三章 業界の力学 1




 小野寺勲は北海道の日高にある牧場を巡っていた。


 調教師の仕事の神髄は、外回りにこそあると考えている。


 調教師として競走馬の生産牧場と親交を深め、良い当歳(その年に産まれた仔馬)の下見をし、掘り出し物があれば贔屓している馬主に勧めて自分の厩舎に預けてもらうのだ。


 そのため、自分はしばしば厩舎を空けることが多い。


 コンスタントに走らせて稼ぐのが信条で、大当たりは少なくとも、馬主に損をさせないことには定評があった。


 最近では次女の香澄がメキメキと頭角を現し、馬づくりに関しては厩舎スタッフだけでも回るようになっていた。


 お陰で自分は外回りに精を出せるのだが、心配もあった。


 生まれた時から馬と生活してきた娘の香澄は、馬とばかり接してきたせいか、人間関係をおろそかにしていた。


 厩舎の経営は多忙を極めており、この稼業は自分の代で終わらせるつもりだった。


 それだけに、娘には人並みの幸せをつかんで欲しい——そんな思いから、世話を焼いたのだ。


 相手は柴崎グループの末っ子。


 柴崎浩平は業界でも一、二を争う大牧場を親族に持つ騎手であり、デビュー初年度からG1に顔を出し始め、三年目にしてG1タイトルを手にしていた。親子三代にわたる競馬家系に加え、叔父が経営する牧場から良質な馬を供給され続ける、将来が約束された人物。


 エリート中のエリートで、まさにサラブレッドと呼べる人間だ。


 我田引水の意図はなかったが、あちらも香澄に好意を抱いてくれていたようだし、出会いになって、恋愛の一つでもしてくれた安心だと思ったのだ。


 しかしそれがいけなかった。


 若い二人の後押しをしたつもりが、香澄にはその気がなかったらしい


 昨晩、エージェントからニシノライラックの鞍上を固辞する旨がメールで届いた。


 浩平からは何の連絡もなく、香澄自身は何も言わなかったものの、食卓の席などでその不機嫌オーラがありありと見て取れた。とても詳細を尋ねられない。


 妻にそのことを相談すれば「馬鹿だねぇあんたは。お見合いでもあるまいし、いつの時代の人間よ。父親にそんなことされなくても大丈夫なんだから、ほっときなさいバカたれ」とコテンパンにされてしまい、内省する次第である。




「はぁ、ふぅ……やっぱり北海道でも夏は暑いな」


 小野寺は首に掛けたタオルで汗を拭い、毎年口走ってしまうお決まりの文句が出ていた。


 裏で画策したわけじゃないにしろ、結果的に小さな一波乱を演出してしまったのは事実。


 娘に知られたらと思うと自然と気持ちが小さくなってしまう。


 情けない父親だ——しかし時間は戻らないし、明日はやってくる。


 仕事をしよう、と長閑な牧草地と柵で仕切られた小道を歩いていると、当歳馬に小さな鞍を載せて調整をしている人が居た。馴致と呼ばれる馬の育成段階での調教を施しているのだ。


 作業に当たっているのはこの牧場の場長で、四〇がらみの男。


「おーい! 糸中さーん!」


 遠くから呼びかけると彼はこちら気づいた——そして慌てて駆け寄ってきた。


 近づくにつれてその顔が何やら青ざめた様子だったことに小野寺は首を傾げた。


「何かあったのかな」




◇ ◇




 もはや日課である宮下厩舎での調教を終えると、その宮下から帰りに顔を出してくれとの通知が入り、言われた通りに事務所へ立ち寄ることにした。


 いったい何の話だろうか。最近は調教後その場でのやり取りで終わっていた。何か不備があったかと少し不安になるのは、今日は頭の上が軽いからかもしれない。


 オベイロンと宮下厩舎の調教時間がかぶってしまい、彼は自分の体に戻っているのだ。なんでも、強めの調教が増えてきて精神を分割するには無理があるとかなんとか。


 なので今日は町村優駿一人で調教に臨んでいる。


 しかし、大したことは出来ずとも、教えたことの反復練習ならば一人で事足りる。


 自分専用馬なんてものは存在しないので、誰が乗っても同じパフォーマンスを発揮できるよう繰り返し仕込まなければならない。それに、このくらいのことはオベイロンに憑りつかれる以前から続けてきた——滞りなくできた、はずだ。


