二章 契約の意味 4 


 一流どころの騎手は早朝に調教をつけて騎乗手当を稼ぐ必要はない。


 だが町村は違う。


 以前までは三流らしく生活のために朝のケイコをつけて騎乗手当を稼いでいたのだが、比較的レースで乗れるようになった今もこの生活は続けなければならない。オベイロンとの契約を守るために、馬にレースを教える必要があるからだ。


 弱い馬はわんさと居るし、体は一つなのでとれる手綱には限りがある。ホイホイ三流騎手を乗せてくれる物好きも多くはないので、一件一件真摯に向き合わなければ次が無い。


 それでも成果はあった。


 町村が騎乗した馬は確実に走りが向上していったし、本番で乗ろうが乗るまいが、調教上手という噂だけは水面下で広まり始めていたのだ。


 この地道な働きも後押ししてか、美琴による乗鞍の手配も順調に動き出して週末も完全に手が空くということは無くなった。安定には程遠いが、平均して週四ほどの鞍を確保できるようになり、レースに出走する機会を得ることができた。


 やっと軌道に乗った——かと思いきや、またもや問題が発生したのである。


 オベイロンの一言で、鞍選びがさらに難解なものへと変わりつつあったのだ。




「継続騎乗できない、ということかな?」


 訝しんで眉をひそめる宮下に町村は頭を下げた。


「すみません、先生。ジャスティスの問題点だった折り合いはもうだいぶ良くなったので、トリコロールとミリオンパッチの方、俺にケイコつけさせて下さい、お願います。すいません、わがまま言って」


 何度も頭を下げて理解してもらうしかない。


 せめて宮下の気分を害さないよう、別の手段で厩舎の助けになれるとストイックな面を見せていく。駆け引きをしているようで申し訳ない気持ちになるが、宮下厩舎との良好な関係は保ちたいし、こっちはこっちでのっぴきならない事情がある。


「町村君が言うのであれば、うちは構わないよ。未勝利馬を散々勝たせてもらったんだから……でもせっかくレッドジャスティスと一緒に勝ち上がってきたのに、それで良いのかい?」


「——はい、お願います」




 それは前日の早朝、レッドジャスティスの調教を終えた時のことだった。


「ジャスティスは順調に力をつけてきたようだな」


 いつものように、ヘルメットにへばり付いたオベイロンが言った。


「ああ、こんなに順調だと、今年中にオープン入りできるんじゃないか?」


「オープンとは、つまりエリートのことだな」


「ん? ああ、それはそうだよ。中央競馬の馬なんてみんなエリートみたいなもんだけど、それで合ってる。これで重賞にも挑戦できるかもしれない。俺、ここまで同じ馬に乗せてもらったことなかったからなんだか感慨深いよ」


 一介のマイナー血統馬がここまで奮闘してくれたことで、いよいよ広がった視野に青写真を描くことができる。そう思っていたのだが「そうか——」とオベイロンは感情を廃して神妙に相槌を打つと、言い切った。


「では、もうジャステイスから降りるのだ。こやつに割く時間は終わりである。次なる弱者に手を差し伸べよ」


「——」


 なんでだよ!


 もちろん抗議した。せっかくここまで一緒にやってきて、個人的にもこの馬に愛着を抱き始めていたのに、相棒になれるかもと思っていたのに——どうしてそんな惨いことを言うのか。以前のように、馬主の覚えが良くなればまた新しい馬を融通してもらえるかも、という理屈すら通じなかった。


「時間は有限なのだ、サルよ。ジャスティスはもう誰が乗っても己の力で道を切り開ける。我らが手助けする必要はない。崖っぷちに立たされておる同胞たちは未だ五万とおるがゆえ、これ以上『強者』に肩入れしている暇はない」


