第50話 祐二(前)

 埼京線十条駅を降り、シンボルキャラのキタニャンと、「じゃあ、十条」のキャッチフレーズが掲げられた、東京都北区十条銀座商店街のアーケードには入らず、線路沿いを少し北に進んで左に入れば、肉骨茶(バクテー)を名物料理にする、マレーシア・キッチンがある。

 肉骨茶、なんだかグロテスクなネーミングだ。バクテーはシンガポール料理として有名だが、もともとはマレーシア発祥である。この店の味付けは漢方薬膳風のスープで、スペアリブ肉をほろほろになるまで煮込んだ、どこか懐かしい、優しい味だ。

 以前は中華料理店が多かったが、今ではベトナム料理店、インドバー、ネパール食堂、アジアン食材店など、外国人居住者の増加に比例して、店も増えた。もともと二十三区内では物価の安い地域であり、その割に治安は悪くないので、都心のテンションの高さが疲れるおれにとっては、生まれ育った神戸の下町に少し似ているこの町が、住んでいてラクだった。

 醤油ベースのあっさり味と、こってり濃厚味、それにみそ味の三種類がある。今日はいつもの濃厚味じゃなくて、あっさり味を頼んだ。店主の西丘さん夫妻は、いつも明るく元気で、さりげなくおれの様子を気遣ってくれる。

「あら、どうしたの?祐二くん。お疲れ気味かな」

「いえ、ちょっと夏ばてっていうか、たまにはあっさり味もいいかなって」

「そう、じゃ、ライスは普通盛りにしとくから、お代わり欲しかったら、遠慮なく言ってね」

 スープをレンゲですくい、口に運ぶ。口下手だが真面目でていねいな店主の人柄のように、温かくて、すうっと腹にしみわたる。シンガポール風のスパイシーなバクテーは知らないが、こちらの方が素朴で食べ飽きない、マレーシアのA1という食材ブランドの味付けらしい。スペアリブというと、カリカリでこってりした、脂のたっぷり乗った肉というイメージだが、長崎卓袱料理のように、脂が抜けて旨みだけ残してある。

 ダークソースという、九州のたまり醤油みたいなソースをつけたり、刻みニンニクと碧唐辛子のチリソースをつけて、肉をかじる。ご飯をスープに放り込んで、かき込む。まだ十二時前、客はおれ一人だった。

「うまかったです。ごちそうさま」

「いつもありがとう。今日は、オートバイでどこか行くの?」

「はい、ちょっと散歩がてら埼玉に」

「雨やんで良かったわね。じゃ、気をつけてね」

 やっと住み慣れた感が出てきたけれど、この町ともお別れか。最後の食事、うまかったよ、おじさん、おばさん。

           *

 店を出て、アパートのカギの二つめを探しに、いったん戻った。いつ泥棒に入られても大丈夫なくらい、何もない部屋だ。一瞬、敷金とかどうなるんだろうと頭をかすめたが、どうせ家賃二ヶ月滞納してるから、クリーニング代含めて相殺だな。カギは一階の郵便受の裏にガムテープで貼り付けていた。それを思い出すことがなかなかできなかったのは、やはり薬のせいか。そういうことにしておこう。

 いろんな感情が刺激されるのが嫌で、部屋には入らなかった。心配しなくてもガスはとっくに止まってるし、電気も止められた。水道は出るので、タオルを濡らして体を拭こうかと思ったが、やっぱり面倒になってやめた。玄関の表札っていうか、厚紙にマジックで書いただけの名札をはがした。

 結局、この部屋に来た奴は、あんまりいなかったな。最後が閃太郎だった。

「おれじゃ、止められないのかよ!」

 意味のよく分からないことを怒鳴りながら、泣きながらおれの顔面を一発殴りやがった。ヘタレのあいつにしては、腰の入ったいいパンチだったけど、やっぱり平井さんの方が痛かったな。閃太郎、夢があって羨ましいな。あいつはきっと、一人でも夢を掴める奴だ。女運はないけどな。

 非常階段の手すりにカマキリがとまっている。まだ暑い日もあるくらいだし、エサにも困らないはずだが、なんでわざわざこんな鉄とコンクリートの建物にしがみついている?ここじゃ、ヤブ蚊くらいしか飛んでこないぜ。お前には本物の羽があるんだから、もっと生きやすい、ここじゃない、どこかに飛んでいけよ。卵から孵った時から、他の命を狩って、ここまで大きくなったんだろ。狩れなくなった時が、終わり。この世界が優しくできていないってことは、お前自身がよく分かってるよな。手伝わないぜ、おれは。

