第5話 魔の海域を探索せよ!

「いいか、おめえら! 邪魔する奴は兵士だろうと街の連中だろうとかまうこたねぇ、ぶっ飛ばせ! あのちょび髭野郎をぎったぎったにぶちのめして、お嬢のかたきを討ってやろうぜぇ!」

「おお~っ!」

 プトレマイオスの叫びに、甲板に集まった船員たちが呼応して鬨の声をあげた。

 ダイヤンの街から追い出されてしまったマリアンヌたちは、インフィニティ号に乗り込んでダイヤン港から出航し、現在はその沖合に停船している。甲板に集まってきた船員たちにプトレマイオスが檄を飛ばしたところだった。

 自分たちの提督であるマリアンヌが、言いがかりをつけられて街を追い出されるなんてことを、乗組員が黙っているはずがない。プトレマイオスの檄に乗せられて、船員たちはすっかり闘志満々になっていた。

 船員ばかりでなく、航海士たちも臨戦態勢になっていた。ジュリアスは上甲板にあぐらをかいて、愛用のサーベルをじっくり吟味しているし、セレウコスは当直甲板上に立って、厳しい視線をダイヤンの港のほうに向けている。

「ちょっと、みんなかっかしすぎてるよ。提督が何も言ってないのに戦闘準備しなくたっていいじゃない。だいいち、街を襲撃しようなんて……」

 戦闘態勢に入っていなかったアッシャーが、臨戦態勢でぴりぴりしたムードになっている仲間たちを鎮めようとするが、その声を聞いている人はいなかった。

「なに甘ったれたことを言ってやがる、アッシャー。てめえも弓が使えるんなら、今のうちに手ぐすね引いて準備しとけ」

 ジュリアスが鋭い視線をアッシャーに向けた。

「あれだけバカにされて、お嬢が黙っているわけねえだろうが。お嬢が部屋に閉じこもって出てこねえのが、怒っているなによりの証拠だぜぇ。お嬢をこけにする奴は、総督だろうとどこかの王だろうとぶっ飛ばす! それが俺様たちだぜぇ」

 プトレマイオスがゴリラのように胸をどんどん叩きながら、吼えるように言った。

 船に乗り込んでからずっと、マリアンヌは自分の個室に閉じこもったまま姿をあらわさない。彼女は頭にきたら倍三倍言い返すが、怒り心頭に達したら、はまぐりのように口をつぐんで、いっさい口をきかなくなる。そして部屋に引きこもってしまい、その間誰も部屋に入れない。

「それはボクもわかるけど……だからって、提督が戦闘を指示するなんて考えられないけどな」

 アッシャーは冷静沈着なセレウコスに近づいた。

「セレウコスさん、みんなを止めてよ」

「もはや止められん。それに、そのつもりもない。お嬢ちゃんの命令があり次第、船をダイヤンに向ける。お嬢ちゃん次第だ」

「セレウコスさんまで、ダイヤンを襲撃する気なの!?」

 愕然としてアッシャーが訊ねると、セレウコスは答えず、無言でまたじっとダイヤン港のほうを見据えた。

「提督が攻撃命令をださねぇ見通しだって根拠ねえだろ。だからてめえは甘めぇんだ。戦は心次第だ。万が一に備えてきちんと気構えしておかねぇと、てめえ死ぬぞ」

 ジュリアスが立ち上がって、アッシャーの胸に軽く拳を押しつけた。戦う気構えでいろというジェスチャーだ。

「う……。やっぱり戦うことになるのかな……」

 アッシャーもようやく臨戦態勢を取ろうかと思ったとき、ハッチが開いた。

「やれやれ、血の気の多い男たちばかりじゃのう。お嬢ちゃんの命令を待たずして戦闘準備を始める気かね? それじゃと、お嬢ちゃんがじゃなくて、おまえさん方が総督と戦いたがっているんじゃろう」

 甲板にカッサンドロスが現れた。さっきまで、司令室(マリアンヌの個室と続き部屋)の中で、マリアンヌの機嫌が収まるのを待ち続けていたところだった。

「お嬢ちゃんはどうしてる」

 セレウコスがカッサンドロスのほうを向いて訊いた。

「気持ちもだいぶん落ち着いたようじゃ。今出てくるじゃろう」

 彼が答え終わらないうちに、マリアンヌが甲板上に姿をあらわした。彼女は厳しい表情をしたまま、船員たちの集まっている上甲板の真ん中をすたすたと歩いて、当直甲板に立った。