「ちょっと待ってくれ、そんなのあんまりだろ! じゃあ何か? 弱い馬を強くしても、俺はその馬で重賞に挑戦させてもらえないってのかよ?」


 弱い馬を鍛えて強くし、勝負できる段階になった途端、手放して次の弱い馬へ——。


 これでは永遠に条件クラスのレースにしか出られない。


 重賞に手が届かないじゃないか——。


 町村の脳裏に思い浮かんでいたのは、あの日感じた焦燥を孕む屈辱だった。


 騎手としての格の違い。生活のステージの違い。同じレースに出ていても、まったくもって土俵が違う。いつまでも半人前のままで——このままじゃ、何も手に入らない。


 だがいくら言い募ってもオベイロンは反論を許さず、居丈高にあしらわれてしまう。


「私情で我らを駆るでない愚か者め。誰のお陰で馬に乗れるのだ。余がおらねば埋もれていくだけの騎手に過ぎなかったお前に、力を貸してやった恩を忘れるでない」


「……」


 返す言葉もなく、町村は自分の見通しが甘かったと痛感した。


 少し前までは、オベイロンの協力の下に鍛えられた馬に乗り続け、重賞まで歩を進め、一流ジョッキーの仲間入りができると——一癖も二癖もあるが、幸運が舞い込んできたかのように考えていたのだ。大変だが、やりがいはあると。


 しかしそんなものは甘い幻想に過ぎなかった。


 いつか夢の中で聞いたオベイロンの言葉が蘇る。


『余のために働くが良い』——『それこそ馬車馬のように』——。


 その言葉のまま——成果を決して得ることがでいない。


 馬車馬に与えられるのは、生きるために必要な水と飼い葉だけ。


 山を越え谷を越え、何千里と重い積み荷を牽こうとも、成果物に手を触れることは出来ない。


 手を伸ばせば届くのに、この手は既に馬の蹄になってしまっていたのだ。






 なんて、打ちのめされるような一件があったわけだが、町村は楽観視することにした。


 これまでオベイロンに纏わりつかれて、彼のことも多少は理解できているつもりだ。


 彼は悪逆非道な馬の首領などではなく、少し高飛車で傲慢な頑固者というだけだ。


 それに、なんだかんだとあの馬の王様は面倒見が良く——抜けている面がある。


 若干チョロいのではないかと思える節が多々あるので、根気よく付き合って懐柔してやろうと考え直すことにしたのだ。


 こんなところで挫けてたまるか——。


 さりとて、即座に反撃の狼煙を上げられるわけでは無いのが辛いところだ。


 こうした経緯があり、事務所に来ていた美琴も仰天してしまう。


「シャイニーもオリジンも町村くんが勝たせたのよ? もうオープンまであと一歩だっていうのに……馬主さんも先生方も、また町村くんで行きたいと仰ってくれてるのに!」


「すみません、美琴さん」


「……あのね、町村くん、今って町村くんにとって大事な時だと思うの。そりゃあ条件クラスでの勝ち星だけど、乗りに乗ってる今のうちに、強い馬で重賞に挑んで経験を積まなきゃ。チャンスなのよ? いつまでも条件戦専門ジョッキーみたいな立ち位置じゃ、声かけてもらえなくなっちゃう。G1ジョッキーになりたくないの?」


 騎手はG1を勝って一人前、一流であるという見方をされることが多い。


 G1に乗りたくない騎手など居るはずがないだろう。誰もがそのチャンスを掴むために必死に馬を追っている。誰もが目指している場所なのだ。


 町村は美琴にも頭を下げた。


「すみません。最初に言っていた通り、条件戦を勝ち上がれない馬を見つけてください」


 客観的に見て、何を言っているんだろうと自分でも思っていた。


 美琴は呆れ半分、疑念半分、なんとも形容しがたい困り顔で町村を見据え、唇を噛んだ。


「——やってみるわ」




◇ ◇




 小野寺厩舎を後にした美琴は、物思い耽った。


 題材は勿論、自分のお抱え騎手である町村優駿についてだった。


 美琴は町村の要望である『弱い馬を集める』という事の意味を以前から考えていた。


 なぜ彼が弱い馬を求めるのか。


 あの頑なさは、何らかの信念に拠るものだと推測しているが、それにしてもやりすぎだ。


 自分が育てた馬までをも拒否するのだから。


 重賞には目もくれず、条件クラスを渡り歩く様は、さすらいの調教助手のように映る。


 いったい何が彼をそうさせるのか、先輩の須藤に相談してみることにした。


「そいつは確かに妙だな。重賞に乗りたくない騎手なんて居ないだろうに……んで、お前は町村に重賞で騎乗してもらいたいわけだ」


「はい、彼にはその実力があるはずなんです。条件戦でも、一流騎手が出てこないわけではない。互角に渡り合っているんですから、同等の馬質で重賞に出れば勝ち負けはあると思うんですよ!」


