第2話 鳩に銀、鬼に雀

 東の小国の片隅。その日は酷く雨が降っていた。

 雨に打たれながら痩せ細った少女が、ぬかるんだ地面に頭を擦り付けていた叫んでいた。


「たすけてください!」


 少女が助けを乞い、叫んだ先。頭上に立って居たのは肥え太った男とその従者。

 貧しい者が多いこの国では珍しい、着物から飛び出た腹は男が裕福である証。

 村に住む他の家の者達が家の中からこちらの様子を窺っているが、誰も助けようとは思わない。

 この村の人間は決して裕福とは言えない者達しか居ない。

 皆、自分が生きることに必死なのだ。仕方がない。それは分かっている。

 けれども――


(こんな男に、私は助けを乞わなければならないのか……っ)


 屈辱と激しい怒りと羞恥で涙が出そうになった。

 けれども泣かないと誓ったのだ。

 泣いてなんかやるものかと、唇を噛んで噛んで噛み締めて、耐え抜いた。

 じわりと口内に血の味が滲む程に己の唇を噛み締めて、皮膚が裂けるほど固く拳を作って、ボサボサの頭を地面に擦り付け、助けを求め続けた。

 肥え太った男は欲を孕んだ色を隠すことなく、男の齢よりも遥かに年下の少女の全身を隈無く見つめ、見定め、聞いている者すべてが吐き気がするような、粘つく声を己の下で土下座をしている少女に放った。


「いいだろう。助けてやる」


「……っ!」


 少女はその言葉を聞いて思わずバッと頭を上げる。

 けれども次の言葉に、呆然と目を見開いた。


「その代わり今日からお前はオレの奴隷だ。もう二度と人間扱いされると思うなよ」


「ど、れい……?」


「ん? なんだその目は? それに誰が勝手に頭を上げて良いと言った? お前はコイツを助けて欲しいんだろう?」


 ベシッと頭を叩く音がする。「うう、」と呻く声に、少女は慌てて額をぬかるんだ地面に擦り付けて、喉から絞り出すように言いたくもない言葉を発した。


「……っ、た、助けて、ください。なんでも、しますから……」


 その顔に唾を吐き掛けられたら、どれだけ良かったか。

 擦り付けていた頭を足で蹴られながら、わたしは『彼』が助かる唯一の方法に縋り付いた。


 ――それから先は、まさに地獄。


 男の奴隷として生きる日々は、この男の屋敷に着いた瞬間に始まった。

 わたしはその日、その晩。破瓜を無理矢理散らされ、散々いい様に抱かれたあと男の使用人によって犬小屋に投げ捨てられた。

 朝はまだ日が昇る前から水汲みや野菜の皮むきなどをさせられ。

 日に一度の食事は豪華な食事が並べてある男の目の前で、主人に命令された使用人が地面に落とした食事とも言えない粗末で冷えきった粟を犬と同じように裸で這い蹲って食べる事を強要された。

 男はそれを大きな肉汁滴る、この東国では富裕層しか口に出来ない肉を目に余る程に汚く口に運びながら、ニヤついた顔でわたしのその姿を見ては楽しんでいた。

 男の使用人も同じく下卑た顔でわたしを見ては嘲笑う。

 いや、否。それだけで済んだならどれだけ良かっただろうか。

 わたしは主人が望めばどんな場所でも足を開かされた。客人にわたしを犯させることだってあった。

 すべての仕事が終わったら屋敷に放たれている番犬と同じ小屋に放り込まれ、少しばかりの睡眠をとる。

 穢された後に感じる番犬がわたしを温めるように傍に寄ってくれた時、そのぬくもりに思わず涙が出そうになったけれど、毎日グッと堪えては短い眠りについた。

 主人の使用人からは侮蔑と色欲に塗れた顔で見られ、時には主人に命令された使用人がわたしを犯す。

 そこにわたしの『意思』は何もなくて。

 自分が人間として扱われていた頃を思い出せないくらいに、わたしは家畜以下の存在として働かされた。

 悔しさや憎悪は腹の中に常に渦巻いている。

 それでもわたしには、這い蹲ってでも生きていかなければいけない理由があったから、その為ならなんだって出来た。

 だから涙を零すことだけはしなかった。

 泣いてしまえば、舌を噛み切ってしまいそうだったから。



 そんな生活が数年続いて、心も何もかもが疲れてしまったその時。

 『彼女』が主人の屋敷に訪れた雨の日。わたしの人生はガラリと変わった日。

 その女性は立ち姿だけで綺麗だと感じる程の、恐らく少しだけ年上の女性。

 長く艶やかな黒髪をシャンと伸びた背に流しながら、黒い眼帯で右目を隠して、もう片方の左目で男を見据えていた。

 珍しい、噂には聞いたことがあるけれどもはじめて見たと言っても良い、隠されていない方の金色の左目はまるで宝石のようにキラキラとしていたのに、にこりともしないその女性とも少女とも言えない彼女は何処か冷たく感じた。


