第3話 鳩に銀、鬼に雀

 ――機会はあっさりと訪れた。



 彼女にナイフを渡された次の日の夜、相手をするように呼ばれたのだ。

 冷徹なまでに徹底された彼女の態度。

 そうでなくともこの主人の本性を知っている。いや、そもそも本能が否定するような男があの麗しい客人に相手にされるわけもなく。

 怒り狂っていたと呼びに来た使用人が恐々と、しかし愉快そうに嗤っていた。

 金の屏風がある如何にも成金のような部屋の、赤い女郎屋にあるようなふかふかとした布団の上に横たわる主人はイライラとしながらも興奮で鼻息を荒くしている。


(ああ、なんて醜い……)


 客人がこの男を『豚』と称した理由が少しだけ分かった気がした。

 普段ならば早く終われと念じて感情を殺していた時間だが、今は何故だか思ったことはそれだけで。

 何故だろうと一瞬思って、今日ですべてが終わるからかと納得した。


「……ご主人様」


「なんだ? そんなところに居ずに早くこっちに来い。家畜の分際でオレを待たせる気か」


「申し訳ありません。ですが、ひとつ気になって」


「なんだ?」


「弟は、今どのような状態なのでしょうか」


「……ああ、オレのお陰で治療が出来て回復に向かっているそうだが? それがどうかしたか。まあ、回復に向かっていようともお前は死ぬまでオレの家畜だがな」


「……そうですか。それが聞けて良かった」


 注意深く観察していたら、黒目が泳いだ。それを見て主人の言葉が嘘だと分かった。客人の言っていたことが真実なのだと分かった。

 どうして早く気付かなかったのだろう。

 そうすれば、弟の苦しみは少なかったのかも知れないのに。

 私の苦しみも二年前で終わっていたかも知れなのに。

 ギュッと背に隠したナイフを握る指に力が増す。


「そんなくだらないことはどうでも良いだろう。早くこっちに来い!」


「……はい」


 俯きがちに近付いて、主人の前に立つ。

 主人の太い指が私の肌に触れるか触れないかの所で、動きが止められた。


 正確には、止まった。


 投げ出された主人の足にナイフを突き刺したからだ。


「うぎぁぁぁあぁぁぁぁ!」


 耳障りな悲鳴に眉をしかめながらナイフを引き抜く。


「痛いですか? でも、弟の痛みは、私の苦しみは、こんなものじゃない……ッ」


 そうしてもう一度、足に突き刺す。グリグリと傷口を広げるように動かしながら言葉を落とす。


「今まで楽しかった? 死んだ弟の為に嫌いな男に媚びへつらい抱かれる様を見て」


「グあああああああアァあああああアァ」


「ねえ? 叫んでないで答えてよ」


 足を抑える男は身体中から脂汗を滲ませ、恐らく人生ではじめて味わうだろう激痛に耐える為か足を抑えて蹲った。

 わたしはそれを見下ろしながら、もう言葉は要らないとばかりにその背中にナイフを突き刺す。

 何度も何度も繰り返し、主人の身体にナイフを降り下ろした。

 足に、腕に、腹に、背に、頭に。


 ――気付いた頃には、豚の身体からは血が流れなくなっていた。


「――満足しましたか?」


 動かない木偶にナイフを突き立てる動作を繰り返して、どれくらい時が経ったのだろうか。

 わたしにナイフを渡した客人は、いつから居たのか?

