間サイズだったら、大陸中にその名を馳せる傾城となっていたかもしれぬと、ハイアット男爵は思うのだった。そして他のフェアリーたちも、人間だったらミスコンテストで姸を競うに十分なレベルだ。

「ところでアリシアはどうしたね。演奏会にも顔を見せていなかったが」

 祖父の視線を受けて、八歳の孫娘は申し訳なさそうな顔をした。

「お姉さまは、湖に出ておられます」

「こんな夜に、釣りか」

「月の明るい、風も穏やかな、夜釣りには絶好の夜なのだそうです」

「一人でか、危ないであろう」

「お姉さまは泳ぎも上手ですし、浮き輪も用意されていました。それにお弁当も」

 サラは姉をかばった。

 確かに、冒険好きだがやるからには備えを怠らない、そんな子だ。ハイアット男爵も、孫たちの中では一番頼もしく思っている。

——だから、アレを預けたのだ——

 男爵の脳裏を、二人だけの秘密がチラッとかすめた。

「アリシアは、あなたたちの担当じゃなかったの」

 ライムグリーンのフェアリーの言葉とともに、フェアリーたちの視線は、二人のフェアリーに集まった。白い服と黒い服の二人のフェアリー。他のフェアリーたちがゴールドやレッド、ライムグリーンやコバルトブルー、パステルカラーも映えるツヤツヤの生地の衣装であるのに対して、この二人は、白と黒で生地も木綿の、なんとも地味な装いだった。そして、宮廷の上臈然としたミネルバを筆頭に、人間サイズになったらミスコンテストで美しさを競うに十分のルックスというのも、残念ながらこの二人、特に白いのには当てはまらなかった。白い服のフェアリーは太っていた。そんなにブクブクというわけではない。ぽっちゃりかデブかというと、ギリギリぽっちゃりの範囲。ミスコンなどは敷居が高いが、人間でならどこにでもいる、しっかり太めのレディーである。しかしモデル体型が標準のフェアリーの中にあっては、異様な存在と言える。なにせ太っているフェアリーなんて、彼女のほかにはいないのだ。実際、他のフェアリーたちとの目方の差がどれだけあるかはわからないが、飛ぶのが辛そうだなどと、屋敷の使用人たちからも笑われていた。

 黒い服のフェアリーは、逆に瘦せすぎていた。スレンダーな体型はフェアリーらしいともいえたが、ミネルバのような艶めかしいボディラインはない。肩の張った怒り肩で、ポニーテールの黒髪、端正な顔立ちには愛想のかけらもなく、キリリと締まったたたずまいは、少年のようである。細身だが、はかなげとか華奢な感じはなく、ふてぶてしくも圭角をはらんだ印象。ツンデレのデレを期待して近づくと、恐ろしいほど鋭いツンに、半端な野郎じゃケガをする、そんなタイプだ。だが彼女の最大の特徴は、たおや女でしとやかなフェアリー女子には珍しい、そんなふてぶてしくも、鼻っ柱の強そうなところではない。フェアリーの羽といえばガラスに銀砂粉を撒いたような、半透明のキラキラしたものが一般的な認識だ。ここにいるフェアリーたちも、白い服の太めのフェアリーも含めて、他は全員が半透明キラキラの羽なのに、黒い服のフェアリーは、その服わ色に合わせたかのように黒ガラスのような羽をしているのだ。

「アリシアが夜釣りに出かけたなら、どうして報告がなかったの」

 コバルトブルーの服のフェアリーが、強い口調で質す。

「私たちも、てっきりお屋敷で、おとなしくされているものとばかり思っていたので」

 白い服の太めのフェアリーが、申し訳なさそうに答えた。

「ちゃんと張り付いてなさいよ。まったくマーサ、アンタはいつもどこか抜けているんだから」

「カオル、相方がこんな調子だから、あなたがもうちょっと気を利かせるべきじゃない」

 カオルと呼ばれた、黒い服の瘦せたフェアリーは、悪びれもせず、

「気を利かせたわよ。アリシアが桟橋に行くとき、誰にも見つからないように先導したのは私だから」

「なんですって、男爵様のご意向に逆らったの」

「人の楽しみを邪魔するのは好かない性分なのでね」

「よくもそんな口が叩けたものね」

 ライムグリーンのフェアリーが、柳眉を逆立てまくし立てた。

「ミネルバ姉さんが男爵様のお目に止まって、私たちがこちらにお世話になることになったとき、厚かましくも無理やり付いてきた、出来損ないの二人組のくせに。マーサはブタも飛ぶのかと笑われているし、アンタはコウモリみたいだと、気味悪がられていいるじゃないの」

確かに、他のフェアリーたちにはいつも笑顔の屋敷の人々に、この白黒コンビは、はなはだウケがよろしくない。しかし、ハイアット男爵の孫娘で、ここにいるサラの姉のアリシアだけは、この白黒コンビをひいきにしてくれた。他のフェアリーたちはあまり近づけず、マーサとカオルだけを相手にした。殊にカオルとはウマが合うようだった。

「もうよい、おまえたちが言い争うことでもない」

 ハイアット男爵は、人間の女たちのいさかいの場に出くわした気分になって、うんざりの表情であった。

「あれは、執事様では」

 オレンジ色の服のフェアリーが、遠くに佇む後ろ姿を指さした。

「おお、どうやらそのようだ」

 ハイアット男爵も、執事の後ろ姿を認めた。少し前に歩いて行ったが、百数十メートル先の芝の小径に、こちらに背を向けて突っ立っている。

「あんなところで、何をしているのだ」

 ハイアット男爵は近づいて行った。

「スミス君、そんなところでなにを・!」

 近寄りながら声をかける男爵だったが、執事の背中から、冷たく光るものが突き出ているのをみて、足を止めた。執事の体が仰向けに倒れ、芝の地面にのびた彼は、既に息絶えていた。