 腕組しながら須藤は口元の電子タバコを一息に吸い込み「うぅん」と唸る。


「ま、重賞に出ればお前の取り分も多いしな」


「なッ、別にそんなつもりで言ってるわけじゃ……」


 須藤の指摘に、美琴がその生々しい一面を失念していたことに気が付いた。


 エージェント契約をして騎手に馬を用意し、その馬で賞金を獲得すれば、騎手の取り分から5パーセント前後の手間賃を受け取ることができる。


 そのため、美琴が手配した馬に町村が乗り、500万条件戦などで賞金を手にするたびに、そのマージンで約三万円程が口座に振り込まれていたのだ。


 このエージェント業をするようになってから、町村のお陰でちょっとしたタンス貯金ができるくらいにまでなっていた。時折、これがG1レースになったらどうなるんだろう、なんて想像することはある。あるが、そんな下心で動けるほどこの競馬界に精通してはいない。だが、傍から見たらどうだろう——自分の取り分を多くしたいから重賞レースを勧めているように見えないか——そんな風に考えたら、美琴は急に自分が恥ずかしくなってきた。


 重賞への騎乗を勧めるのは町村の為になることは間違いないが、それは自分が言うべきことではなく、町村自身が選択すべきこと——。


「お前の言わんとしていることも分らんではないけどな。町村はデビューから乗れている騎手ではあったよ。でも乗鞍が少なくてな。あいつのデビュー当時は自由騎乗の制度改革の煽りを食らって、外国人騎手がわんさと来た。減量特典があっても、勝ちたい馬主は名うての外国人に依頼していったんだ」


 まだ大学に居たころの話だ。


 就職に有利になるよう様々なニュースを読み漁って知識を蓄えていた。


 その無数にある記事の中に、NRAに関するものが一時期大きく取り沙汰されていた。


 日本人騎手が居なくなる——とかそういった見出しで、競馬ファンから批判が集まっていたような記憶がある。


「そんで、減量特典が取れる前に、乗れなくなった若い連中が続々と引退しちまった。比較的に上手い騎手が揃ってたんだ、あいつの世代は。もうほとんど残ってないが——」


「やっぱり、才能があるんですよ! いままで埋もれていただけで、町村くんも機会さえ与えてあげればもっと活躍できるはずなんです!」


「随分と入れ込んでるな。しかし最近ちょっと穴を開けすぎだろ。神がかってるんだが」


「だから才能があったんですって。それを披露する場所が無かっただけで。でも、ちょっと自重しようと思います。町村くんに才能があるのは確かですから、彼がその気になるまで、私も彼に付き合おうと思います」


