快適室温格安物件

小山らみ

 

 格安物件、あった! 青年はときめいた。


 次の一年でとにかく論文を仕上げる。そのあとどうなるかはわからないが、今はそれだけが目標だ。アルバイトを続けて貯めたお金、これで一年、論文執筆だけに集中する。そのためにはとことん家賃の低い部屋に移らねば。そして、見つけたのだ、格安物件を。


 同じアパート内でもこの部屋だけが安い。ということは、訳ありなのだろう。でも青年は気にしなかった。自分はそんなことは気にしない人間なのだ、という自負心がある。幽霊でも出るのだろうか? 仮にそういう理由であればまったく問題はない。幽霊など信じないから。青年はそう思った。


 その部屋を扱っている不動産屋は異様に愛想よく対応してくれ、訳ありであることは確実だなと思わせられたが、青年は借りることにした。一年は住むことになるだろうからよろしくおねがしますと挨拶した。


 机と論文を書くための資料とパソコンと。小さなちゃぶ台とふとん、最低限の食器やなべやかんなど。いまの自分に必要なものだけと共に格安物件のアパートに。古びすぎているわけでもなく、立地条件もよいくらいだ。よーし、やるぞ! よい年にしてみせる! 青年は意気込んだ。


 そして、夜。

 ふとんにくるまってうとうとしかかったとき、すぅっと部屋の空気が冷え込んだ。体が緊張する。何かが来た? そこにいる? 青年はふとんから顔を出しゆっくりと目をあける。そして、室内に一人の女が座っているのを見た。長い黒髪で白い服を着た妙齢の女性がいる。顔もまっ白に見える。

 出た。

 幽霊など信じないが、自分の目に見えているという事実はごまかせない。ごまかさないのだ。研究者としての自負が青年にはあった。

 金縛りってこれなんだろうか? からだが動かない、どういう反応をすればいいかわからないせいもありそうだけど、動けない? そんなことを考えつつ、青年は女を見ていた。

「あの、」

 女が話しかけてきた? しかし、口は動いていないようだが。というより、口元まではっきりと見えない、全体に肉感が薄く、しかし存在感はたしかにあった。やっぱり、いる。そして、彼女の声が青年の脳内には届いている。

「起こしてしまったんですね。ごめんなさい。でも、ちょっとおはなししたくて」

 答えてもいいのだろうか。しばらく様子見だ、彼女はまだ話したそうだし。

「私を見てもいきなり叫んだり逃げ出したりしないので、安心しました。前にこの部屋に来た人は、私を見るなり『貞子!』と叫んで窓から飛び降りて、夜中に救急車が来てたいへんなことになって、わたしほんとうにこわかった……貞子、って私に似ているんでしょうか? 人が逃げるようなことをした人なんですか?」

 青年も「リング」シリーズの映画を観たことはあったのだが、貞子の顔がどんなだったかまでは覚えていない。ただ、白い服白い顔長い黒髪というのは、日本的には化けて出る女の定番だろう。

「髪型が似ていますよね」

 そう答えてみる。すると少しの間、女がだまった。いまの答えを反芻しているようだ。彼女と会話ができるんだ。また、女が話してくる。

「この部屋にはわたしも住んでいるんです。あなたの邪魔はしません。ただ、ときどき部屋に出てきます。それだけです。それをわかってください。そして、あなたもわたしの邪魔はしないで、そっとしておいてください」

 黒い長い髪の間から見える女の顔は、こわくはなく、かわいいといってもいいことに青年は気がついた。キティのひげを抜いたらこんな顔になるのではないだろうか。そう、こわくないし、うそをつくようなことはなさそうだ。

 青年は答えた。

「ぼくはここで論文を書くつもりです。その邪魔をしないでくれるのなら、ぜんぜんかまわないです」

「ありがとう、わかっていただけたんですね。はじめてです、ちゃんと話を聞いてもらえたのは」

 女の表情がやわらいだように見えた。

「わたしが出てくると、部屋の中がひんやりするでしょう。これはどうしようもないので、風邪を引かないようにそちらで注意してください」

 女は一礼し、そして消えた。金縛りも消えた。まだ部屋の冷気は残っていたが、とにかく論文は書けそうだと安堵感と共に青年は眠りに落ちた。


 次の日から、青年は執筆作業に打ち込み出した。日が暮れると、ふっと室温が下がることがあり、ああ出ているのかなと思ったが、自分のしていることであたまがいっぱいで部屋にいるのかもしれない幽霊のことは気にならなかった。青年にとって今は自分のことで精一杯な時期だった。危害さえ加えられなければこわくもなんともない。