「よお、男爵、久しぶり」

 死体の向こうから現れたのは中背瘦せ型の黄色人。血濡れの太刀を片手に、上機嫌の態である。

「おのれは、乱雪」

 ランドール伯爵の側近の剣士、キイ乱雪であった。

「太守あたりにそそのかされて、伯爵様を敵に回すとは、貴様ももうろくしたものよ」

 乱雪はブレイヴ体になっている。スプリントタイプ、ジョブはサムライ。天翔一刀流南雲派、師範格の使い手だ。

「こんなことをして、ただでは済まんぞ」

「済むさ」

 乱雪はこともなげだ。

「キャー」

 異変に気づいたメイドが悲鳴を上げ、それを合図にするかのように、周辺に潜伏していた乱雪の手下どもが躍り出る。和やかな夜会は一転、修羅騒然の凶宴と化した。

「ハイアットよ、おぬしも伯爵様との付き合いも長ければ、血生臭い荒事が、我らには珍しくもないぐらい承知していよう。今夜はそれも、チト盛大にやるつもりだ」

「ハイアット様!」

 ハイアット家の剣士たちが、主人のもとに駆けつけて、二人、三人、五人、八人、抜き連れる剣の増えていくのを、乱雪は面白そうに眺めていた。

「こうでなくっちゃいけない」

「おのれ、狼藉者」

「成敗してくれる」

 殺気のこもった怒声にも、

「その意気、その意気」

 茶化すように囃して、しかし雑にさげていた血刀は、斜め青眼に構えを締める。

「命のいらない奴はかかってこい。もっとも、命が惜しいと言われても、生かしておけはしないのだが」

「おのれ!」

「死ね」

 二人のハイアットの剣士が、怒声もろとも斬りかかり、瞬間、乱雪は残像を引くような即座の瞬足で跳ぶ。ズバッ、ズバッ、快断の音を二つ響かせ、二人の剣士はぐうの音もなくこと切れて倒れた。一刀必殺の威力を秘めた、恐るべき業前である。

 しかしハイアット家の剣士たちも、それで怯むものではない。彼らもブレイヴを身に備え剣を携える者。秋水に命を託し、エアを蹴った躍動雄々しく乱雪へと殺到する。十数メートルの距離が、秒余で互いの剣の届く、いわゆる撃尺の間合いまで詰まるスピードと、これに大小のジャンプをを織り交ぜての、超人域での機動力を駆使したブレイヴ体での戦闘は、スピードに加えて展開も多彩で、一瞬の気も抜けない。しかし乱雪は、白刃携えて命取り合う修羅の激流に、水を得た魚のごとく、むしろ闊達としてある。矢のようなスピードで斬りつけてくる敵の剣を弾き、頭上を襲う飛び切りをかわし、背後から迫る敵には、ステップ鋭く反転、ズバリと胴を薙ぎ払った。相手の剣の届く範囲を正確に判断する見切り、敵の次の動きに先んじて応じる読み、そして、エアを履いての体術と剣技、全てのスキルにおいて、ハイアット家の剣士たちを数段上回る乱雪は、食らい尽くす者のごとくにも、次々敵を、切り倒してゆくのであった。

 俄かに降って湧いた血の雨に、呆然のハイアット男爵だったが、気がつけば修羅はここだけでなく。庭園のいたるところ、屋敷の中にまで、血生臭い争乱の繰り広げられているようだった。

 スプリントタイプの槍使いに、剣士が斬りかかる。槍で受けざまの跳躍、頭上からの突き下しで仕留める。更に二人の剣士が斬りつけてくるが、男は槍さばきも巧みに受け払う。ミスリル製の槍は、全体がミスリルで出来ていて、柄の部分も鋼鉄並の強度があり、剣を受け止められるのだ。槍の扱いに巧みな者は、盾に匹敵する対剣防御を発揮する。槍使いはジョン・アスタム、ミスリル製可変槍を武器とする、マスタークラスのバトルランサーだ。ランドール伯爵に雇われての、今夜は初仕事だが、既に五六人の敵を仕留めていて、リンゴを丸かじりする歯ほどにも、達者な戦いぶりを見せていた。

 更に、風の尾を引いて、地上を翔ける一個の飛影。月下、風になびく栗色の髪は、浴びた返り血の変色し始めて、所々ドス黒くこわばっている。ストリームを駆って数十センチ浮上して、飛燕のごとくにも迅速自在に翔けるのであった。襲い掛かる敵には風刃一体、機動力と攻撃力の一体となった業前の冴えて、たちまちに二人を斬り捨てた。月明かりに浮かぶその顔は、細面も美しい白人女性であった。すっぴんでも際立つ美形は、浴びた返り血も凄惨に、さながら夜叉姫の化粧のようだ。チームアスタム所属、獅波新陰流のサムライ¥、令香アスタムである。

 令香はまた一つ、庭園を走る影を見つけてストリームを飛ばす。斬りかかる直前、「待って」

 願うような叫びに動きを止めた。若い女だった。令香も若いが、さらに三つ四つ年下、まだ少女と言ってもいい年頃だ。

「楽士よ」

 女は安っぽいドレスを着て、手にはヴァイオリンを持っていた。

「演奏のために、仲間たちと来ていただけなの。こちらのお屋敷とはなんの関係もないの」

「・・・」

「疑うのなら、一曲披露するわ。だからお願い、見逃して。まだ、死にたくない」

 女はヴァイオリンを構え、震える手で弓を絃に当てようとする。

「令香、斬れ」

 アスタムの声だった。

 令香は間髪入れず、大刀を振り下ろした。月光に白く冴えた刀身は、女の額から形の良い顎の先まで。真っ直ぐな赤い線を引いて抜け。胸のまえに構えていたヴァイオリンも二つにした。あたかも、プツンと絃の切れた音が命の切れた音であるかのように、女は二つになったヴァイオリンと共に前のめりに倒れて息絶えた。

 後味悪げに女楽士の死体を見下ろす令香のもとに。アスタムがエアで駆けて来た。

「オイオイ、こんなことでいちいち気にとがめてたんじゃ、この商売やってゆけんぞ」

「分かってるわよ」

「この稼業で甘い汁吸おうと思ったら、魔王の片棒だって担ぐぐらいの根性が必要だ。お前も、覚悟は出来ているはずだ。それとも久々のアナハイムで、元カレのことを意識したか。なにごとにも筋目を立てたがるあいつが、今夜のおまえの所業を見たらなんと言うかな」

「昔のことを、こんなときに蒸し返さないでよ」

 令香は不機嫌に、青い瞳に険を刷く。タイトな黒革のジャケットにパンツ、ロングブーツを履き、腰に大小を差した出で立ちは、いかにも夜襲仕様であるかのようだが、令香のいつもの服装である。

