第22話 華
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探すに当たって日記を片っ端から読み漁っていると、幾つかヒントが浮かび上がってきた。
恐らく綿雪さんは女性だということ。
綿雪さんは喋ることができないこと。
綿雪さんはカフェオレが好きだということ。
僕と綿雪さんが謎の儀式(?)を進めていたこと。
僕が失恋で傷ついてボロボロのときに、綿雪さんが励ましてくれていたこと。
そして、綿雪さんの母親がこの日記の存在を知っていること。
時計を確認する。まだ、時刻は四時すら回っていない。
「――よしっ」
僕はとりあえず交換日記をリュックサックに放り込んで、家を出ることにした。とにかく、このノートに書いてある事を出来る限り知ることが必要だ。
学校裏の踏切を越えて、ドラッグストアの交差点を右に曲がる。そのまま直進して行き、車通りの多い三つ目の交差点を左に曲がれば、その一軒家は見えてきた。距離にすると、一キロと少しといったところ。何故だか僕は、その家を知っている。
玄関前の整えられた草花。珍しい種類のものもいくらかあって、やはり見覚えがある。
表札の〔綿雪〕という文字を確認して、僕はインターホンのボタンを押した。押して二秒も経たないうちに、返答が聞こえてきた。僕はカメラの前に経ったまま、応答する。
「初めまして――じゃないかもしれないです。こんにちは、日浅朝日と言います」
「……朝日、くん?」
インターホン越しの少し息切れをした声に、やはり聞き覚えがある。叶絵さんは僕に告げる。
「――上がってちょうだい。お茶を出すわ」
リビングに入り、視線を机の上にやると、目の前には湯気の立ち上る紅茶と品のありそうな焼き菓子の袋。以前この家にお邪魔させてもらったときにも頂いた。
ただ、以前と違うのは叶絵さんの姿だった。にこやかにこちらに笑ってくれるのだが、その表情はかなりやつれて見える。インターホンの切れ切れの声もそうだ。
多分、彼女は僕以上の喪失感を抱いているのだ。
「朝日くん、この紅茶に覚えがあるでしょ?」
「叶絵さんのお気に入りの紅茶でしたよね」
「ええ」
やっぱり私達はお互いを知ってる、と叶絵さんは呟いた。僕達は向かい合うように席に着く。
「……じゃあ、あの日朝日くんがうちにやって来た理由は覚えてる?」
問いに対して、僕は首を横に振った。
僕と叶絵さんは間違いなく知り合いだ。ただ接点と知り合ったきっかけにまるで覚えが無い。
「じゃあ、きっと朝日くんもなのね?」
「わたゆ……華さんのことですか?」
叶絵さんは頷く。僕達は明らかに知り合っていながら、お互いが何をしていたのかに全く覚えが無い。それはつまり綿雪さんのことと何かしらの関係があるってことだ。
「実はこのノートを、今日たまたま見つけたんですけど……」
僕は抱えていたリュックサックの中から、綿雪さんとの交換日記を取り出した。
「ノート?」
「僕と華さん――おそらく、叶絵さんの娘さんとの交換日記です。日記の中に、叶絵さんがこの日記を見たことがあるってことが書いてありました」
その話を聞いて叶絵さんは、何かを考え込むように眉間に右手の指先を当てて唸ったが、結局その表情は晴れることが無かった。
「多分その日記に深く関わっていたのは君だから、君が覚えてないなら多分私も覚えてないわ」
「そうですよね……僕も覚えてません」
期待通りの何かは得られないかもしれない。そう思った時だった。
「……そうだ朝日くん。じゃあちょっと二階に来てくれない?」
「え、なんでですか?」
素っ頓狂な声で返す僕を見てから、叶絵さんは紅茶を一啜りして言った。
「華の――多分、華のなんだけれど、部屋が二階にあるのよ。君にしか分からないヒントがもしかしたらあるかもしれない」