「お邪魔しまーす。町村来ました」


 入れ違いになった厩務員たちに挨拶をして事務所に入ると、白衣姿の宮下がホワイトボードに数字や印を書き込んでいた。管理馬の調教予定と出走日を記入しているのだろう。


「ああ町村君、わざわざ悪いね。何か飲むかい?」


「いえ、大丈夫です」


「そうか……いや、その、町村くん——」


 宮下は何かを言い淀んでいた。


 彼は視線を泳がせて数瞬の間、言おうか言うまいか迷い「いや、こんなこと言うべきではないね」と区切る。


 らしからぬ奇妙な態度に訝しんでいると、彼は咳払いをしてこう告げた。


「町村君、もし何かあれば、私は君の味方だ」


 突拍子もなくこんなこと言われたら、恐らく大抵の人間は頭に疑問符を浮かべる。


 町村も凡庸なその他大勢宜しく当惑に見舞われ、ポカンと口を開けて固まった。


「うちの厩舎スタッフも町村くんに信頼を置いている。移籍を考えることがあれば、こちらには受け入れる準備があるから、もしそういう時が来たら遠慮せずに声を掛けてくれ」


 まるで良く似た別の世界に迷い込んでしまったみたいだ。まったくそんな話を持ち出される謂れがなく、状況が把握できないまま曖昧に返事をした。


「はぁ、はい」


 別段、自分には小野寺厩舎を離れる理由がない、それが混乱に拍車をかける。


 もしかすると、小野寺厩舎であまり馬に載せて貰えていないのを知っているから、こういうことを言ってくれたのかもしれない。


 無理やり理由をつけるのならそうなるが、短く不可解な対談はそれだけで終わり、宮下はそれ以上深く語ろうとしなかった。


 いったい何だったのだろうかと、後ろ髪を引かれる思いで事務所を出た。




 宮下の意図は読めなかったが、ポジティブに捉えれば自分の厩舎に欲しい——と、そういう事なのだろう。自分もいっちょ前に他人から求められるようになったかと、若干浮ついた気持ちになった。


 このことを調教終わりのオベイロンに話してみた。


 その日起きた出来事を馬に話すなんて明らかにやばい奴か、友達のいない寂しい奴だが、答えが返ってくるのだからその例には当たるまい。


「俺がここから離れたら、お前との付き合いも終わりだな」


 得意げに言ってみせれば、オベイロンはその大きな鼻を鳴らして嘲笑う。


「ふん、何を自慢しているかと思えば、すべて余のお陰ではないか。それに、例え地の果てまで逃げようとも、余の手からは逃れられはせぬ」


 契約は絶対である、と彼は首を上下に振って威厳を示すようにふんぞり返る。


「どこに手があるんだよ。ほんと悪霊みたいなやつだな」


 と、大概この辺りでいつも香澄や美琴にに馬と話をしている奇行を目撃され、やれ変人だ、やれ病院だ、やれ記事のネタになれ、と言われてきた。そろそろ学習してきたので、そんな事態を回避するために改めて人気が無いか厩舎を見渡す。


 誰も居ない——ほっと一息ついた矢先、肩幅の広い中年の偉丈夫が厩舎に飛び込んできた。彼は肩で息をしながら左右を見渡し、こちらに視線を寄越した。


「町村、テキはいないか!?」


 小野寺厩舎の調教助手で、取り纏め役である番頭の別所達也だった。


 急ぎな様子だったので、すぐに「見てません」と答える。


「まだ帰ってきてないか。電話が通じなくてな……仕方ない、メール入れとくか」


「どうしたんです、そんな慌てて」


 別所は額に浮かぶ汗をタオルで拭い、「まだ誰にも言うなよ」と断ってから苦々しい顔で教えてくれた。


「チェッカーズフラッグの飯尾がうちから馬を引き上げるって言いだしたんだ」


「えっ? なんでそんな突然」


 別所は「わからん」と首を横に振る。


 チェッカーズフラッグとは、一口馬主のクラブ法人だ。


 クラブの馬は株式会社のようなもので、競走馬を会社に見立て、馬の株を大勢の人々がお金を出し合って購入、運営している形だ。一口馬主というだけあって、個人の負担が軽く、大量の資金を集めることができるため、比較的高価な馬が登録されていることが多い。


 小野寺厩舎の稼ぎ頭にも上げられる馬たちだった。


 別所が焦るのも無理はない。


「俺たちに手落ちは無い筈だ。おそらくあちらさんの事情なんだろうが……勘弁してほしいよまったく。テキから連絡が来たら事務所に電話するか来るように言ってくれ」


 そう言い残して別所は事務所に戻っていった。


「引き上げる、とはどういうことだ、サルよ」


 人が居なくなったの見計らい、神妙な面持ち(?)でオベイロンが尋ねてきた。その声には緊張感が籠っており、重い事態に至ることを危惧しているようだ。


「たぶん、転厩だと思う。クラブ馬はそうそう処分なんてされないよ。うちの厩舎の方針が馬にあってないと思ったのかもしれない」


 小野寺厩舎はコンスタントに走らせて馬主に損をさせないことがモットーだ。


 重賞に挑戦したいと思っている馬主にとっては方針が合わないのは当然だが、それも込みで預けてくれていたはず。気が変わったのだろうか。


「つまり、先ほどの話にもあった馬の移籍、というわけか」


「ああ、でも痛いな。チェッカーズフラッグっていえば、うちに五頭も預けてくれてたところなのに。全部良血だったし、良い馬だよ。ファントムクロスとかは重賞勝ちまでして……先生ショックだろうなぁ」


 当然、自分がレースで乗れるような馬ではなかったが、調教で何度か乗せてもらったことがある。自分が乗るような馬とは、エンジンがまるで違う事に感動したのが懐かしい。


 居なくなるのは残念だったが、それでも馬はまだまだ居る。空いた手を残った馬に費やし、今まで以上に馬づくりに励めばよいだけだ。


 町村は安穏と構えていた。


 小野寺厩舎に何が起きているかなど知る由もなく。

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