暗射地図⑥

「宿の主人を疑うとは、どうかしておられる。あれは只の商売人ですぞ」

「あんたは何を知ってるんだ。大体、捕まるとわかってて、どうして自分から姿を現した?」

 詩人は懐中時計をチラリと見やって、

「さて、そろそろ頃合ですかな。説明いたしましょう」

 青年は、詩人の言葉に茫然と耳を傾けていた。彼は実は、故国に於いて殿下と呼ばれる、王位継承権を持つ身だが、政敵の罠に嵌まってここまで追いやられたというのだ。生体反応板が自力で外せないように作られたのは、彼が生後間もなく世継ぎの証として受けた、紋章を描いた焼き印を隠すためであった。

「過去を掠め取られようとも、印が見えていれば、簡単に思い出せたでしょうからな」

「まさか、犯罪云々というのは——」

「左様。まさしく、後から埋め込まれた偽りの認識に他ならない。見事に信じ込まれたようだが、殿下、しかし、あなたが罪を犯したのは事実だ」

「それは……?」

「謀反への加担です。あなたは言わば、神輿として担ぎ出されたに過ぎない。が、仲間は既に死刑を宣告されている。さあ、記憶は甦りますでしょうかな?」

 一昨日の奇妙な痛みの理由がわかった。急がなければ、もう時間がないのだ。詩人は彼の表情を読み取って、小さく頷くと、

「定められた期限までにアムワージュを捕らえて帰れば、あなたも仲間たちも皆、自由の身になれる。だが——」

「駄目なら人質は全員死ぬ」

「そのとおり。今日お呼び立てしたのは他でもない、あなたの意志を確認するためだったのです」

 国王一派は青年を疎ましく思っていたが、彼の身分や民衆の支持の強さを考慮すると、無闇な処分は出来なかった。そこで事を仕組むに当たって、かねて目障りな存在だったアムワージュをにしたのだ。青年が事情を呑み込んだ上で——言わば、負けを認めて——目の届かない遠い世界へ永久に去る決心がつけば、彼の命だけは助けてやろうというのが、国王たちのはらなのだった。

「なるほど。戻らなければ謀反人どもは始末できる。嫌なら詩人を引き連れて——とは言っても簡単には行かないだろうから、結局期限切れっていうのが、向こうの目算だったんだな。の作戦って訳か」

「そう。すぐに詩人を殺して首を持ち帰るなら、何とか間に合いましょう。生きたままでは手間取ることでしょうからな。しかし、すべて放棄すると言うなら、それもあなたの自由だ」

 わざわざ記憶を操作したのは、自分を遠回りさせるためだったのだと、彼はようやく理解し、馬鹿馬鹿しさに冷笑した。

「どうしようか、アムワージュ。どうせ間に合わないなら、敢えて血を見る必要もない、か?」

「御自分でお決めなさい。但し、断っておきますが、私は只の伝達役で、詩人ではありませぬ。騙したようで申し訳ないが——」

 青年は目を丸くした。は続けて、

「手掛かりは血液、でしたな? チャンスは幾らでもありましたろう。いや、相手はあなたを挑発していたほどだったのに」

 頭の中を閃光が走り、体表は寒気に覆われた。だが、彼は信じたくなかった。

「……」

「それに、あの地図。あれは捕らわれた仲間の、言うなれば白紙委任状カルテ・ブランシュなのですぞ」

 老人の声が、途中から奇妙に遠く聞こえていた。立ち上がろうとしたが、意に反して、身体は地面に倒れ伏した。瞼が重く閉じられ、視界は溶暗した。さっきの水だ。カップの中に何か仕込んであったのだろう。混濁する意識の中で、彼は思った。自分によく似た老人の顔は、種明かしのために用意された精巧な仮面なのだ……。


 若き商人シャバーブ・アーディーは、ジープを駆って家路を急いでいた。濛々と立ち籠める砂埃に視野が掠れる。不意に、あるはずのない日除けが前方に現れ、不審に思った彼は速度を緩めた。