「昔のことか。それなら、たとえアイツと戦うことになったとしても、心が揺れることはないよな」

「たとえ殺し合うことになったとしても、今さら、揺れも迷いもしないわよ。だけど、私や兄さんで、彼に勝てるかしら」

 令香は意地の悪い皮肉を兄に返したが、

「心配は要らない。こっちには、あの人斬りモノマニアの旦那がいる」

アスタムはさらに人の悪い笑みで、乱雪の方を目で示した。折しも乱雪は、逃げるメイドに背後から一刀を浴びせたところであった。乱雪にとっては撫でた程度の一振りだが、女の細身を背後から胸まで割って、斬って捨てた。

「おのれ!」

 駆けつけて、猛然と殺気をぶつける者があった。

「なんだ、うぬは」

 乱雪はうるさそうに一瞥をくれた。若い剣士で返り血に汚れていた。

「どうやらハイアットにも、そこそこ使える奴がいたようだな。そうでなくては面白くない」

「黙れ、ランドールの猟犬、よくもローザを」

「ローザだと」

 乱雪は、さっき切り捨てた、メイドの死体を見やり、

「うぬの女か、そいつはご愁傷だったな」

「おまえを殺す」

「その腕では出来ぬ願いだ。好きな女と同じ刀で屠られるのを、せめてもの冥加といたせ」

 乱雪が跳んだ。ハイアットの剣士もエアを蹴って駆ける。二つの影が高速でぶつかって、叩き合う白刃が火花を散らす。正面からの激しい打ち込み。脛切りから籠手切り、面へと切り上げる三連一組の太刀筋や、ジャンプからの飛び切り、鋭いステップで側面に回り込みながらの切り上げ、持てる技の限りをぶつけるハイアットの剣士に、乱雪は受け一方だった。しかし押されているのではなく、むしろ受けながらも、岩壁の迫るがごとき圧迫感を相手に与えていた。乱雪は相手の剣を完全に見切る余裕の受けで、顔には笑みがあった。

「トラキア流撃剣術。ベースは天翔一刀流というが、踏み込みが甘く、打ち込みもスカスカだ。キャベツや大根を切るのならともかく、とても人を斬る技とは思えぬ」

「なんだと」

「天翔一刀流の精髄は、我ら南雲派に受け継がれている。その一雫なりと見せてやろう。ただし、おまえに、見えたらの話だが」

 エアを蹴った乱雪の姿が残像に霞み、想像を超えた瞬足と、雷光と化す太刀に、男は、あっと息を吞み反応しようとしたが、ズバッと体内を走り抜ける冷たい衝撃に痺れた。斬られたのは分かったが、どこをどう斬られたのかは分からない。急速に力と意識が薄れてゆき、ローザ・・・恋人の名の脳裏を過ぎり、やがて全てがフェードアウトしていった。

 乱雪の一刀は、男の体を肩口から腰にかけて袈裟懸けに斬り落とし、斜に切断された体は、ズルっとずれるようにして崩れたのであった。

「ランドール様より頂いたミスリル来国俊、いやはや、良く切れる」

 乱雪は、今しがた比翼連理の一対を摘み取ったことなどすでに意識の片隅にもなく、惚れ惚れと、切れ味抜群の愛刀に見入るのであった。

「ああ、なんでこんなことに」

 空中に羽ばたき、地上の惨劇を眺めるばかりのフェアリーたち。ミネルバはオロオロするばかりで、まったく、こんなときフェアリーたちは、蝶々のごとくにも無力だった。

「アリシアに知らせなきゃ」

 カオルは、白い服の太めのフェアリー、マーサの手を取り飛び行こうとしたが、

「待って」

 ミネルバに止められた。

「あんな子に知らせてどうなるの」

「私たちは、アリシアの担当でしょ」

「そんなことは、いったん置いといてよ」

 ライムグリーンの服のフェアリーが口を出した。

「そうよ、非常事態なんだから、みんなで力を合わせなければ」

 オレンジ色の服のフェアリーも言った。

「だったらどうするのよ」

 カオルに問い返されて、

「そうね・・・」

 ミネルバは考えを巡らせた。

「クレスタ砦へ知らせに行ってはどうかしら。あそこの隊長さんは、以前から男爵様のお世話になっているもの、きっと助けを出してくれるわよ」

「それにしたって、みんなで行くことないでしょう。手分けして動けば。私たちはアリシア。クレスタ砦や、ほかにもハイアット男爵様の味方になってくれそうな方々のもとに、手分けして飛んで行くのよ」

 カオルの提案に、

「夜は危ないから、みんなでまとまって動いた方がいいの!」

 金切り声を上げたミネルバだった。

 屋敷の中では女王然として振る舞っている彼女だったが、庇護してくれる人間の力の無いところでは、かなり臆病だった。

「でも、クレスタ砦まで行ってたら、さすがに間に合わないじゃないの」

 コバルトブルーの服のフェアリーが言って、

「近くの村の長に、助けを求めては」

 また別の意見が出る。

 そんな彼女たちの様子を、木陰より見上げている男がいた。足元に大きな麻袋を置いていて、そいつがうねうねと動いているのだ。男はしゃがみ込んで、固く縛っていた麻袋の口紐を解きにかかる。

「さあ、メシの時間だ。フェアリーの別嬪どもを、たらふく食らえ」

 口紐が解かれると、麻袋の中から長虫のようなものがぞろぞろ這い出してきて、次々に夜空へ飛びたって行った。

「それならどうするか、早く決めてよ」

 イライラした口調のカオル。マーサはその横でおどおどしている。

「お荷物のくせに、偉そうにしないでよ。そんな口叩ける立場じゃ・キャッ」

 強い口調でカオルに意見していたライムグリーンの服のフェアリーが、突如何かにさらわれた。

「鳥?」

 フェアリーたちが目で追うと、月夜の空に、奇怪な生物が羽ばたいていた。いくつもの節のある胴体の側線に沿って生えた襞のような羽を、ウエーブさせるようにして羽ばたいている。体長は四十センチぐらい、ムカデのような節足動物の形態をしていて、太いハリガネのような長い前足が四本あり、そいつでフェアリーをしっかり捕らえていた。頭部に単眼と、内側にトゲのような歯のびっしり生えた丸い口があり、その口がぬっと伸びてくる。

「シーカー」

 それはフェアリーたちにとって、最も忌むべき生き物だった。

「パメラ!」

 仲間たちが名を叫ぶ。ライムグリーンの衣装を身にまとうフェアリーのパメラは、長い緑の髪をなびかせて飛ぶ姿が森の妖精のようだと、屋敷の人々にも愛されていた。グループの中では、ミネルバに次ぐ美貌を謳われて彼女の胸元に、シーカーの丸い口が管のように伸びて、

