ひとり〇〇

モノカキ・アエル

ひとり〇〇

 視界の端に、ひらひらと揺れる中吊り広告が映った。

 学校帰りは、予想通りの満員電車だった。入学してまだほんの数日だけど、この路線が激混みなのはいつものことだと、キャンパス見学の時点で既に承知していた。大量の高校生、大学生、社会人にもみくちゃにされて、気合を入れて着てきた春色のワンピースとカーディガンもヨレヨレ。ただでさえ童顔で幼く見られるのだから、周囲に侮られないように、精一杯の大学生らしい服を意識してきたのに。これじゃあきっとアイロンでふんわりセットしてきた髪も、ぺちゃんこになっているだろう。

 まだ春先、涼しい時期なのが救いなのかな。少なくとも空気がべたついたり、嫌なにおいが充満したりはしていない。

 ……でも、夏になってからの満員電車を想像すると、今からゾッとした。実家から学校までは電車でなんと二時間半。さすがに地元までこんな混雑状態なわけじゃないけれど、しばらくはどこに視線を置いていいのか分からない居心地の悪い時間が続く。

 大きな揺れが起こる度に、足に力を込めてよろけそうになる体を踏み留める。少しヒールが高めの春ブーツは失敗だった。わたしは体も小さいし、誰かが倒れ込んできたらひとたまりもない。気の抜けない状態だ。

 立ったままスマホを取り出す強者にもなれるわけもなく、わたしは首を上げ、一番近くにある中吊り広告の見出しをなんとはなしに読むことにした。

 大人の女性向けファッション誌の広告だった。オフィスで使える小物だの、出勤毎日コーデだの、勝ち組節約術だの、大学一年生のわたしにはまだちょっと早いかも。でも、興味を引かれる特集があった。


『どこまでできる? ひとり〇〇』


 思わず出そうになったため息を、押し殺していた。

 最近、ネットや雑誌で、こういった記事をちょこちょこ見かける。わたしはそれ系の記事を見つけてしまうと、隅から隅までじっくりと読んでしまう。

 ひとり〇〇は、わたしの、何よりの憧れだからだ。

 臆病なわたしは、昔からひとり行動ができなかった。見た目からして童顔で小柄。いかにも弱そうなので、周囲も率先して守ろうとしてくれる。常に誰かが傍についてくれている。うんざりするくらい過保護な人間ばかり。つまり、どこまでできる? と問われると、わたしはひとり行動を何もやったことがない。この電車ですら、地元の友達と行き帰りが一緒だ。ぎゅうぎゅうに詰め込まれているので、立ち位置が友達と少し離れてしまったけれど。今もわたしの方を大丈夫? と心配そうに目配せをしてきている。

 もうわたしも大学生。優しい毛布でくるまれている現状を、いつまでも良しとしてはいられない。こんなわたしじゃ社会の荒波には立ち向かえない。

 でも、ずっと周囲に守られてきたわたしには、ひとり〇〇はとんでもなくハードルが高かった。

 たとえば思い浮かぶのは、「ひとりファミレス」「ひとりラーメン」「ひとり牛丼」。

 店内が明るくて入りやすいし、ひとりでの利用客はとても多い。みんなやってるんだしこれくらいならできそうだ。そう思っていたこともあった。

 両親に連れていってもらうか、友達に誘われるか、もしくは自分が誰かを誘うでもしないと、入ることがない外食のお店。まずはそこから挑戦してみようと思い、勇気と覚悟とお財布を持って、店のドアの前まで行ったことはある。

 でも、ダメだった。

 ひとりで入ってみようとして気付いたのだけど、それ系のお店は、店内を見渡すことができてしまう。客ひとりひとりの顔もよく見えるし、下手したら隣の席の会話まで漏れ聞こえてしまう。そんな場所にひとりでいて、すぐ近くで、ほかの客から奇異な目を向けられたらと思うと、堪らなく恥ずかしくなった。

 しかも、客入りを見せるためなのかなんなのか、やたらとガラス窓が大きくて、外からも店の様子が丸見え。通りすがる人にまで奇異な目を向けられてしまうかもしれない。

 内からも外からも羞恥プレイに晒される、とんでもないひとり〇〇だと気付いてしまった。そんなの無理無理無理。ひとりで入れる人すごい。ひとりファミレス、ひとりラーメン、ひとり牛丼の道は、わたしには険しすぎた。

 たたん、たたん、と揺れる電車。あわせてゆらゆらしている乗客と中吊り広告。首が痛くなってきたけれど、わたしは見出しから目が離せない。


『どこまでできる? ひとり〇〇』


 両親には特別、子供扱いされてきた。

 けれど、わたしはもう大学生になったんだ。新入学。新生活。新しい自分をはじめるスタートの季節。どうせなら大人の女性向けファッション誌に登場するような、かっこいい大人の女性になりたい。

