5 特別診察室

「それでは、健闘を祈ります」


 三階に着いたところで坂下さんはそう言うと、エレベーターの中から僕を見送った。

 降りると、目に映ったのは病院の待合室のような光景であった。

 看護ロボットが受付を担当し、介護ロボットが車イスを補助している。なんら病院と変わらない施設が、どうして本部に入っているのか。やはり、警官はどうしても心的ストレスが溜まってしまうのだろうか。

 すると僕のところに看護ロボットが寄ってきた。


『本日は、ご予約ですか?』


「予約は……多分していないです」


『それでは、名前をどうぞ』


 いくつか質問に答えて、ロボットとの会話を進めていった。


『小月さまの来院情報・担当医情報がありません。ご希望の医師はございますか』


「その、叶江さんに会いにきたんですけど……」


 看護ロボットは連絡モードに入った。多分、本人にコンタクトを取っているのだろう。


『確認が取れました。それでは、奥の特別診察室へどうぞ』


 診察室1でも2でもなく、特別診察室へと案内された僕。


『こちらです』


 どんな人が待っているのかな。東さんが言った通り、オバさん医なのかな。色々と想像を膨らませながら引き戸を開けて、中に入った。


「おはようございます、小月と申します」


 頭を軽く下げながら、簡潔に挨拶をこなした。頭を上げた時、そこに座っていたのは、白衣を着てマスクを着用した、優しそうなおばあちゃんであった。

 診察室の中は至ってシンプルで、医者用の椅子、患者の情報を映し出すデスクトップ、そしてベッドが一つ設置してあるだけだった。


「あら、おはよう。あなたが小月くんね。ほらほら、早く座って」


 叶江さんの前にある回転イスに、失礼します、と一言断って腰を下ろした。


「私は星野 叶江ほしの かなえ。よろしくね」


 軽い挨拶を済ませた後、叶江さんは急に体の力を抜き始めた。そして大きな深呼吸をし始めた。


「ここ、いい匂いするでしょ」


 確かにドアを開けた時から、甘すぎない、言わばビターチョコレートのような香りが鼻を通過していた。


「はい、とても良い香りです」


 この香りが鼻を通って、直接脳みそに届く。脳みそがドロドロに溶けて、全身が脱力したと思わせられてしまう感覚。心なしか、思考能力も下がってきた気がする。


「さっきね、坂下くんに聞いたけど、なかなか元気そうじゃない」


 眠くなるような声で、優しく微笑みながら言う叶江さん。


「はい。今は元気ですが、その場にいると、ダメみたいなんです」


「そうね。そういう人は、沢山見てきたわ」


 私生活や通常業務に支障は出ないものの、ある特定の仕事をこなすと症状が出てしまう、という人は多いらしい。


「音門くんだって、その一人だったんだよ」


 まるで自分の祖母と話しているような気分に陥ってしまう。それに、音門さんもカウンセリングをしていた、と言う叶江さん。


「そうなんですか」


「ええ、そうよ。カウンセリングを兼ねて、数ヶ月間だけ本部で働いていたのよ」


 その時の後輩が坂下さん、ということだろうか。


「小月くんは音門くんに、さぞかしかわいがってもらっているのでしょうね」


 そう言って、再度微笑みを見せてきた。坂下さんといい、叶江さんといい、音門巡回官はきっと、本部でかなり厚い信頼を築き上げたのだろう。


「ま、まぁ、そうですね」


「小月くんはお仕事頑張ってるって、音門くんに聞いたのよ」


「えっ」


 まさかあの音門巡回官が、そのようなことを言うはずがない。それとも、ただの戯言なのか。本部の人間は、本当に何を言っているのか理解できない。


「あら、もうこんな時間。それでは、カウンセリングを始めましょう」


 パソコンをカチカチっと操作して、僕の情報を画面に出し始めた。


小月 陽夜しょうづき はるや巡回官。あなたの恐怖を、全て、包み隠さずに話してちょうだい」


 僕は、血を見て気絶してしまった巡回初日の話と、警察から低所得者への暴力の話を、何度か吐き気を催したものの、全て話切った。

 しかし、話をしている最中は、何故だかとても良い気分であり、度々言葉が出てこない時もあった。


「そんな辛いことが、あなたの身に降りかかっていたのね。小月くん、よく頑張った」


 よしよし、と孫を慰めるように、僕の頭を撫でてきた叶江さん。これには不快感も無く、逆にこの包容力を受け入れてしまう自分がいた。


「でもね、小月くんはこれからも頑張らなきゃいけないの」


 自分でもよく分かっている。このままじゃダメなんだ、と。血を見て気絶する警官がどこにいるっていうんだ。


「そして、あれは暴力じゃない。警官としての適切な執行業務なのよ」


 果たして、そうなのだろうか。あれほどまでに残虐な行為は、許されるものなのだろうか。しかし、叶江さんがそう言うので、適切な業務だったのかも知れない、そう思えてきたのも事実。増して音門巡回官や白鳥さんが行ったことなので、やはり正しい行為だったのかも知れない。

