第3話 虹のかかる街


 「あら……雨が上がってきたわ」


テラスの屋根に落ちる雨音が間遠になり、辺りが、手妻てづまの種明かしをするように明るくなっていく。


雲が風に飛ばされて、ゆっくりと海に青さが戻りつつある。

まだ波の高い海に、船が白い波を立てて走って行く。

あの人が乗る船がいる海につながる海を……


ふっと日に焼けた優しい笑顔が胸に浮かぶ。

(今頃、どこまで帰ってきたかしら)


何だか随分会っていない気がする。


(早く会いたいだなんて、もうおじいちゃんとおばあちゃんなのにね)


夕梨香は胸に夫の面影が蘇ると、里心がついたように、急かされるような気持ちになった。



「ありがとう。もう行くわ。

雨が小止みになってきましたもの」


「まだ少し、降っております。

降り止むまでお待ちになられては……

もう一杯紅茶はお飲みになりませんか」

店主は、名残惜しそうな顔をして引き留めた。


「ありがとう。親切な方ね。」

夕梨花は嬉しそうに笑った。

「でももう帰って、お掃除をして、準備をしないと」


「ああ、左様にございますか」

店主は小首を傾げて残念そうにため息をついた。

「またお越しになられて下さいね」


(あら、通り雨は不思議な縁を運んできてくれたみたいね)


「ええ、ありがとう。必ずくるわ。今度は主人と一緒に」


夕梨花はそう言うと、もう一度灯明皿から立ち上がる優美な香りを楽しんだ。


「ああ、本当にいい香り」


「次にお越しくださった時には、違う香りを焚きましょう」


店の出入り口の扉の所で、夕梨花は立ち止まって、店主の顔を見た。


「本当にご親切に有り難う」


「いえいえ、お役に立ちませんで」


「え?十分助かったわよ」


そうですか

店主は、キョトンとした優しげな丸顔に薄く微笑んだ。


「ハイビスカスの花を一輪お持ちになりますか」

「あら、嫌だ」

扉の横で、濡れて揺れる花を見て夕梨花は笑った。


「あれは立葵たちあおいよ。

よく似ているけれど、ハイビスカスは真夏でしょう?

この季節に咲くのは立葵なのよ」

「ああ、左様にございますか」

夕梨花が可笑しそうに教えると、店主は成程と素直に頷いた。


「じゃあ、次は主人と一緒に伺うわ。

本当にありがとう!」


夕梨花は1つ軽く頭を下げると、虹が掛かる街へと歩き始めた。



そして、見送る店主の前で、二、三歩歩くと、その姿は空中にすっと消えていった。





「行ってしまわれたか」

店の奥の薄闇から姿を現した野風が問うと、店主が苦笑して頷いた。


「また、お役に立てませんでした」


「いえいえ、こちらこそ、申し訳ありません」

帳場の小さな椅子に座っていた日に焼けた白髪頭の男が立ち上がって、頭を下げた。

傍には男によく似た青年が1人立っている。


「しかし、まぁ今年は共にケーキを食べる所まで行ったから、来年には……」


「ほんに思いがけぬことが起こるものよ」

付喪神たちは溜息をついた。


あのご婦人は、毎年お盆の雨の日に帰ってくる。


自分が事故で亡くなったあの六月の梅雨の晴れ間の日を再現をする為に……


「私を出迎える為に帰ってくるのでしょう」


いつか日が無事に過ぎて、「明後日」になる日まで。


「こちらで買った灯明皿にこのような力があるとは……」


男は先程まで妻が座っていたテラスの椅子に腰掛け、しみじみと灯明皿の熱せられている縁を撫でた。


「一年に一度だけでも、妻に逢えるのは嬉しい事です。

ただ残念なことに、妻の心はあの日に留まっているせいで、私のことは見えないようなのが寂しいものです……」


「お父さん……」

青年が父親に駆け寄り、背中をそっと撫でた。

「いや、すまないね」

その手に大きく日に焼けた手を重ねる。



「大丈夫で御座いますよ」

店主は微笑んだ。


「そのうち、気が付かれましょう。

禊萩みそはぎのことも一瞬、お分かりになったように御座います。

少しずつ、夢から覚められておいでになるので御座いましょう。

来年はもう少し、季節の花を早めに用意致します」


「しかし、花屋のタイミングは、不味かったの」

厚が眉間に皺を寄せた。

「も少し、早いか、遅いかすれば、灯明がもしや渡らせられたやもしれぬのに」


その時、呼ばれたことに気がついたように、揺れる灯明の付喪神が体を震わせて現れた。


輝くような白髪を長く垂らした付喪神が、男の方へ手を伸ばした。


「さぁ、旦那様戻りましょう」


「ああ、もう燃えつきる時間か……」

白髪頭の男は、微笑んで付喪神の手を取った。


「来年こそは、奥様も一緒に冥土へ帰りましょう」


「それでは、皆様、お世話になりました」

「はい、また来年」


フワリ

最期の揺らぎをみせる炎の中に、付喪神に手をひかれた男たちの姿が消えていった。


「なんとも、仲睦まじいの」


妻の初盆に灯明皿を購った男は、その日に冥土へ渡ってしまった。

そして、冥土にいない妻に会うために男はやってくる。


自分との再会を心を残し、街のどこかに魂魄を漂わせている妻を取り戻す為に。




店主が店の窓を開けると、涼しげな風が一気に吹き込んできた。


僅かに潮の香りを含んだ風は、爽やかに骨董屋の空気を祓い清めたように感じさせた。


「これはまた色なき風……だのう」


於鏡が髪を押さえながら呟いた。

「お主がおらば、花の風にもなるやろ」

涕が返すと、於鏡が頬を染めた。

「おやまぁ、涕。嬉しがらせをお言いでない」


「ほう、流石、茶杓は風流じゃのう!」

厚が目を剥いた。


「おお、そうじゃ!女相手の陰間茶屋のような物があるらしいぞ!

涕ならば、口が上手かろうから、そこででも働けよう!」

笄が言う。


「そうじゃの、主らには到底、無理だろうがの」

鼻白んだ顔をした涕は面白くもなさげに返した。



「さて、来年まで、如何なる暇つぶしで時を過ごしましょうか」


店主は野風を振り返った。


「そうじゃの」


野風は一筋の白い煙を上げて燃え尽きた、灯明皿を眺めながら応えた。



「灯明にお願いして、冥土に遊びに行ってみようかの」


また1年間、妻に会うのを楽しみに、じっと待っている男の話し相手になるのもまたいいかもしれない。


(了)



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骨董屋麒麟堂番外編 麒麟屋絢丸 @ikumalkirinya

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