 店内が丸見えなのがいけないなら――そういえば友達とよく行く近所の焼肉屋が、個室焼肉だと思い当たった。そうだ。「ひとり焼肉」なら行けるかもしれない。あそこなら一度個室に入ってしまえば、接するのは店員だけになる。そう思っていたこともあった。

 でも、わたしは食べる量が特段多いわけでもないので、たくさん注文できないことに気付いた。焼肉ルール的には、様々なメニューを何皿も注文しないといけないのではないだろうか。一皿で個室を占有してしまうのは、お店に迷惑なのではないだろうか。ああダメだ。ひとり焼肉も無理。気軽に0.5皿単位で、お肉を注文できるお店があればいいのに。なんてあれやこれやと考えてしまい、結局「ひとり焼肉」も諦めた。

 それならばレジャー系はどうか。ひとつくらい、自分でもできるものがあるかもしれない。そう思っていたこともあった。

 たとえば「ひとりカラオケ」。高校生の頃、やったことのある友達は多かった。高校生でもひとりでできるなら、ハードルはかなり低そう。ストレス解消にもなるらしいし、いいことづくめ。個室なので、食べ物をたくさん頼む必要もない。いけるかもと目を輝かせたのだけど、すぐに気持ちは萎えてしまった。

 わたし、肺活量が極端に少ないのだ。1曲歌ったらしばらく休まないといけない。下手したら曲の途中で息切れしてる。

 行くことができたとしても、きっとわたしはマイクに向かって声を張り続けることができない。「ひとりカラオケ」を成し遂げたと胸を張って言う為には、思いっきり何曲も何曲も歌い切ってこそだろう。

 それならば「ひとり美術館」「ひとり映画館」「ひとり図書館」はどうか。そういう場所に堂々とひとりでいる女性って、妙にミステリアスな雰囲気を持っていて、格好よく見える。それこそ映画や本の登場人物になったみたい。

 自分がその場にいることを、胸をときめかせながら想像してみた。

 方向音痴なので美術館ではきっと迷子になるし、映画は友達とも行くけどわたし途中で寝てるし、わたし本は読まないや。

 全然恰好良くなかった。

 ……雰囲気のあるオシャレな女性にはまだまだなれそうにない。

 相変わらず車内は窮屈。首が限界だったので、高速で流れていく車窓の向こう、景色に目を向ける。折よく電車は橋を渡っていて、夕暮れの海が見えた。オレンジにゆらゆら光る波がどこまでも続いていて、わたしの狭かった世界を広げてくれる気がした。

 諦めるのはまだ早い。

 まだわたしの大学生活はスタートしたばかりだ。

 いずれ、最高難度とされる「ひとりディズニー」も挑戦してみたい。



 長旅を終えた気分で電車を降り、小腹も空いていたので、帰り道の途中にあるお好み焼き屋に友達と寄ることにした。

「ひとり〇〇? え、やったことないの?」

「うん。ないよ、何も」

 大学生女子二人で、鉄板の上のお好み焼きをシェアしつつ食べながら、わたしは今日の電車でずっと考えていたことを口にしていた。

「ん~~、そんなに深刻に考えることかなぁ? 気軽になんでもやってみればいいじゃん」

「そうなんだけど……なかなか勇気が出なくて」

「喫茶店とかは? ほら、駅前の落ち着いた雰囲気のところ。あたし前に行ってみたけど、コーヒー美味しかったぁ。ちょっと高いけど、客の大半が一人だったよ?」

「そういう場所って……なんか常連さんがたくさんいたりとか、一見さんお断りとか、マスターいつもの、みたいなメニューの頼み方しないといけない気がする」

「考えすぎだって! あ、じゃあネカフェとかならいいんじゃない? それこそ一人客以外ほとんど見たことないよ」

 友達がもぐもぐとお好み焼きを頬張りながら提案してきた。しかし直後、眉間に皺を寄せて首を振る。

「ああでもやっぱダメだわ。なんかそういう場所に一人で行かせるの心配だもん。あたしもついて行っちゃいそう」

「それじゃあ意味ないよー……」

「なんだろうね? 放っておけない雰囲気があるのかなぁ。あれの気分。ほらーあれあれ。はじめてのおつかいがどうにも心配で、後ろからこっそりついていっちゃう親みたいな」

「心配してくれるのは、すごくありがたいんだけど……わたしもう大学生だよ?」

「無理に背伸びする必要ないって。ああそうそう――」

 友達はこの話は終わりとばかりに、違う話題を振ってきた。

 わたしは心ここにあらず状態だった。ひとり〇〇のことが頭から離れない。どこまでできる? なんでもやってみたい。もし、ひとりでなんでもできるようになったら、何をするかな? なんて妄想が膨らみだしていた。

