冥土の監獄

第1章

第1節 【大監獄 "タルタロス"】

第1話 脱獄を阻止せよ

 空が黄昏に染まる、午後六時過ぎ。囚人住人たちは一日働いた疲れを癒すため、自らの住まう牢屋住居に向かっていた。ここは確かに監獄ではあるが、我々を縛る鎖もなければ、重く冷たい枷もはめられていない。監獄とは名ばかりの集合住宅の密集地だ。一見して灰色一色のシンプルな外装とは裏腹に、洋風に造られたロビーは暖かな橙色の明かりで照らされ、片隅にはちょっとしたテーブルやソファが置かれている。各々の牢屋部屋は扉こそ金属製の頑丈なドアになっているが、内装は至って普通で、人ひとりがここで暮らす分には十分に設備が整っている。


 ならば何故、ここが監獄と呼ばれ、我々は囚人としてここにいるのか。警備の甘さにつけ込んで、脱獄はしないのか。それは今、この俺の隣を歩いている男が教えてくれるだろう。


 彼はつい最近、我らが住まうこの監獄住居に、新たな囚人住人として入ってきた新参者だ。種族は底界ではなんら珍しくない、狼のケモノビト。目は鋭く光り、不満の色を宿している。体の約半分の面積をしめる獣の毛をぴんと逆立てながら、ズカズカとがに股で歩みを進めている。腕につけられた金属製のネームタグをちらりと盗み見たところ、名を「ユハナ」と言うらしい。彼の様子を見るに、ここに入れられた理由に対して、全く反省の色は見受けられない。そりゃそうだ、お前がもしも反省できるような奴であれば、こんな場所には入れられていない。きっと、こいつもまた、脱獄を試みているのだろう。

 仕方ない、ここの看守に「説得だけでもしてほしい」と言われているし、声だけでもかけておこう…。


―――――――


「おい。あんた」

 だるい仕事が終わり、逃げる隙を窺っていたところに、声をかけられた。こんな時になんだ。俺は今、忙しいんだ。そっとしておいてくれ。

 そう思うだけで口にはしなかったのだが、まるで心を読んだかのように、そいつは続けた。

「どうせ無駄だ。お前はまだ、この監獄のことを何も知らないだろう。痛い思いをしたくなければ、ここで潔く罪を悔いあらためるんだな」

 ふん、お前の軟弱な意見など知ったことか。逆に、理解に苦しんで仕方がない。何故、ここに留まっている?お前たちも俺と同じ、欲望に忠実に生きてきた罪人なのだろう。なれば欲に従い、脱獄すれば良いではないか!監獄も監獄だ。「どうぞ、脱獄してください」と言わんばかりの警備の甘さ。きっと囚人住人を舐めきっているのだろうな。

「お前にどう言われようが、俺は出ていく。」

「……そうか。せいぜいもがくことだ。」

 名も知らぬ奴との会話は早々に切り上げて、ユハナは自分の牢屋部屋にそそくさと戻った。もはや脱出経路などを模索する必要も無い。まだここに収容される前、風の噂で「大監獄 “タルタロス” での脱獄は不可能に等しい」と聞いたことがあるが、でまかせだったのだろう。牢屋部屋に備え付けられた窓から、外を確認する。俺の牢屋部屋として用意されたのは2階。降りるには問題ない高さだ。少し向こうにはここと同じく灰色の収容所がいくつも見える。違うのは、割り振られた番号だけ。はて、ここは何番だったか。どうせ脱獄するのだからと、全く意識していなかった。目線を下ろし真下に向ける。下には綺麗に整備された庭園と、舗装された道が見えた。それをなぞるように追っていくと、遠くには門が立っている。恐らく、このエリアの出入口はあれだけだろう。そして、その両隣には高く分厚い壁がこのエリアをぐるりと一周していた。

 あれが唯一の脱獄を阻止する手段なのではないかと思うくらいには、依然として看守の姿は見えない。全く、あまりにも緩すぎて若干苛立ちを覚えるくらいだ。


 窓に埋め込まれている鉄格子を、広げるように静かに折り曲げた。ケモノビトの中でも特に、狼との混命こんめいは力が強く、たとえ鉄の棒でも容易く形を変形させることが出来る。格子の間をするりと抜けると、壁に爪をくい込ませ、速度を落としつつ降りていく。これからずっと歩いていくのだ、足の負担は極力避けよう。最初は脱走の痕跡は残さないようにと思っていたが、この緩さだ。もはやどうでもいい。一応左右を確認し、庭園を足早に歩き出した。


「…! なんてやつだ、こんな所で寝ているのか。」


 少し油断していたユハナは、看守を見逃していたことに焦りを感じたが、直ぐに調子を戻した。何しろ、その看守は庭園に備え付けられたガーデニングチェアで居眠りをしていたのだ。うつらうつらと揺れる度に艷めく緑の御髪。安心しきった顔で眠る、まぬけな顔。こんなにも善い奴そうな者まで、というのだから、この世の底は面白い。


 とにかく、この運の良さに感謝しつつ、庭園の扉を通り過ぎる。結局、あの居眠り男と出会ってからは1人として看守はいなかった。もしや、ここの看守は一人ではあるまいな?もしそうだとしたら、相当に愉快である。外に出たら、あの監獄で細々と生活してる囚人住人どもを笑ってやろう。

「なんと容易い脱獄か。本当にここはあのタルタロスなのか?」

 ユハナは監獄の門をくぐった。落とし格子は上がったままだ。その上には、「肆の街 メネシャ」と書かれている。肆と言うのだから、壱や弐も存在するのだろう。まぁ、もう関係の無いことだが。ユハナは浮き足で外の土を踏みしめた。

「ふぁあ。」

 一つの欠伸が聞こえた。ハッと後ろを振り返ってみるが、誰もいない。なんだ、ただの空耳か。と、気にせず歩き始めようとした。


―その時。


「おーい、そこのオニーサン。誰の許可を得て、一人で監獄の外を歩いているんだ?」

 何者かの声が、聞こえた。若々しくて、少し高めの声だった。その声はゆっくりと、近づいてくる…。

「お前、ここのセンパイたちから習わなかったの?この監獄で、脱獄なんて馬鹿げたことは考えるなと。」



―――――――――続く

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