「イヤーッ!」

 パメラは必死に抗うが、シーカーにつかまれた手足は、がっしり固定されて動かず、丸い口が白桃のような胸元に食らいつく。

「ギャアアア」

悲鳴をあげるて手足をジタバタさせるが、シーカーは構わず、彼女の血肉を管のような口で吸い上げていく。最初、必死にあがいていたパメラだったが、全身を痙攣させ。やがて動かなくなった。白眼を剥き、血の泡を吐き、そして彼女の体は、どんどんシーカーの腹に収まってゆく。

 固唾を飲んで、パメラの最期を見ているしかないフェアリーたち。いつもは人間たちが、外敵から守ってくれるのだが、今は彼らもそれどころではない。

「キャー」

 また新たな悲鳴があがり、オレンジ色の服のフェアリーが、三匹ものシーカーに取り付かれていた。

「シェリル」

 そして辺りを見回すと、シーカーは月夜の空のあちこちにいて、丸い単眼がフェアリーたちを狙っていた。

 シェリルに取り付いたシーカーどもは、パメラを食べている奴のようにバリバリ食らうのではなく、管のような口を通して長く伸びる舌を彼女の体内に刺し込み、胃液を流し込んで彼女の体内を溶かして、液状にして吸い上げてゆく。若々しい乙女だったシェリルは、中身の抜けていく革袋のように、醜くたるみ、しなびていった。

「逃げるのよ」

 フェアリーたちは無二無三、四方八方に飛んで逃れようとしたが、シーカーは飛ぶのが巧みでスピードがある。コバルトブルー、パープル、パステルカラーな衣装のフェアリーたちが次々捕まり、いいように食われてゆく。

 ミネルバも、上臈の気品などかなぐり捨てて飛んだが、ひときわ大きなシーカーに捕まった。そいつは管のような口でミネルバに食らいつくのではなく、下腹部から太い針を出した。メスの個体だった。この針を獲物に刺し込んで、体内にシーカーの蛆を生み付けるのだ。この針を刺されたら、ミネルバは体内をシーカーの蛆に食い尽くされ、やがてズタ袋のようになった彼女の皮を食い破り、シーカーの成虫が現れることになるのだ。

「イヤーッ。おまえなんかの子供を体に入れられるぐらいなら、変態オヤジに舐められた方が、まだ百万倍マシだっちゅ~の」

 ミネルバは死に物狂いにあがくが、シーカーの前足は、金輪のように彼女の四肢をがっしり捕らえていて、上臈然として、日々を優雅に過ごしてきたミネルバの筋力では、びくともしないのだ。シーカーは胴体をググっと曲げ、針を突き刺す直前の体勢。あと数秒後には、その針はドレスの生地を貫いて彼女の横腹あたりに刺し込まれ、そして・・・

「ひぃ~~~」

 ミネルバは気を失いそうになる。

 ドカッ、なにかが勢い良くシーカーの頭部にぶつかり、空飛ぶ長虫もしたたかダメージを受けてふらつき、ミネルバを捕らえていた前足も緩んだ。

「姉さん、しっかりして」

 ミネルバをシーカーから離したのは、マーサだった。

「アンタは・・・」

 マーサは、シーカーの頭部に体当たりしたのだ。シーカーは頭部に単眼を備えていて、じつはこのあたりは連中の急所の部位なのだ。しかしフェアリーがシーカーに体当たりするなど、人間ならライオンに体当たりするぐらいの、勇気の必要な行為だった。

「姉さん、大丈夫」

「ええ、まあ・・・」

 ミネルバは体を撫でまわして、どこにも、あのいやらしい針を刺されていないことを確認して、ほっと息をついた。

「ありがとう、あなたは命の恩人よ。感謝するわ」

「そんな、私たちこそ、姉さんには、いつもお世話になっているもの」

「それもそうねぇ」

 恐縮するマーサに、ミネルバはいつもの立場を取り戻す。

「アンタたちがこれまでこのお屋敷で暮らしてこれた、つまりは生きてこれたのは、この私あってのことだものね。私のために、一度や二度命投げ出したって、バチが当たらないって・」

 ギィギィギィ、耳障りな鳴き声に振り返ると、あのシーカーがこちらを睨んでいた。怒りのしるしの如く、黒だった単眼が、赤く光っている。

——しまった——

 さっさと逃げてりゃよかったと、ミネルバは臍を嚙む。いくら急所に食らったとしても、マーサの体当たりぐらいで、くたばるタマではなかった。

 二人いっぺんに始末してやると、襞のような羽を波打たせて襲い掛かるシーカー。ミネルバは恐怖のあまりマーサに抱きつき、マーサは身動きもならず、迫りくる怪虫を見ているしかなかった。

——ダメだ!——

 マーサが死を覚悟したそのとき、ガツンと重く打ち付ける響きがして、シーカーがフラフラ落ちていった。

 ? 

 なにが起きたのか分からず、呆然としていたマーサの上に、

「人助けなんかしている場合かよ」

 厳しい声が降ってきて、見上げるとカオルだった。彼女がシーカーの頭部に、渾身の蹴りを叩き込んだのだが、綺麗で非力が定番のフェアリーの蹴りが、硬い外皮に覆われたシーカーに、それほど効くものか。しかしカオルは、フェアリーらしからず、空中に羽ばたいてのファイティングポーズも様になっていた。

「カオルちゃん、後ろ」

 マーサが叫んだ。

 背後から襲い掛かるシーカーに、カオルは空中にトンボを切ってかわすと、頭部に拳を叩き込んだ。非力なフェアリーのパンチかと思いきや、ビシッとシーカーの外殻を割る威力があり、シーカーはきりもみしながら落ちていった。

