スローモーション

矢魂

スローモーション

 人間は極限状態を迎えると、辺りが止まって見えるという話を聞いたことがある。

 交通事故に巻き込まれた会社員。山から滑落した登山家……。九死に一生を得た者たちは皆口を揃えて言うそうだ。


『世界がスローモーションになったようだった』


 と。

 一説によると危機的状況になったことで、脳の処理速度が爆発的に上がるからだと聞いたことがある。だが、今の私にとってそんな理屈はどうでもいい。問題は、その現象が今まさに起こっているということだ。

 雨の降りしきるとある歩道。傘も挿さずに道を行く私の目には、まさしくスローモーションの世界が広がっていた。周囲には無数の雨粒が重力を受け、歪な形で浮かんでいる。そして足下には、アスファルトにぶつかり、勢いよく弾けた雨達が思い思いの方向に飛び散っていた。その光景を見た私は、思わず時間が停止してしまったのではないかという錯覚に陥った。つまりはそう、今の私はきっと極限状態なんだろう。

 もちろんその静止した世界の中では、私の動きもスローモーションになる。それは先を急ぐ私にとって、非常に腹立たしいものだった。だが、次の瞬間。目の前に現れたその光景を見た私は、そんな些細な怒りなどすっぽりと頭から抜け落ちてしまったのだ。

 午前中から降り続く雨が少しだけ弱まり、雲の隙間から薄日が差す。そしてそれらが雨粒に乱反射し、キラキラと光り出したのだ。まるで空中にスパンコールをちりばめた様なその光景に心を奪われた私は、歩みを前に進めながらも頭の片隅で、この美しく素敵な空間をもっと堪能したい。ずっと眺めていたい。そんなことすら考えはじめていた。

 しかし、何事にも終わりと言うものはあるもので、その静止した世界は徐々に本来の速度を取り戻していった。そして、光輝く美しい風景がただの雨に見えはじめた頃、私はようやく自分の置かれている状況を思い出す。そう、私は極限状態にあったのだ。

 目的の場所に向かい、再び慎重に歩き出す私。だが、スローモーションの世界が終わるということは、私の極限状態が終わるということにこの時の私は気付いていなかった。


「あっ!!」


 目的地である公園を見つけた私は思わず駆け出した。だが、そこで緊張の糸が切れたのだろう。次の瞬間、雨粒達は本来の速度を完全に取り戻し、私の全身を叩きはじめた。それはつまり、私の我慢の限界を意味していた。


「う、うぅ……。うぁぁー!!」


 ザーザーという雨音に混じり、私の慟哭が響渡る。そして膝から崩れ落ちると、ついに間に合うことのなかった最終目的地・『公衆トイレ』を恨めしそうにゆっくりと見上げた。

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スローモーション 矢魂 @YAKON

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