 たとえば「ひとりボウリング」に行ってみたい。運動不足の解消にもなるし。

 ひとりで淡々と投げてすごい点を叩き出している人がいる、その横でわたしもひとりボウリングを嗜むのだ。もちろんマイボウル、マイグローブ、マイシューズ持参。隣のレーンの学生たちが、チラチラとわたしに熱い視線を送ってきたりして。もちろん相手にしたりはしない。わたしはひとりの時間を楽しむ孤高の女性ボウラーなのだ。ちなみにわたしのアベレージは100行くか行かないか。そこで妄想は終了した。こんなスコアで「ひとりボウリング」なんて恥ずかしくてできないじゃないか。

 では、「ひとり居酒屋」だ。さっき友達と話していた喫茶店では臆してしまったけど、アルコールを嗜む女性って素敵。オシャレなショットバーでひとり飲みしていたら、きっと悪目立ちしない。おつまみにカシューナッツ。まるで文学の世界みたい。ああでもわたしまだ二十歳じゃないや。ダメじゃん。

「……ねぇ聞いてる? 何落ち込んでるの?」

「ううん……ちょっと自分のダメっぷりを思い知ったというか」

「まだ悩んでたんだ? えっとなんだっけ、どこまでできるか、ひとり〇〇」

「うん。わたし、ひとりファミレスも、ひとりラーメンも、ひとり牛丼も、ひとり焼肉も、ひとりカラオケも、ひとり美術館も、ひとり映画館も、ひとり図書館も、ひとりディズニーも、ひとり喫茶店も、ひとりネカフェも、ひとりボウリングも、ひとり居酒屋も結局できなくて……」

「やったことない人もいるよー」

「でも何かひとつくらいはきっとみんなやってる。てゆうか、ひとつでもやったことある人、心底尊敬する」

「大げさだなぁ。ほんと、あんたさー思い詰めすぎてない? 思い詰めすぎな性格だから、みんな心配してるんだよ?」

 友達が心配そうな表情を向けてくる。わたしはよくみんなにこういう表情をさせる。わたしは思い詰めすぎて、かなり危なっかしいらしい。

 心配ばっかりかけて、申し訳ないなと思う。

 できる限りの笑顔を作って、友達に向けた。

「大丈夫。それにね、これからは自信が持てるようになれると思う。よく考えたら、こんなわたしでも成し遂げられたことがあったし」

「?? それなら良かったじゃん! なんかよく分からんけど、がんばれ! 応援するよ!」

「がんばるね」



 実家の近くで、ようやく友達と別れた。すっかり周囲は暗くなって、薄暖かい春風が頬に心地良い。

 大学に入学してほんの数日。まだ講義もはじまったばかりで、キャンパスの広さも、授業の形式も、階段になっている教室にも慣れていない。でも何より、実家から大学までかかる所用時間が何よりわたしを疲れさせているんだと思う。二時間半。平日はほぼ毎日行きも帰りもこの道のり。四年もこれを続けなきゃいけないなんてやっぱり嫌だ。そのことで両親とずいぶんケンカした。心配してくれるのはありがたいんだけど、やっぱりわたしの周囲はわたしに対して過保護すぎる。童顔で小柄だから。臆病だから。思い詰めすぎてかなり危なっかしいから。

 小さいながらも庭付きの戸建てが見えてきた。

 家までたどり着いて、鍵でドアを開き、中に入るとほっと息をつく。

 着替えもせずに居間のソファーに寝転がった。

 庭には桜の木が植えてある。風水的には庭に桜の木があるのはあまり良くないなんて聞いたことがあるけれど、母が桜好きだったので、毎年春に桜を間近で見るため、無理して小さな庭で育てたものだ。

 カーテンを開け放してあるので、夜桜が見事に咲き誇っているのが見えた。そんなに大きくないから芽吹いた蕾の数は少ないけれど、暗闇に鮮やかに浮かぶピンクがひらひらと舞っていく様は、とても風情がある光景だ。母親は見られなくて残念がっているかも。

 でも、大好きな桜の木の下に埋めたんだから、きっと喜んでくれる。

 父親も一緒だから、寂しくないだろうし。

 わたしのひとり〇〇に反対ばっかりしてくるから、いっそ殺した。そうでもしないと、きっとわたしは何もできないままだった。

 友達も邪魔ばかりしてくるから、そのうち手にかけないといけないかもしれない。

 わたしはソファーの上で思い切り体を伸ばした。

 すごく疲れていたけれど、解放感はひとしおだった。でも大学までの距離を考えると、親に反対されていたけど、やっぱり大学の近くで住みたいなとは思う。夏までには何か方法を考えよう。

 毎日二時間半はうんざりだって、何度も何度も何度もしつこく言ったのに。

 ほんと、反対ばっかりするから。

 ともあれ、家の中にはもうわたししかいない。幼いわたしでも、臆病なわたしでも、危なっかしいわたしでも、ここまでやったらひとりでできるはず。

 ここを乗り越えられたら、きっと色々なひとり行動に挑戦していけると思う。

 新入学。新生活。ここからがわたしのスタートだ。

 やっと手に入れた――ひとり暮らし。


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