「なに? お前年下が趣味なの?」


「ちょっと——須藤さん、それってセクハラになるんですよ」


「かぁぁ……世知辛いねぇ」と須藤は電子タバコを咥えて席を立った。


 美琴はもう少し見守ることにした。


 新しい世界に飛び込み、新しいことに挑戦していたからか、少し勇み足になっていたのかもしれない。


 町村には町村の考えがあるのだから、それを尊重しよう。


 それでも、いくら考えても町村の思考は読み解けず、納得いく答えに辿り着けそうにない。


 ただその中で一つ、頭の片隅でチラついていたのが小野寺厩舎の奇妙な馬だった。




◇ ◇




 競馬に必要なものは馬だ。


 第一に高馬——数億で取引されるような良血の馬。


 第二に牧場——外厩として優れた調教スタッフを擁し、広大な施設を有する牧場。


 第三に調教師——金持ちを口説き落とす話術を持っている奴。


 第四に騎手——ルールだから仕方なく乗っかっているただの屋根。


 おおざっぱに言ってこれが俺の競馬で、このすべてを持っているから、俺は騎手なんだ。


 生まれた瞬間からステージが違う。


 競馬エリートの家系に産まれ、体格、体質共に騎手としての資質があった。


 柴崎の騎手だからというだけで、高馬が供給され、一流の外厩で仕上げられ、鞍に跨りコースを回る。


 それだけで金が転がり込んでくる。


 競馬なんてこの程度のゲームに過ぎない——。




『さあ最後の直線。先頭のユメミタイはもう一杯、三頭、四頭固まって一気にかわしにかかる! 八番ニシノライラックが外へ出した——ここで好位勢が伸びる伸びる! 後続を突き放すぞ! 三番ブルービートが首差のリード、十番トワイライトが追い縋る! 九番ヒッチコックが内突くかッ! 一団、固まってゴール! 内か外か中か、新東京国際競馬場芝一六〇〇戦は大混戦となりました。お手持ちの勝ち馬投票券は確定までお捨てにならないようお願います』




 ニシノライラックは直線での手ごたえ悪く、伸びを欠いて七着に沈んだ。


 初騎乗の所感は、少し距離が短すぎる気がした。だが、こちらのサインにほとんど反応する様子を見せなかったことから、気性・性格の問題が起因しているのだろう。


 血統的にみれば、グローリー産駒特有の晩成型血統の馬。


 四歳以降から本格化する晩成型だが、ここでズブさを出してしまうようでは上には行けまい。なんだかんだともどかしいレースを続けて、ある程度の賞金を積み上げたら、六歳か七歳で引退し、乗馬用の馬として終わる運命だ。


 浩平はタッグを組んだよしみで騎乗馬を分析してはみたが、馬自体には毛先ほどの魅力も無いし興味も湧かなかった。


 小野寺香澄の担当馬であるという点でのみ、この馬を評価していたのだ。


 普段は男に靡く素振りを見せない香澄だが、馬の事となる途端に饒舌になるし、隙ができる。浩平はそこに突破口を見出し、今日のレースまでに何度となく作戦会議と称して食事に連れ出した。素の状態では相変わらずの仏頂面だが、時折笑顔を見せるようになったのは忍耐強くアプローチした結果だ。


 レースで結果が出せなかったのは悔しいが、香澄の父である小野寺師からの計らいで、一足先に反省会の意味でトレセンまで送り届ける役目を仰せつかったのは幸いだった。


 あの父親は長い物には巻かれろの精神らしい。


 向こうから柴崎にすり寄ってくるのなら、外堀を埋めるという意味でもそれに越したことはない。


 並みの女であれば、このまま東京で一泊して手籠めに出来ただろうが、同業者は中々難しい。それが香澄であれば尚更——茨城までの車中は、レースで負けた腹いせに八つ当たりされ、小一時間ばかし小言で攻められる羽目になった。


 しかしこれも関係が進展していると捉え、浩平は甘んじて受け入れた。


 競馬界で圧倒的権力を振るう柴崎の名を持つ自分に対して、歯に衣着せない物言いする人間は父親以外に出会ったことがない。裏表のない言葉が存外に心地よく、それが香澄という女であることに安らぎすら覚えた。


 そして、トレセンに到着する頃には、臓腑に渦巻く衝動を抑えきれなくなっていた




「はい、到着」


「ん、ありがと」


 浩平は街灯がともる小野寺厩舎手前の歩道に車を横付けした。


 日はすでに沈み、空は赤黒い夕陽の名残りと、夜のとばりがせめぎ合いを続けている。


 厩舎のほとんどが宿直にあと引き継ぎ、一日の業務を終えている時間帯。人気はなく、清掃ロボットだけが、防犯目的でライトをつけて歩道を行き来するくらいだった。


「悪いね、疲れてるのに運転までさせて」


「別に良いよ、いつもの事だし。それよりほんとに晩飯行かなくて良かったのかよ?」


「ライラックが戻ってきたときにあたしが居ないとだめだし、あと、手のかかる仔の飼い葉を用意しなくちゃいけないのよ。味にうるさくって」


 味にうるさい、という意味について少し考えてみようと試みたが、気持ちが先立っていて思考が揺らぐ。その間にも、香澄は手荷物を漁ってシートベルトを外し、とっとと外へと出てしまった。