水色が基調の女の子らしい部屋だった。壁には制服と魔法使いの着ていそうなローブがハンガーにかけられていて、ベッドは数匹のぬいぐるみが優しく寝かされていた。一方で学習机の上はシンプルで物がほとんど無く、倒された写真立てが一つだけ置かれていた。
「ここが……華さんの部屋ですか」
「おそらくはね。でも、この部屋を見ても、記憶は戻らなかった」
僕と叶絵さんはゆっくりと水色の部屋に足を踏み入れた。
「でもそんなことって、本当にあるんでしょうか? 僕達のクラスにも、華さんの記憶が残ってる人は居ませんでした。個人のことを皆が一斉に忘れるなんて……」
「分からない。でも、現に私も君もこの子のことは思い出せてない」
そう言って、叶絵さんは倒されていた写真立てを持ち上げて、中の写真を僕に示した。
「え、見ても良いんですか?」
「この子は恥ずかしがるかもしれないけれど……、今はこの写真も記憶を取り戻すための大切な手がかりだし」
叶絵さんは僕の前に写真を差し出した。手に取ると、そこには髪の長い可愛らしい少女が、叶絵さんと一緒に写っていた。
「……とってもよく笑ってますね」
僕はこの笑顔に覚えが無い。
見れば見るほどに動悸が速くなる。自分でもよく分かる。綿雪さんは僕にとって、とても大切な人だったのだろう。だから、覚えてもいない人のことを僕はこんなに心配している。
「……あれ?」
そこで、ふと写真の違和感に気付く。
「どうかしたの?」
「いやその……写真の左端がなんだか変だなって思って」
写真の左に綿雪さん、右に叶絵さんが写っているのだが、叶絵さんはちゃんと全身が写っているのに、綿雪さんの右肩より先はすっぱりと見切れてしまっているのだ。
左端の部分がまるで意図的に切り取られたように。
「ちょっと写真立てを借りてもいいかしら?」
「え、あ、はい」
叶絵さんは僕から写真立てを受け取ると、裏の蓋を取って中から折れ曲がった写真を取り出した。広げられた写真を見て、僕は疑問符を浮かべる。
「この人って……」
写真の折れ曲がった部分に収められていたその人を、僕は全く知らなかった。ただ写真が折られていることを考えれば、その人が綿雪さんにとって快い存在ではないのは十分に分かった。
「この人は、私の前の旦那さん。朝日くんには、確か前会った時に話したんじゃないかしら」
「はい。聞いたことはあります」
叶絵さんの顔は、これまで見ていたものよりもずっと暗いものになっていた。
「私も彼のことは嫌いになってしまっているし、多分娘からしても、この人は良いお父さんじゃなかったんだと思う」
「でも……切り取ることはしなかったんですね」
「多分、こんな人でも華にとってはたった一人の父親だったの」
どこに行ったの、華。
そう漏らした叶絵さんは両手で机に写真を押し付けるようにして、震え始める。
僕は今、叶絵さんを見るべきじゃない。嗚咽の聞こえ始めた方向から、僕は顔を背ける。
「ごめんね……大人がこんな所で、泣くべきじゃないって、分かってるんだけど……」
「……大丈夫です」
叶絵さんは、今日会った時からずっと苦しそうだった。かけがえのない子供のことを忘れてしまっている自分が、もどかしくて、嫌なんだろうと思う。
「僕、部屋出てますね」
そう残して、僕は外に出てドアを閉じた。そのまま、ドアに背中を任せる。ドアの向こうから叶絵さんの泣きじゃくる声。
それを聞いて僕は、春葉を泣かせてしまった六月の事を思い出した。
彼女の心の中のどのくらいを、僕が今占めているのだろう。僕のことなんか忘れてしまってくれてると嬉しいな。いや、やっぱりちょっとくらい後悔してくれてたりするといいな。
なんて。
失恋してからは、ふと一人でいるときに春葉のことを思い出すようになった。そして答えのない僕の後悔と、叶うはずのない希望を延々と心でリピートし続けるのだ。
綿雪さんのことは、しばらく頭の片隅に追いやられてしまっていた。
「これに見覚えはある?」
「……なんかスゴイ本ですね」