「素手でシーカーをやっつけるフェアリーがいるとは、驚きね」

 ミネルバが目を瞠る。

「自分でも信じられなかったわ。シーカーどもに襲われて、夢中で戦ったら結構やれたのでビックリよ」

「どうやらアンタ、その黒い羽は伊達じゃない、余程の変り種のようだね」

「姉さん、今はそんな話している場合じゃないと思うけど」

 マーサの言葉に、それもそうと、ミネルバはあたりを見回した。

「ほかの子たちは」

「ラナとミアは助けたわ。襲い掛かっていたシーカーをぶちのめしたら、声をかける間もなく、どこかへ飛んでった。ローズとミミはどうしようもなかった」

「ネネは」

 ネネは、レモンイエローの服を着たフェアリーで、ミネルバのお気に入りだった。

「見なかったわ」

「姉さん、まだシーカーがうようよいるし、急いでここを離れないと」

「アリシアのところへ行くわよ」

 カオルが言って、飛び立とうとする二人を、

「待ってよ」

 ミネルバが呼び止めた。

「ねえ、クレスタ砦の隊長さん、私に気があるみたいだけど」

 しなを作って見せるミネルバに、カオルとマーサは顔を見せる。

「行きたけりゃ、一人で行きな」

 言い捨てざまカオルが飛び立ち、マーサも続く。

「待って、一人は嫌よ」

 ミネルバも懸命の羽ばたきで、二人を追った。

 屋敷の中は血の海であり、いたるところに死体が転がっていた。ハイアット男爵は七八人の男たちに取り囲まれながら、自分の屋敷の中を歩いた。ほんの数時間前まで、ここは彼にとって繁栄の証、安逸の住処だった。月に一度は、大勢の客を招いて、舞踏会を開いた大広間。楽しそうに笑いに満ちていたラウンジ。友人たちとポーカーをして、徹夜になることも度々だった客間。そこが今は、どこもかしこも血で汚れ、地獄のありさまだった。襲撃者たちは兵士ばかりか使用人も容赦せず、下男は頭を割られ、ついこの間奉公に上がったばかりの、まだ十代のメイドは、喉をざっくり裂かれていた。

 廊下の途中に中年の婦人が斬殺死体となって倒れていた。三十年以上奉公してくれた女中頭で、このような最期を迎えさせてしまい、済まないと、ハイアット男爵は思った。

「まったく、あんたがランドール様に歯向かったばかりに、使用人まで、えらいとばっちりだぜ」

 乱雪は、存分に返り血を浴びた様でいながら、ぬけぬけと人ごとの口調であった。

「どこへ行くんだ」

 アスタムが聞いた。

「ランドール様が預けていた物を返してもらいに行くのだ」

「預けていた物とは」

「見ればわかる」

 既に屋敷の間取りは調べてある。ハイアット男爵に案内させずとも、勝手知ったる足取りで進み、地下への階段を降りて行く。発光石のライトで照らす地下通路の先には、頑丈そうな扉があった。

「地下の金庫室か」

 アスタムが声を弾ませる。

「そうだ。それも、そんじょそこらのとは、わけが違うって代物よ」

「なにか知らないが、余程のお宝が入っているのだろうな」

 アスタムは扉の取っ手を握った。

「ロックされている」

  両開きの扉は、一ミリも動かない。

「おい、出番だ」

 乱雪の声に応じて、一人の男が進み出た。剣などは身につけてなく、代わりにガチャガチャ音のするショルダーバッグを提げていた。

「何者だ」

「自称、アナハイム一の錠前師、どんな鍵でも開けるそうだ」

 錠前師の男は、扉の前で腰を落とすと鍵穴を覗き込み、バッグから、先端が奇妙な形をした細い金属の棒を何種類か取り出し、やや思案してから、そのうちの二本を鍵穴に入れ、微妙な指使いで操った。

「開けられるのか」

 疑うようなアスタムに、

「開けられなければ斬ると言ってある。自信がなければ、ただの死にたがりだろう」

「まだ死ぬつもりはないですぜ」

 錠前師の男が言って、カチャリと仕掛けの外れる音がした。

「開きましたぜ」

「開けろ」

 乱雪は、そのまま扉を開くように命じ、自身は何かの仕掛けがあった場合に備えての、油断ない目つきである。

 扉が開くと、二メートルほど奥に、もう一枚扉があった。それはプラチナのようなピカピカの銀色で、取っ手はなく、中央に鍵穴らしい小さな穴がある。

「これが、そんじょそこらにない、特別な金庫だ。あとは鍵だが」

「アナハイム一の錠前師に開けさせればいいじゃないか。どんな鍵でも開けるのだろう」

 アスタムの視線を受けて、錠前師の男は銀色の扉の前にしゃがみ込んで、ランタンをかざして小さな穴を覗き込む。

「これは・・」

 錠前師の男は呆れた表情で振り返った。

「どこにも仕掛けの溝なんてない、ただのつるんとした三角錐の穴ですぜ。これが鍵穴だっていうのなら、その仕組みは、あっしらには見当もつかない」

「そういうことさ」

 したり顔の乱雪は、ハイアット男爵に目を向ける。

「鍵ならここにある。ほれ」

 ハイアット男爵は、上着のの内ポケットから出したそれを放り投げたが、アスタムが素早く空中で掴んだ。

「これが・・・」

 アスタムはそれを眺めた。確かに一般的な鍵と比べると形はシンプルだった。底部の辺が一センチぐらいの三角錐で、長さは五センチぐらい。銀色をしていて先端は平だった。表面には髪の毛よりも細い線で、文章らしきものが線刻されていたが、アスタムの知らない文字で読めなかった。たぶん何かの呪文なのだろうと見当をつけた。小さな三角錐にはハイアット家の鷲と百合の家紋の彫刻も精緻な、銀の取っ手も付いていた。

「鍵は渡した、もう私に用はなかろう。さっさと殺すがよい」

「そうはゆくか」

 ハイアット男爵に、乱雪は見透かした顔で、

「そいつを差してみろ」

 アスタムに指示した。

 アスタムは、銀色の扉の穴に三角錐の鍵を差したがなにも起きなかった。左右に回そうとしても動かない。

「鍵が違ってるぜ」

「いや、違っていない。この扉は鍵が正しくても、使う人間が違ってたら開かないのさ」

「どういうことだ」

「古代王朝以前のオーバーテクノロジーさ。鍵を通じて扉とつながると、扉の方でその人間を識別するのだ。かなり高度な識別でごまかすのは不可能。使用者として登録してある人間でない限り、ロックは解除されない。つまりここを開けることができるのは、ハイアット男爵ただ一人というわけさ」

「そんなのが、なんで田舎貴族の屋敷の地下にあるのだ。帝都の、皇帝陛下の宝物庫にでも行かなきゃお目にかかれない代物だぜ」

「なんでも、この家の遠い先祖は、旧王朝の金庫番だったとかで、そんな縁で、こんなご大層な地下金庫が何百年にも渡って伝来して来たらしい。ランドール伯爵様もこの金庫を大いに買って、金庫番にして自分の資金をも預けていたのだ。それほどまでに信用していたのに、裏切って太守派に与したものだから、伯爵様も激怒されて、この度の果断の処置と相成ったわけだ。まったく、ランドール様の恐ろしさは十分承知していようものを、なにを血迷ったのやら」