「そんじゃ、また乗ることがあったら頼むね。お疲れ様」


 扉が閉まる。


 香澄が厩舎の事務所へと向かう背中を見つめ、浩平の中で焦りが芽生えた。


 他の女じゃこうはならない。遊びならここまで手を回してたりなんてしない。


 今すぐにでも、自分のもにしたい——その考えが頭を過ぎった直後、浩平は車から飛び出して彼女を追った。


「香澄!」


 突然呼び止められたことに驚いた香澄はびくりと震えた。振り返った先にあったのは威圧感すら感じさせる浩平の切迫した表情だ。彼女は思わず後退るも、いつの間にか腕を掴まれていることに気づき、その理由を怪訝そうに尋ねた。


「……なに?」


「お前のこと好きだわ。俺と付き合えよ」


 見開かれる彼女の瞳の大きさに呑まれて頭がくらくらしそうだった。


 相当重症であることを自覚して、答えが返ってくるまでのじりじりと焼け焦げるような時間が過ぎるを待った。


「冗談、でしょ?」


「そんなわけあるかよ。本気だって……本当のことを言えば、昔から好きだった。中学のときくらいから。ずっと好きだったんだ」


「ちょっ、ちょっと待って——」


「他に好きな奴が?」


「そういうんじゃ、無いけど……いや、違うけど」


 彼女の歯切れの悪さから、脳裏を微かに掠める影があった。


 いつもいつも大事なところで邪魔をしてくるド三流の姿。


 うだつの上がらない下位騎手の分際で、平然と香澄の傍に居られるあの男。


 初めから勝敗はついているのに——それがわかっていながらも、浩平はなんとか忌々しい影を打ち払い、是が非にも香澄をものにしたかった。


「付き合ってるやつが居ないなら考えてくれよ。そうだ、俺が口利きしてお前のところに良い馬を回してやれる。親父はうるさいだろうけど、それくらい安いもんさ。なあ香澄、本気で考えてんだよ——将来のことも。お前、調教師になりたいんだろ?」


 香澄の瞳が揺れ動く。将来の夢に言及され、恐らくそれを実現させることができる事実に気づいたからだ。彼女は目を伏せて、そのまましばらく押し黙った。


 その沈黙が焦れったかった。天秤に載せれば分かるはずだ。


 将来を考えれば、誰についていけばより良い未来が手に入るか——。


「なあ香澄、俺の女になれよ。俺がお前にG1を取らせてやるって」


「——ライラックは?」


「ニシノライラックは……まあいい馬さ。『普通の』良い馬だ。でもお前にはあんなのじゃなくて、もっと良い馬を——」


 途端、香澄は浩平の手を振り払い、顔を上げるとその眼には怒りが漲っていた。


 そして、浩平の頬が強かに平手打ちされ、怒髪天を衝くといった様相の剣幕で香澄は怒鳴り散らす。


「あんたは——馬鹿にしてる! G1も、競馬も、ライラックとあたしのこともッ! あんたに恵んでもらいたい物なんて何もないッ!」




◇ ◇




 今日は午前中の二鞍しか出番が無かったこともあり、昼にはトレセンに帰っていた。


 やることも無く、かといって遠出するほどの時間もない上、彼女も居ない町村は余暇を持て余していた。


 ふらりと小野寺厩舎に顔を出して、スタッフと競馬を見ながらダラダラとしている内に眠りこけ、目を覚ませば日はとっくに沈んでいた——腹が減ったと、独身寮に戻ろうとしたそんな折、見てしまったのだ、高級車から降りてきた二人のやり取りを。


 思わず身を隠した物陰から、出るに出られず、事の成り行きを終始見守る羽目になった。


「えらいもんを見ちまった」

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