 梅雨になった。蒸し暑さを感じる。ある夜、青年はふと思いつき、ふとんから顔を出して室内を見回す。部屋の隅に白い服の女性が座っているのが見えたので、思い切って話しかける。

「あの……」

「はい、なんでしょう?」

 静かな口調で返事があった。だいじょうぶ、ふつうに会話できそうだ。

「これから、暑くなるよね」

「夏になりますね」

「うん、だから、夏は、昼間も出てきてくれないかな」

「昼間も」

「そう。そちらもつごうがあるんだろうけど、夜だけでなく、昼間も部屋にいてよ」

「だいじょうぶなんでしょうか」

「ここには誰も来ないから。他の人に見られることはないよ」

「……はい。午後からなら出てこられると思います」

 女はそう言い、ぎこちなくなってきた会話はそこで途切れ、青年は眠った。


 次の日から、午後になると室温が下がるようになった。心地よい冷気に包まれ、青年は作業に没頭した。なぜ朝はだめなのか、それはわからなかったが、それならと青年は朝方に雑用をすませておくようにし、昼ご飯を食べた後は論文執筆に取り組むことにした。猛暑の中、安アパートでエアコンもなく、しかし常に快適な室温が保たれ、ひたすらやりたいことをする。それが青年の夏だった。


 猛暑は続き、秋になっても暑さが尾を引く。そんな中、青年は彼女に寄り添われて論文を仕上げ、冬になると完成した論文を発表することができた。女はまた夜しか出てこなくなっていたが、青年は忙しさを増した。発表された論文がその分野の大家の目に留まり、向こうから声をかけてきたのだ。君の論文には大いに刺激された、わたしのもとで研究をやらないか。そして、来年度からその先生と共に研究者としてやっていくことが決まった。青年はまだいったことのない北の都市の大学へと行くことになった。


 とにかく一歩踏み出した。青年はちょっとつきものが落ちたようになり、部屋に帰ってきた。すると、火照った身体をなぐさめるようにやさしい冷気が彼を包み、あの幽霊が声をかけてきた。

「なにかいいことがあったんですか?」

「あ、いや。ただ、次の行き場が決まったんだ。実家の両親に電話して伝えたらずいぶんよろこばれてね。安心させられたようで、こちらもほっとしたよ。ずっと、したいことばかりしていたから」

「そうだったんですか」

 そして、女はこう付け加えた。

「ハッピーバレンタイン」

 今日はバレンタインデーだったのか、青年は気がついた。


 荷物を運ぶように手配し、アパートの中はもう何もない。コップがひとつ台所に残っている。青年は、出ていく前に、あの幽霊にあいさつしておくことにした。話しかけてみる。「この一年、いっしょにいてくれてほんとうにありがとう。猛暑だったらしいがそんなこと気がつかないくらい仕事に没頭できた。おかげで未来が開けたよ。あの、なにか、お礼ができれば。とにかくありがとうって、そう思ってるんで」

 空気がひんやりとし、何もない室内に女の姿が浮かび上がる。

「そうですか。だったら、そうね、お花をひとつください」

 青年はそれを聞き、花屋まで行った。花を買ったりしたことがないなと思いつつ、店内を見る。売り出し中なのか、赤いバラがたくさんあって「ホワイトデーのプレゼントに!」という手書きポップが目に入った。青年は赤いバラを一輪買った。


 部屋に帰り、コップに水を入れて、適当な長さに切ったバラをそこに挿す。がらんとした室内の真ん中にコップに挿したバラを置いた。

 ふっと冷気が満ち、女が現れる。赤いバラを見て彼女は言った。

「ありがとう。きれいね」

 そしてにっこりとほほ笑んだのが、青年にはっきりと見えた。

 はっとしたとき、もう女は消えていた。室内からもあの快適な冷気は失せていた。

 青年は、白々とした室内の真ん中に一輪のバラを残してアパートを後にした。


 新生活へと向かいながら、なにがあってもだいじょうぶ、だって自分は幽霊と一年同居してたんじゃないか、そして彼女の顔を思い出そうとするが、もう長い黒髪と白い服しか頭に浮かんでこない。

 ただ、部屋の真ん中に置かれたコップに挿した赤いバラ、その残像だけが鮮やかだった。



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快適室温格安物件 小山らみ @rammie

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