 甘い匂いが、よりいっそう僕の鼻を通り抜ける。


「誰でも一度は、あの光景を見たら絶句する。あなたもその一人。だから、大丈夫。そうね、音門くんのあの事件のことはご存知?」


 あの事件とは、吉野さんが教えてくれた、『8係の大失態』のことだろうか。今の音門巡回官を形成するに当たった事件。これが合っているのか否かを問うために声を発しようとしたものの、喉の力が、ほんわかとしたこの雰囲気によって阻まれる。お腹に力を入れても、喉がそれを完全に拒否している感覚。


「いいのよ、無理に声を出さなくても。この空間を受け入れなさい。そしてゆっくりと流れゆくこの時間を使って、心の中の自分と戦いなさい。でも無理は禁物よ?」


 いっそのこと、僕はおばあちゃんと呼んでしまいたいほどの慈悲深さである。

 叶江さんの言葉は素晴らしく、全てを受け入れざるを得なかった。


「あの事件の後、彼は私のところに来たのよ。これが二回目になるわね」


 あの事件後に受けたカウンセリングが二回目だ、という叶江さん。続けて一回目の診療理由も教えてくれた。僕と同時期に、しかも僕と同じ理由だ、と語った。あの音門巡回官が、僕と同じ理由で? どう思考を凝らしても、あの見た目からは考えられない。


「この仕事をしている人はみんな、一度はこの診療所にくるの。ここに来る途中、待合室があったでしょう?」


 確かに、待合室は沢山の人で溢れかえっていた。日々のストレスケアのため、心の傷を癒すため、など症状は様々である、と説明してくれた。


「私を除く、五人の心理カウンセラーのスタッフで切り盛りしてるの」


 では、叶江さんは何をしているのか。疑問を持つと、心の内が見透かされているかのごとく、叶江さんは答えた。


「私はね。小月くんや音門くんのような、将来有望な子たちを診ているの。簡単に言うと、少し厄介な子たちね」


 そう言って、フフフ、と笑う叶江さん。厄介とは、どの基準からそうなのか。そして僕も、その基準に引っかかっていたらしい。


「8係は、ここだけの話、10係の中で二位、三位を争うほど期待されている部隊なの。だから、あなたは選ばれし人間なのかもしれないね」


 僕が、選ばれた人間……? 全く、言っている意味が素直に理解できない。けれど、どこか受け入れてしまう自分。そして、脳みそ全体に、甘い香りが行き渡る感覚。一体、この空間はどうなっているのだろう。


「あなたは、これから音門くんと一緒に、正義を貫きに行くの。そのためには、どうすればいいと思う?」


 音門巡回官の力となり、何事にも屈しない心。それを手に入れることが出来れば、格段と仕事の効率が良くなるはずだ。


「あなたが今、心の中で考えたこと。きっと、すぐに叶うわよ」


 叶江さんは、さっきから何を根拠に言っているのか分からない。でも、僕の中にそんなことを気にする感情は、これっぽっちも生まれなかった。叶江さんの言葉を一言一句受け入れることによって、心の奥底から不思議な安心感が湧き出てくるのだ。


「次の巡回では、拳をぶつけて戦うの。正義のために。治安を保つために。全ては、この世界のために。思う存分従事して、治安維持に貢献しなさい」


 この人が言っていることが正しいのか否かを判断する力も、すでに残っていない。この匂いが、この雰囲気が、すべてを肯定に導いている。


「例え悪くない人でも、低所得者エリアにいる、それだけで重大犯罪。殴る蹴るをして捕まえるのは、列記とした警官の義務よ」


 まぶたが重くなり、何度か意識を失いそうになる。

 叶江さんの言っている事は正しいし、これが僕のなるべき姿なのである。


「あなたには素質がある。あなたが巡回に真っ当することで、音門くんなんてあっという間に抜かしてしまうでしょうね」


 僕はこれから、正義のために人を傷つければいい。すべては、逮捕のため。逮捕をするためには、どんな手段だって厭わない。


「それを実行した時、あなたは本当の意味での警官になれる。私は小月くんを、応援するわ」


 話を聞いている途中、僕はイスを離れて、ベッドに向かっていた。これが自分の意思なのか、そうじゃないのかも、今の僕ではよく分からない。


「ほら、横になって」


 僕は叶江さんに促されるまま、仰向けになった。


「そろそろね。ようやくカウンセリングの終わり────快楽の境地に、ようやくたどり着けるの」


 目の前が真っ暗になっっていく。まぶたが閉じ始めているようだ。


「警官って、本当に愚かよね。小月くんも、そう思うでしょう?」


 言葉は聞こえているものの、それを僕の脳は解釈しようとしない。英単語を発音できるが、意味はわからないのと同じ感覚。


「騙して金がもらえるのだから、愚か者にはいてもらわないと困るのだけどね」


 細胞や血管の一本一本、そして血液までもがこの甘い匂いに侵された時、僕は────。

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