 煙管の吸い口から吸った紫煙を吐き出しながらゆっくりとした足取りで近付いてきた。


「……むなしいわ」


 満足なんてちっともしない。

 だってこの男を殺した所で弟は帰って来ない。私が穢された事実は消えない。


「それだけやって『むなしい』ですか」


 彼女の言葉が理解できなくて首を傾げる。

 けれど、彼女が細くしなやかな指で男を指し示した事で「ああ、」と頷いた。

 わたしを飼っていた主人は、人間『だった』モノに成り果てていたのだ。

 額は割られ、脳味噌が飛び出て、腹からは臓物が引き出され更に裂かれていた。

 腕も指も足も全てぐちゃぐちゃで、真っ赤に染まっているせいか其処に四肢があるのか無いのかすら分からない。


「……そうね。これだけやっても、むなしいわ」


 むしろ、こんなものじゃ物足りない。

 腹にぐるぐると渦巻いていた憎しみや怒りや虚しさは、未だにこの肉塊に向いているから。


「そうですか。でも、そこまでですね」


「止めるの?」


 主人はもうこの世界には居ない。もはや客人ではない女性に血塗れのナイフを向けた。


「私は別にあなた一人居なくても構わないのですが、……一応あなたの為にも言っているのですよ?」


「意味が、分からないわ」


「あなたは今、どのような姿をしているか分かりますか?」


 そんなもの分かるわけがない。鏡はこの部屋には無いし、あったとしても真っ赤に染まったこの部屋では分からなかっただろう。

 そもそも奴隷になってから『鏡を見る』なんて人間らしい行為を許されなかったから。


「あなたは、鬼になってしまったのですよ」


「……おに?」


「ええ、この島国特有の種族ですね。憎悪によって生まれる、怪物」


 女性の言葉に反芻する。


 おに。オニ。――鬼。


 聞いたことがある言葉だった。あまりにも人を憎み過ぎるとなる妖怪の名前。女性が言った、怪物というやつか。

 頭からは角が生え、目は黒目と白目が反転した姿で絵巻物などに描かれている。

 まだ家族が家族として機能していた頃に母親から言い聞かされたソレ。


『鬼は恐ろしい存在だから、人を憎んではいけないよ。心が鬼に食われちまうからね』


 母親が内職をしながらボロボロの手で私の頭を撫で言うので、私はその言いつけ通りに過ごそうとしてきた。

 ――ああ、わたしは『ソレ』になってしまったのか。


「そう」


 わたし今、鬼になってしまったのね。

 けれど特になんの感慨もなく女性の言葉を聞き流した。

 鬼になろうと私は構わない。この空虚さが埋まるのならば構わない。人間なんて居ない方がいい。人間の方が恐ろしいもの。だから人間は、消えてしまえばいい。

 思考の渦に吸い込まれそうになった時、女性は「駄目ですよ」とわたしの肩を確かに掴んだ。血塗れのわたしの身体に優しく触れた。


「あなたはもうまともな生活は送れないでしょう。人を殺めて人を憎んだ鬼になってしまいましたから」


「あなたがそれを言うのね」


 嫌味でもなんでもなく。純粋にそう思ったから放った言葉だった。


「ええ。私があなたにナイフを渡しました。私にはあなたを鬼に変じてしまった責務があります」


「別に……そんなの取って貰わなくたっていいけど……」


「まあ、聞いてください。私は西の国で軍人をしておりまして、あなたそこで働きませんか? 生憎と仕事は待ってくれないくせに人手不足なんです」


 ああ、なんだ。わたしにナイフを渡してくれたのは、わたしをこの肉塊たる主人から解放してくれる為じゃなくて。


「結局、あなたもわたしを利用する為にこのナイフを渡したのね」


 一度人を殺したわたしだから。だから、人殺しの道具に使おうと女性は言うのだ。


「そうですね。その通りです」


 女性は隠し立てすることなく頷いた。


「まだ私と上司しか正式な隊員がいない小さな部隊ですが、仕事上、人手は多い方が良いもので」


 もっとも。あなたが良ければの話ですが。

 そう言った女性の片方しか見えない金の瞳は、はじめて見た時と変わらず冷たかったけれども。何処にも嘘偽りのない真摯な色をしていた。

 女性が言っていることはやっぱりわたしを道具にするということだけれども。

 『わたしの意思』を確認して、尊重してくれた。

 たったそれだけのことが、長いこと強要されていた身であるわたしには嬉しかったから――


「あなたがわたしを扱ってくれるのなら、わたしはあなたに着いて行きます」


「そうですか」


 それは有り難いですね。

 女性は私の頭を一撫ですると血塗れの私の身体を見て言った。


「この豚は私がなんとかしましょう。あなたの消された戸籍も私の住む国で作ります。弟さんの遺品も手に入れましょう」


 でもまずは。


「身体を清めてきてください」


「……そうね。それは、ありがたいわ」


 血塗れ以前に豚がわたしを抱く時くらいしかわたしは風呂に入る許可を貰えなかったから。今夜は風呂に入れたけれども、今自分の状態がかなり大変なことになっている自覚はある。


「それでは身を清めたら広間に来てください」


 そう言った女性に、わたしは確かに、自分の意思で頷いた。



 ◇◆◇



 それから私は西の大国に渡った。

 豚がどうなったかは知らない。気付いたら死体は消えていた。

 それよりも見たこともない風景や建物に私は少しばかり興奮する。黒髪の多い国で育った私としては、彼女の髪の色の方がこの国では特殊だったのだとこの国で過ごして少しした後に認識した。

 奴隷にされたせいで失った私の『人間』としての戸籍を彼女の住む西の国――ヴァンダーフェルケ王国で作って貰った。

 学問や体術はかなりのスパルタで数年間教え込まれた。

 わたしもそれなりの軍人とし彼女――涼萌様の側で仕事をするようになった。

 そんな懐かしくも、今では笑い話のような思い出が写真を握り締めながら蘇った来た。


「ありがとうございます、凉萌様」


「なんのことでしょう?」


 とぼけるように首を傾げる凉萌様にわたしは笑った。

 『遺品』を探してくれるというあの日の言葉を、凉萌様は確かに覚えていてくれたのだ。

 嬉しい、と顔が綻ぶ。

 凉萌様は不思議そうな顔をしながら、わたしの角が生えた頭を撫でてくださった。




 あの日、涼萌様に出会わなくても。

 一本のナイフを渡されなくても。

 きっと私は何れ、鬼になっていただろう。

 けれど涼萌様が全てを終える切っ掛けを与えてくれたから。

 ――私は未だ、鬼でありながら人として生きている。

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