「いい加減、ウンザリしたのだよ。あの男の、傲岸不遜のすまし顔を見るのにな」

 ハイアット男爵は、博打に大負けした人のような、落魄の表情だった。

「わからぬでもないが、人生しくじらぬコツは堪忍というぞ。育ちのいい奴は辛抱が足りんというわけだ。さあ、世間話はこれぐらいにして、お重代の大金庫、開けてもらおうか。素直に開けてくれたら、長年のよしみだ、おぬしとおぬしの家族は助けてもいい。ランドール様にも、それぐらいの慈悲はあるさ」

「ランドールの慈悲か」

 ハイアット男爵は、空虚にひとりごちる。

「あいつがそんなことを思いつくのは、慈悲を施すことによって自分に利益が出る場合のみだ。しかし、事ここに至っては、そんなあやふやなものにでもすがるよりあるまい」

 ハイアット男爵は、鍵を受け取り扉の鍵穴に差した。アスタムでは微動だにしなかった鍵穴がするりと半回転して、ブーンとなにかが扉の中で目覚めたような音が微かにした。すると次に、ピッピッと鍵穴が鳴り、男爵が鍵を引き抜くと、扉が中央から割れ、左右に自動で開いた。

「こいつはたまげた。こんなのは見たことがない」

 錠前師の男が、驚嘆の声をあげる。

「古代王朝のテクノロジーだか知らんがな、大した仕掛けだ」

 アスタムも驚いたが、欲に駆られて飛び込むようなマネはしない。こういうものにはトラップが仕掛けてあったりするのだ。

「物騒な仕掛けなどないよ」

 ハイアット男爵は、金庫室の中に入る。幅は六七メートル、奥行はその三倍はありそうだった。陶磁器や彫刻を収めたガラス戸棚があり、戸棚に入らない大きさの甲冑や花瓶が台の上に置かれていた。

「骨董だ。市井のコレクターなら目を輝かせるかもしれんが、皇帝陛下のコレクションルームでは端にも置いてもらえぬ、そんな程度の代物だ。そして、ランドールからの預かり物は奥だ」

 奥には上下五段に仕切られた頑丈そうな棚があって、各段には金属製の保管箱が十数個、隙間のない状態で並んでいた。ハイアット男爵は、下から二段めの棚から保管箱の一つを引き出した。重そうな様子で、床に置くときズシンと音がした。ハイアット男爵が蓋を開けると、金色の輝きが男たちの目を打った。

「一箱に、百ユーロ金貨が千枚入っている。一番奥の棚まで全部これで埋まっている。ウチの蓄えもあるがくれてやるよ。家族の命が助かるのなら安いものだ」

 ハイアット男爵の言葉は、金貨の輝きに目を奪われている男たちの耳には届いていないかのようだ。

「他にも欲しいものがあれば、なんでも持って行くがいい。もっとも、お前たちに骨董などは、猫に小判だろうがな」

「そうかい」

 乱雪は金貨から男爵へと視線を移した。

「じゃあ一つもらおうか」

 ハイアット男爵の後ろにいる部下に目配せしつつ、

「なに、大したものじゃない。あのガラス戸棚の中の、ガラクタ一つにも及ばぬものだ」

「私の蒐集品をガラクタ呼ばわりするとは、人並みの審美眼など持ち合わせぬ、やはりきさまらは猿猴に等しき野人ども、うぎゃ」

 乱雪の手下が、ハイアット男爵の背中に深々と剣を突き刺した。床に崩れる男爵を、乱雪は冷淡をもって見下す。

「悪く思うな、アンタは必ず始末するように言われているのでね。なんのことはない、もはやアンタの命がガラクタ以下のゴミだったというわけさ。それと、アンタの家族は片づけておいた。子供を手に掛けるのはいささか忍びなかったが、まあ、あの世とやらで、一家団らんを楽しむのだな」

 乱雪は愉快そうに薄笑いを浮かべ、その心に忍びないなどという、人間らしい感情など皆無であるのは明らかだ。

「フフフフフッ」

 今わの際のハイアット男爵も笑った。

「なにがおかしい」

「人をだますのは、たっ、ゲホッ、楽しいものよ」

 ハイアット男爵は、血を吐きながらも、虫の息で笑った。

「なんだと」

「人をペテンにかけるのは、おぬしの専売特許ではないと、ランドールに伝えておけ」

 ハイアット男爵は、それだけ言うと息絶えた。

「どういうことだ」

 さっきまでの笑いも失せ、苛立つ乱雪だった。

「あっ」

 箱の金貨に手を伸ばしていたアスタムが、がっかりしたような声をあげる。

「どうしたら」

「上げ底だぜ」

 金貨がぎっしり詰まっているように見せて、上げ底に百枚足らずが敷いてあるだけで、ひっくり返すと、重量の正体は石ころだった。

「他の箱を調べろ」

 一斉に棚の箱を、手当たり次第に引っ張り出してはひっくり返す。

「こっちも上げ底だ」

「こっちもだ」

「後ろの棚はどうだ」

「こっちは上げ底もない。石が詰めてあるだけだ」

「クソッ」

 何百とある箱を、片っ端から引っ張り出してはひっくり返し、あらかた中身を確かめたが、上げ底の見せ金が二三百枚あったろうか、あとは石ころだった。

「なんてこった。お宝のありかを抱えたままくたばりやがった」

 自分が殺させておきながら、してやられたという口調の乱雪であった。

「どれぐらいあった」

「伯爵の預けた金が二千万だ」

「二百箱か」

 アスタムは思わず口笛を吹いた。

「クソッ、面倒な宝探しをする羽目になったぜ」

「だが、二千万ユーロともなれば、宝探しもワクワクするってもんだぜ」

「オイオイ。妙な料簡は起さんでくれよ」

 乱雪が物騒な目つきでたしなめる。

「身の程はわきまえているさ。だが、二千万回収したら、二百万ぐらいの分け前はあってもよかろう」

「今の言葉は、伯爵様には黙っておいてやる。おぬしは使えそうだから、命を縮めさせるのは惜しいからな」

「それはどうも、お気遣いいたみいる。しかし、金を確認してから殺すべきだったな」

 アスタムは興醒めの顔で、チクリと言い返した。

「先祖伝来の金庫に、まさか石くれを積んでいるとは思わぬさ。なに、事情を知っていそうな奴を、片っ端からとっ捕まえて締め上げれば、金のありかもいずれ知れようというものだ」