「その反応を見る限り、君も知らないみたいね……」
リビングに戻って席に着いていた僕に、叶絵さんが見せてきたのは、埃っぽいという言葉がぴったりの、相当古そうな洋書だった。日に焼けきった茶色いページは、触れるだけで崩れ落ちてしまいそうだ。
「中身を少し見てもいいですか?」
「ええ、いいわよ」
叶絵さんが差し出すそれを受け取ると、予想よりもずっと上の重みがずしりと両手に来た。表紙に目をやると、その古書の〔tradition〕と書かれたタイトルがすんなりと僕の頭に入ってくることに気付く。
「朝日くんどうかした?」
僕の反応が相当変だったのか、叶絵さんは首を傾げて僕に尋ねる。
「いや、その……」
僕が古書の適当なページを開いてみると、その中身は全て見たことのない言葉に埋め尽くされている。でも、何故だか内容は一目で理解できる。
「これって何語なんですか?」
「多分フランス語か何か。でも私はその辺りをあまり詳しく知らないから読めなくて……」
華はフランス語の勉強でもしてたのかしら……という叶絵さんの台詞はそれ以降が全く頭に入ってこなくて、代わりに古書の中身がすらすらと入ってくる。
〔この本は執筆に用いた言語を解さなくとも、必要とする者には容易に読解することが可能である。〕
……そんなことあり得るのか?
でも、実際僕はこの本をすらすらと読むことが出来ている。
つまりは、僕がこの本を必要としているということなのだろうか?
「叶絵さん、この本をしばらくお借りしてもいいですか?」
「え、ええ。……でも、そんな物どうするつもりなの?」
「ちょっと、読んでみます」
「えっ、読めるの?」
「……いいえ。でも、辞典とか使えば読めるかなと思って。読めなかったらまたお返しします」
嘘は、何故かすんなりと口から出た。
「分かったわ。でも、あまり私生活に影響のない範囲でね。君も……多分受験生でしょ?」
「――多分?」
「家の中を調べてたら年齢的に華も受験生だったみたいだから、多分君もかなって思って」
「……華さん、見つかることを祈ってます」
「ありがと。私も、君と話せて少し落ち着けたわ。――玄関まで送るわね」
叶絵さんは僕に笑う。その笑顔が虚勢だということは、誰が見ても分かったと思う。
「今日はありがとうございました……すいません、急に押しかけてしまって」
「いいえ。こちらこそ色々とどうもありがとう」
靴を履き、二人で庭に出た。鮮やかな季節の木々や花で彩られた、普通の一軒家にしては広めで綺麗な庭。ぼんやりとそれらを眺めていると、叶絵さんは青々と茂っている木の一本を右手で示した。僕はそれを見上げる。
「ロウバイ、って聞いたことは無い?」
「ごめんなさい、わからないです」
植物とは元々縁があまり無い。
「そっか。これ、今は夏の終わりだからただの木だけれど、十二月か一月くらいになると、綺麗な薄黄色の花をいっぱいに咲かせるのよ。……このロウバイはね、前の旦那さんと植えようって約束してた木なの。子供が生まれるときにね。春ならサクラ、夏ならサツキ、秋ならモミジ、冬ならこのロウバイを植えようって、結婚した頃からずっと言ってたのよ」
「この木も、華さんがいたことの証明の一つなんですね」
「ええ」
――それは、根拠としては乏しいのかもしれない。現実的でも科学的でもないのは確かだ。
それでもやっぱり、綿雪さんはここにいたんだ。
「ちなみに……名前はやっぱり華に決まってたんですか?」
僕の問いかけに、さっきとは違った少しうれしそうな表情で、叶絵さんは答えた。
「ええ。男の子なら。女の子なら、華にしようって」
主人は木が好きで、私は花が好きだったから。
そう言ってロウバイを見つめる叶絵さんの目は少し潤んでいて、そこに僕は誰かの影が重なるような感覚を覚えた。
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