 動物も昆虫も、あるいは植物も、みんな内側からこみ上げてくるものに突き動かされて、それが生きる原動力になる。争いの元にもなるけれど。おれはもう、何もこみ上げてこない。老いたな。何が人生百年時代だ。あと七十五年も心が枯れたままで、この世界に居なくちゃいけないなんて、冗談じゃない。

 大衆は、応援したくなる対象を見つけては神だとか大げさに持ち上げて、飽きた頃にその神が、一つ踏み外したら今度は徹底的に叩く。みんな結局、自分が自力で存在する意味を確信できないから、そんな情けないことを繰り返すんじゃないか。あるいは、本質から目を逸らせるためにコントロールされているだけか。何にしても、この世界のことは、何もかもどうでもいい。自分の力で変えることなんてできないし、自分をアジャストさせることは、もう疲れた。

 この間の選挙は行かなかった。選挙に行くべきと言う正論は、理屈としては分かる。ただ、そんなことをもし本気で言ってるとしたら、そいつは自分の無力さを認めたくない、あるいは諦めていないお人好しに過ぎない。何万分の一、何十万分の一の力が同じ方向を向いて集まれば、それは世の中を変える波になるだろう。

 でもそれって、それが少なくとも自分にとっては正しいことだと信じているのが前提だろう。戦争へと向かう流れも、権力者が勘違いの旗振って、みんなそれに勝手に期待して付いて行った結果じゃないのか。正しいと信じることは、そこで思考停止することだ。自分の勝手な期待を、人になすりつけることだ。結局、おれの場合は、誰かを最後まで信じ切ることができなかった、それが人としての敗因だろう。

           *

 階段下に駐めてあるカタナを引っ張り出す。近所迷惑になるから、信号のある交差点まではエンジンを掛けないという大家との約束だ。このマシン、神戸から東京に持ってきたのはいいが、思ったほど乗らなかった。紗弥が鎌倉の会社に就職してから、オートバイ神社巡りに中国四国地方をダンガンで行ったのと、あいつの挑発に付き合って奥多摩でチキンレースやったな。あとは、亜弓・・・さんを乗せて雨の箱根に行ったのと、彼女のお盆の帰省に大阪の茨木まで送っていって、ついでに淡路島と琵琶湖を一周したくらいか。しかし、女の人って、不思議というか、こわいな。一晩過ごしただけで、距離感ぐっと縮めてくるからな。それとも、おれの感覚の方がおかしいんだろうか。

 埼玉の和光市。行ったことないけど、多分普通の住宅街なんだろう。カタナの買い手のやつ、おれが直接和光まで届けに行くって言わなかったら、まだ値切ろうとしてたからな。欲しいんなら、自分で取りに来いってんだ。向こうにしてみりゃ、売りたけりゃ持ってこいって理屈なんだな。別に売りたくはないんだけどな。帰りは電車か。いや、おれ、どこに帰るんだろう。

 シート下収納から、ビニール袋を取り出す。まだたくさん残ってるな、ベンゾ系処方薬。だけど、もう二度と飲まない。こいつは確実に心といのちを蝕む。依存させて弱くする。症状を一時的に抑える以外の使い方をしちゃ、絶対にダメだ。途中のコンビニで捨てよう。医者の言うことは最初から信じちゃいなかったが、誰に聞いても、一気に断薬するのはヤバいから、徐々に減らせって言う。それはそうなんだろう。だけど、幻覚が出ようが気分が落ちようが、飲みたくないものは、もう二度と飲まない。コンビニのゴミ箱はやっぱりまずいか?万一、誰かの手に渡って悪用されるのは我慢できないし。トイレに持ち込んで一つずつ出して流すか。ああ、面倒くせえ。

「もっと簡単にラクになれる方法があるぜ」

「うるせえ、もう出てくるなって言ってるだろうが。おれの分身だか本心だか知らんが、お前にだけは支配されないからな。おれの反発を見越して、破滅へ誘導するつもりだろうが、もう一切無視する」

 聞こえたような気がするんじゃなくて、本当に聞こえるから幻覚なんだ。シャドウ。おれの影が人格を持って、おれ本体に取って代わろうとしている。こいつを消滅させようとおれが願ったら、回り回って誰かの存在を犠牲にしかねない。おれが一人になるのは構わない。誰にも迷惑かけずに、この世界からいなくなるのは本当に難しい。だけど、ウルトラマンの故郷くらいか。光だけの世界なんて地球上にはない。闇と共存するには、光が足りない。シャドウを消すには、完全に闇に溶け込まなければならない。

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