 女性を欲の孕んだ目でジロジロと見やる主人。女性は意にも介していないようで、出された酒に手を付けることもなく、何やら主人と難しそうな話をしていた。

 主人は時折咳払いをしていたから、女性の言葉の半分も理解出来ていなかったのかもしれない。


(良かった……)


 ソレは久し振りの感情だった。

 その酒にはわたしが主人に言い付けられて混入した毒が入っていたから。

 毒、といっても、一種の媚薬のようなものだけれども。

 わたしに対しても良く使われるモノだから、「お前が入れろ」と言われた時には戸惑った。

 あんなにも綺麗な、清廉な人にまで主人は手を出そうとしているのかと。


 その夜のことだった。

 彼女がわたしが眠る為に用意された犬小屋まで来たのは。


「……こ、こは、使用人の部屋ですが……」


「使用人? 私にはそうは見えませんが」


「そ、れは……」


 言い淀めば、女性は瞬きをひとつしてから言葉を発した。


「構いません。大体の事情は把握しているつもりです」


 女性はそう言うと、一枚の紙をこの国では珍しい洋服、いや、軍服だろうか? から取り出した。


「――この国の医療では治せない難病を患った弟の医療費で度重なる借金。その借金を苦にあなたの両親は首吊り自殺。あなたは弟の医療費を賄う為にあの肥え太った醜い豚……失礼。いえ? 豚で構いませんか。あの豚のように肥えた卑しい金貸しに金を出して貰う代わりにアレの奴隷となった。まあ、聞かない話ではありませんが、最初にその事実を把握した時には驚きました」


 ――仕事の為に相手方を調べるのは得意ですが、本当に驚きました。


 驚いた、そう言いながら客人たる彼女の顔は無表情で何を考えているのかまったく分からない。

 客人は懐から取り出した煙管を左手に持ち、一口吸うと吐き出した。その薄い唇の艶めかしさには思わずぞわりとした。確かに色欲に忠実な主人が欲する筈だとも思ってしまったわたしは、主人に染められてしまったのだろうか?


「ひとつ、お聞きしたいのですが。あなたは此処で今のような生活を続けたいですか?」


 その言葉に思わず口が開いた。溜まっていた感情が溢れ出す。


「……そ、そんなわけないでしょう……! でも! でも私が耐えれば弟は助かるのよ!? なら、なら! 耐えるしかないじゃない……!」


 客人だと頭の片隅で分かってた。けれども声は、感情は、止まらない。

 肩で息を切り、もっと言葉を吐き出そうとしたその時だった。


「弟の為、ですか。それは一体、どの弟です?」


「は? 何言って……?」


「いえ、あなたは誰の為にその身を捧げているのかと、そう言ったのですよ。国立病院に居る弟の為? ふふ。居ませんよ、そんなところには、もう」


「だからっ、」


 何を言って。そう言おうと思ったけれど、言えなかった。

 無表情だった女性が心底憐れなモノを見るような色をその左目に込めながら私を見つめて告げた、その言葉のせいで。


「――貴女の弟。二年前に亡くなっていますよ? 対した治療もされずに」


「……し……? ……え……?」


「貴女を奴隷として繋ぎ止めておく為にあの豚はそれらしい事を言っていたみたいですが、あの豚はそもそも治療費なんてただの一度も払っていません」


 ……客人が何を言っているのか理解出来なかった。

 いや、したくなかった。

 二年前に弟が死んだ。治療費が払われずに。大した治療もされずに。


 ――しんだ?


「……うそだ」


 ぽつりと呟いた声に、客人はこてりと首を傾げる。


「嘘を吐くメリットが私にはありまんせんが」


「……っ、……うそ、だ」


「ですから、」



「――真実ですよ」



 彼女の言葉を信じるならば、私が主人に尽くした二年という時間はなんだったのだろうか?

 屈辱と恥辱に耐えた、あの時間は一体、なんだったのだろう?

 ぽたり、ぽたり、床に落ちるのは透明な水滴。

 今まで一度も零さないと決めて耐え抜いていた。涙。

 ああ、穢されたわたしでもまだ涙はこんなにも透き通っているのかと何処か遠くで思いながら、心の中には自分を奴隷として繋ぎ留め、破瓜を散らした主人への強い強い殺意が満ちはじめていた。


「あの豚が憎いですか?」


 何を当然なことを、と思った。

 私を騙して、犯して、家畜以下に扱って、終いには弟を殺した。

 そんな男が憎くない筈がない。


「――殺してやりたいくらい、憎いですか?」


 コクリと静かにわたしは頷いていた。


「――なら、コレをあなたに貸して差し上げましょう」


 彼女は足首に隠し持っていたらしい銀色に光るモノをスッと取り出すと、私の骨と皮だけの掌の上に優しく置いた。


「期待していますよ」


 ぽん、とわたしの頭を一撫ですると、興味も失ったとばかりに客人は犬小屋から屋敷の方へと戻って戻って行った。

 その姿を目で追いながら、わたしは渡された細身のナイフを指が白くなるほど強く握り締めた。

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