「だけど、男爵の家族や側近は大概殺したのだろう」

「調べれば、どこかに知っている奴がいるはずだ。ありませんでしたで、済む話ではないからな」

「それはそうだ」

「しらみつぶしに捜すとして、先ずは・・・」

 乱雪が太刀を抜き打った。凄絶の一刀は、部下の一人を悲鳴を上げさせもせず、背後から袈裟懸けに斬り倒した。

「!」

 意表を突かれた表情のアスタムに、乱雪はフフンと鼻を鳴らした。

「金のありかを確かめもせず、ハイアットを殺したのは確かに失態だからな。誰かが責任を取らねばならぬのだ」

 いや、お前が取れよと、思わずツッコミそうになるのを喉元に止め、

「さすがランドール伯爵の懐刀、人使いもそつがない」

 などとお追従を口にしながら、こいつにはうっかり背中は見せられないと、肝に銘じるアスタムだった。

 

 月明かりの空を三人のフェアリーが飛んでいた。ハイアット男爵の屋敷から、コーラル湖の船着き場まで、馬を走らせれば十分もかからない距離だ。フェアリーたちは途中に広がる林の木々を見下ろして越える。林には夜行性の動物がいて、夜中に飛び抜けるのは危険だからだ。こんなに月の明るい空だと、鳥に襲われる危険があるが、夜の鳥ならばかわしやすい。そしてフクロウは、どういうわけかフェアリーを襲わない。

 林を越え野を渡り、やがてさざ波一つなく、夜を映す鏡の如き湖面の上に出た。月夜の湖を渡るフェアリーたちを、偶然目撃した者がいたら、その目にはファンタジーな光景に映ったかもしれない。しかし当のフェアリーたちは、なんとも血生臭い、リアルの地獄絵図を逃げ出して来たばかりなのだ。

 フェアリーにしては珍しい、黒い羽のカオルが先頭を行き、これもフェアリーにしては珍しい、太めのマーサが続き、派手なメークやドレスが、フェアリーという言葉が一般に与える清楚なイメージとは裏腹の、あだっぽくて水商売風なミネルバがしんがりだった。

 カオルはもっと速く飛べたが、マーサやミネルバを置き去りにも出来ない。マーサはそれでもカオルについて来ていたが、いゆも屋敷の中を優雅に飛び回っていたミネルバは、長距離の飛行は辛そうで、次第に高度が下がりだす。

「あまり水面に近づくと危険よ。水面から一メートル以上も跳ねて、鳥を襲う魚だっているんだから」

「わかったわよ」

 カオルに注意され、ふくれっ面で高度を持ち直すミネルバだった。

「姉さん、もう少しの辛抱よ」

 マーサが励ますと、

「もう少しって、あとどれぐらいよ」

 不平顔で言い返す。

「いつもならとっくに、ふかふかの羽毛ふとんにくるまって休んでいる頃なのに、夜ふかしで長距離飛行なんて、お肌へのダメージ大よ」

「なに、寝ぼけたことぬかしてんだよ」

 カオルが遠慮のない言葉を投げる。

「屋敷で何を見てたのよ。もうアンタのいつもなんてもんはありゃしないんだよ。これからは、いつもこんなかもしれないし、いつも、もっとひどいかもしれない。ついて来るのなら、それぐらいの覚悟は決めてよ」

「・・・」

 ミネルバは、悔しそうに唇を噛み、やがて力なく嘆いた。

「世の中は薄情なもの。恩義は水に濡れた紙よりも破れやすく、立場が変われば手のひら返し。私ももう厄介者でしかないのよね」

「そんなことないわ。姉さんは、なにがあろうと私たちの姉さんよ。カオルちゃんは、ちょと気がたっているだけなの」

「心にもないこと言わないでよ」

 寄り添うマーサの手を邪険に払って、

「あんたも、私なんてお荷物ぐらいにしか思ってないでしょう」

「そんな、私はこれからも姉さんを立てて、決してないがしろにすることなどはありません」

「わかったわよ。いいからもうほっといてよ。一人になりたいの」

「でも・・・」

「こんなに月が明るいもの、アンタたちのケツを見失ったりしないわよ」

 そう言われて、マーサは気に掛けながらも、少し先に飛んで行った。

 一人になったミネルバは、カオルの後ろ姿を見やり、苦々しい顔で想いを巡らす。

——お人好しのマーサはともかく、あのカラス娘にギャアギャア言われながら生きて行くなんてまっぴらだよ。こんなことなら、一人ででもクレスタ砦に向かってたら・——

 ギギギ・・耳障りな鳴き声が聞こえ、生臭い気配に振り返ると、赤い目玉がすぐ後ろにあった。

 夜の湖に漕ぎ出すボートの一艘もなく、ただただ平坦な水面の先、ついにカオルは小さな舟影を見つけた。

「あれだ、アリシア」

 まつぃぐらに飛んで行こうとしたカオルの横を、

「ぎえぇぇぇ」

 奇声をあげたミネルバが、さっきまでのダラダラ飛行がウソみたいに、矢のような全速力で追い越して行く。

「なに」

 振り返るとそこには、血のような赤い目玉もをおどろおどろしき、空を駆ける長虫のいた。ミネルバに幼虫を生み付けようとしていた、あの個体だ。

「シーカー、追ってきたか」

 カオルはファイティングポーズを取る。

「カオルちゃん」

「アンタは逃げて。アリシアのボートがこの先よ」

 早口にマーサに告げて、あとはシーカーに集中する。

「一人でやるつもり」

「あなたに戦えるの」

 薄情に言い返す。ミネルバは後を振り返りもせずに飛んで行った。マーサにも、すぐにここから遠ざかって欲しかったが、

「戦えるよ」

「はあっ」

「私だって、体当たりでミネルバ姉さん助けたもん」

「そんなのまぐれでしょう」

「カオルちゃんが死ぬときには、私も死ぬと決めてるの。だから、カオルちゃんが戦うのなら、私も戦う」

 強情である。普段はおっとりしているが、一旦言い出したら聞かないのだ。

「好きにしな。私は死ぬつもりはないけどね」

 もう、マーサを相手にしてはいられない。空中に泳ぐ海蛇の如きシーカーの、赤い目玉がこちらを狙っている。幼虫を生み付けるシーカーは女王蜂のような存在で、赤い目玉が特徴であり、体も他の個体よりひと回り大きいのだ。