 車から降りてみると、男が倒れていた。手首に触れて脈を確かめる。命に別状はないようだ。傍らに、見覚えのある三日月刀が転がっている。古拙庭園の客なら、何故こんな場所で気を失っているのだろう。だが、どの道、帰る途中である。彼は風変わりな客人を後部座席に寝かせて、再びジープを走らせた。



【ⅵ】


 気がつくと、シュグルは宿の寝台に横たわっていた。瞼を開けると、真っ先に目に入ったのは、生体反応板を外された青白い手首だった。身体を起こす。妙に部屋が広く感じられる。——間仕切りがなくなっていた。

 誰かがドアをノックした、と思う間もなく、見知らぬ若い男が入ってきた。

「あ、大丈夫ですか?」

 彼は後ろを顧みて、階段の下にいる支配人に合図を送ると、また向き直って、

「さすがに医者を呼ばなきゃ駄目かと話してたんですよ」

「……」

「——失礼。でしたね」彼は莞爾と笑って、「支配人の甥です」

 シュグルは髪を掻き上げると、溜め息混じりに、

「助けて頂いたんですね。ありがとうございました」

 言葉とは裏腹に、感謝の色もなければ嬉しそうでもない青年の様子を見て、シャバーブ・アーディーは首を傾げたが、顔には出さず、

「お腹、空いてるでしょう。昨日は丸々一日、寝たままでしたし」


 思ったとおり、ファルーカの姿は消えていた。支配人の話によれば、迎えに来た女性と連れ立って出ていったという。女とは即ち、娼婦ルシェッタであった。だが、ペテン師たちは既に遙か彼方で、シュグルにはなす術もない。やはり詩人は、あの少年であり、女が預かっていると言っていたのは、彼の弦楽器フィドルだったのだ。ボロを出さないために、手許から遠ざけていたとでもいうのだろうか。

 二人の関係は姉弟か、はたまた愛人か。それも今となってはどうでもいいことだったが……。

 支配人が彼に銃を返却して言った。

「坊ちゃんを迎えに来られた方が、お代を払って下さったので、もう結構です。そうそう、あなたの体調が回復するまで、このまましばらく泊まっていただいて差し支えないほど頂戴しましたので、御安心を」

 鮮やかさに声も出ない。だが、彼の心は静かだった。最早、怒りも無念もなかった。

 部屋へ戻る。机の上のペンスタンドは、変わらず花瓶の役を務めていた。ルゥルゥが水を替えてくれていたのだろう、娼婦が見舞いに持ってきた花は、数こそ減ったが、まだ生き続けていた。手首の焼き印を眺める。紋章は植物のデザインで、見ようによっては目の前の柘榴の花に似ているような気もした。

「失礼します」

 ルゥルゥが、お茶代わりにと柘榴水を運んできた。ソルベの完成には、もう少し時間がかかるという。

 さらさらと喉を通る、冷えた液体。苦い記憶と共に、忘れ得ぬ味となるだろう。捕らえ損ねた帆船ファルーカは、夢想の中、水面みなもに輝く飛沫を上げて、無邪気に遠ざかる。

 自由の身になれたというのに、虚しいのは何故だろう。この土地へ来る以前からの、旅の記録を広げて、彼は思った。謀反人たちは確かに、最初は都合よく自分を利用しにかかったのだろう。しかし、牢獄から白紙委任状を託したところに、彼らの良心が窺える。だが、自分はそれに応えられなかった……。

 窓辺に佇み、空を見上げる。不意に風向きが変わり、あっという間に地図を巻き上げ、外へ連れ去った。彼は差し伸べた手を引いて、小さく吐息を漏らした。視線を机に戻すと、後には何もない、真っ白なページだけが残されていた。




            carte blanche【FIN】





◆ 初出:旧個人ホームページ(現存せず)


*縦書き版はRomancerにて無料でお読みいただけます。

https://romancer.voyager.co.jp/?p=116176&post_type=rmcposts

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暗射地図 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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