 シーカーが、ぬっと長い胴体を蛇のように伸ばして襲い掛かる。カオルは機敏な動きで躱すが、シーカーのくねくねと長い胴体の巻き込むような動きは厄介だった。噛みつきかかる頭部を避けても、長い胴体が意外と近くにあって、危うく巻き込まれそうになる。カオルはとっさにシーカーの胴にパンチを見舞った。シーカーの胴体は短い間隔で切れ目の入る硬い外皮に覆われていて、フェアリーのパンチぐらいではこたえないはずだった。しかしカオルの拳はバキッと音を立てて硬い外皮を割り、シーカーは苦痛に身をよじる。カオルはハチドリのような高速の羽ばたきによる素早いフットワークでシーカーを翻弄してパンチを打つ。

——コイツには勝てる——

パンチは通用するし、動きもシーカーを凌駕している。カオルは、何かと命がけで戦ったのは今日が始めてで、戦闘訓練なんて受けたことがないのに、戦うことに全く違和感がなく、これが本来の自分だと思える。それは、この黒い羽をもって生まれた事と関係があるかもしれない。両親が誰かも知らず、血筋についてもなにも分からず、ただ、生まれ持ってきた黒い羽によって、周囲から異端のごとく扱われてきた。しかし、今、納得がいった。自分は戦うためのフェアリーだ。血筋についての憶測は措くとして、なるほど異端である。

 カオルは、足手まといにならないように離れて羽ばたきながら、戦いを見守っていたマーサに、余裕の顔を向けた。

「心配ないわ。こんな奴ボコボコに」

「カオルちゃん、危ない」

「えっ!」

 カオルが目を離した一瞬の隙を捉えて、シーカーは口から糸を吐いた。シュルシュル、放水する勢いで吐き出された糸が、カオルの体にかかってまとわりつく。

「しまった」

 カオルは糸を引き剝がそうとしたが、それは蜘蛛の糸のように、ねばねばした粘着性を持って絡みつき、簡単に引き剝がせるものではない。シーカーが糸を吐くとは聞いたことがなかったが、勝てると踏んで、つい目を離した己の迂闊をカオルは悔いた。そうこうしている間にもシーカーは、口から吐いた糸で絡め捕らえたカオルを、前足で糸を巻くようにしてたぐり寄せる。このまま餌食になるかと思った刹那、ドスンとカオルは体当たりを受けて糸がちぎれた。

「マーサ」

 マーサは抱きつくようにカオルに体当たりして、その勢いでシーカーの口に繋がった糸を切った。

「逃げるわよ」

 だが、ねばねばの糸が羽に付着していてうまく飛べない。

「ダメ、糸が羽にくっついていてまともに飛べないわ。あなただけで逃げて」

「一緒に逃げるのよ」

 マーサはカオルを抱きかかえて懸命に羽ばたく。しかし、元々スピードのないマーサが、飛翔力の落ちたカオルの分も補って飛んでいては、とてもシーカーから逃げ切れるものではない。

「このままだと、二人とも食べられるわ」

「死ぬときは一緒って言ったでしょ」

 カオルを抱き寄せ振り返ったマーサの目に、蛇とムカデを混ぜ合わせたような、奇怪なシーカーの姿がすぐそばに迫る。

「ううっ、天国で再会する日も近いかも」

 シーカーは二人を捕らえようと、くねくね泳いでいた体をシュと伸ばす。一気に距離が縮まって、

 もうダメ!

 マーサが目を閉じ、次の瞬間、

「グエェェェ」

奇怪な悲鳴があがり、

「えっ」

 恐る恐るマーサが目を開けると、長虫が空中にもがいていた。

「なに?」

 キョトンとしたマーサの横で、

「アリシア」

 カオルが呟いた。

 見れば彼女たちの目指していたボートが、意外に近くにあった。ボートの上には一人の人物が立っている。つばの広い帽子をかぶり、それが影となって顔かたちははっきりと見えないが、いつも釣りに出かけるときの、パーカーを羽織った姿は見間違えようのないものだ。ボートの上の人物は釣り竿を持ち、竿の先が獲物に引っ張られてしなっていたが、糸は水中にあるのではない。空中でシーカーに巻き付いていた。シーカーがフェアリーたちに襲い掛かる寸前、釣り人は空に向けて竿を振り、テグスをシーカーに巻き付けて絡め取ったのだ。カオルを、蜘蛛の糸のようなものを吐いて捕らえようとしたシーカーだったが、今度は自分が釣り糸に絡め取られる事となった。釣り人はリールを巻いて獲物を引き寄せ、ずぶりと押しつけるように水中に沈めた。少しすると当たりがあり、水から出すとシーカーは半分に食いちぎられていた。

「湖のヌシも悪食な」

 釣り人は竿を一振りして、シーカーの死体を遠くに捨てた。

「ありがとう、助かったわ」

 マーサは、羽にシーカーの糸が付いて、まだ羽ばたきもままならないカオルに肩を貸すようにして、ボートに降りた。

「でも、どうして私たちのことが分かったの」

「釣りをしていたら、突然の客が有ったわ」

 その視線の示す先、ランチボックスの横に重ねられたタオルの間に頭を突っ込んで、ブルブル震えているミネルバの、桃のようなお尻があった。

「姉さん・・・」

「それで周りを見回したら、月夜の空に、あなたたちが長虫と戦っているのが見えたので、急いでボートを漕ぎ寄せたってわけ」

「姉さんも、役に立ってくれたんだ」

「アリシア」

 カオルが進み出て、釣り人に訴えた。

「私を信じて、今すぐボートを向こう岸へ漕ぐの。お屋敷に戻っちゃダメよ」

「・・・」

「そして湖を渡ったら、遠くへ行くの。お屋敷から少しでも遠くへ」

「そんな、なにがあったの」

「今は聞かないで、とにかく逃げるのよ。もしかしたら、あなたの味方は、もうここにいる私たちだけかもしれない。だから、事がハッキリするまでは、臆病な子リスのように生きるしかないの」

 釣り人は、力なくボートに座り込んだ。無理もない。突然に、それまでの生活の全てを失ったかもしれないと告げられたのだ。しかし、程なくボートは漕ぎ出した。ハイアット家の屋敷のあるのとは反対側の岸を目指して、水面に映る月を、舳先に砕くのであった。


 

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