「お嬢、今すぐダイヤンに引き返して、あの総督をぶっ飛ばしてやろうぜぇ!」

「命令があれば、オレたちはいつでも戦えるぜ。奴らの肝をつぶしてやろうじゃねぇか」

「提督をこけにする奴らを、あっしらが許さねぇですぜ」

「提督、やっちまいましょう!」

 プトレマイオス、ジュリアスらに加わって、船員たちも口々に彼女に言った。彼らはもう戦意が十分高揚している。

「静かにしろ」

 セレウコスが低い声で一喝すると、乗組員たちのボルテージの上がる甲板上が少し静かになった。

 静かになったところで、マリアンヌが乗組員たちに語りかけた。

「みんな、心配かけてごめんね。あたし、あの総督になんか、絶対に負けないから」

「おお、そうこなくっちゃよ!」

「あの総督に一泡吹かせてやろうぜ!」

「さっそく上陸して、総督を襲撃だ!」

「おおーっ!」

 船員たちが拳を振り上げてボルテージを上げているのを、彼女はいったん制した。

「待って。あたしは街を攻撃して総督をやっつけちゃおうなんて考えてないわ。もしそんなことしたら、街の人たちまで巻き込むことになっちゃう。そしたら、ダナン島はほんとうにぼろぼろになってしまうわよ」

「提督。言っちゃあなんだが、街の人間だって同罪だぜ。オレたちに石を投げつけてきたのも、帰れ帰れのシュプレヒコールをあげたのも街の人間だ。総督と一緒にまとめて思い知らせてやってもいいと思うぜ」

 ジュリアスが目に鋭い光を含ませて言った。

「ジュリアスよ。おまえさんの言い分もわからんわけではないが、あれは何者かがあおった様子があるとわしは見ておる。背後にいるのが何者かははっきりせんが、きっと総督がなにか関わっておるじゃろう」

「じゃあ……もしかして、総督がボクたちを追い出すために罠を仕組んだってことかな。それなら、広場で起きた騒ぎと総督の行動にもつじつまが合うけど。でも、なんでそんなことをするのだろう」

 アッシャーが首を傾げた。

「わかんないけど……でも、あたしは総督の言いなりになんかならない!」

 マリアンヌは語気強く言い放った。その目には燃えるような光が宿っている。

「あのちょび髭があたしたちを追い出そうとするなら、こっちは島に居残って、ダナン島の人たちにとことん関わるわ。それで、絶対に島を変えてみせる。このまま引き下がって帰るなんて、負けたみたいで悔しいじゃない。あたしたちの力で、あの総督にぎゃふんと言わせてやるのよ」

 おおっと船内がどよめいた。戦闘開始の合図ではないが、マリアンヌははっきりとアブシントス総督に宣戦布告したからだ。

「お嬢ちゃん。ならば、これからどうしますか」

 セレウコスが訊ねた。

「すぐに帆走再開して。インフィニティ号、島の北側に向かうわ」

「島の北側ですか」

 マリアンヌはうなずいた。

「怪魚のうわさも、人喰い熊のうわさも、出所は総督からだって街の人たちが言ってたわ。根も葉もないうわさを島の人たちに信じ込ませるのは、そっちの方向に人々を行かせないようにするためだ……って、さっきじいさんと話してたの。そうだとすれば、島の北側に行けば、もしかしたら総督の弱みになるものを見つけることができるかもしれない。それをひっつかんで帰って、総督を攻撃してやるのよ」

「なるほどな……単純に武力を行使するより、確実に総督を叩くことができるかもしれねぇ」

 ジュリアスが無精ひげだらけのあごをなでながらうなずいた。

「それともう一つ。もしかしたら、行方不明になったスコットさんとドリスさんの手がかりがあるかもしれない。これもじいさんと話したんだけど、ドリスさんは島の北側の探索を計画していたわけだし、スコットさんは、北の山地から流れてくる川を測量していたのよ。そのあと、総督に面会してから行方がわからなくなった……これって、絶対になにかあるって思わない?」

「そうだよね。でも、スコットさんはともかく、ドリスさんはどうなの? 島の北側に行って来たわけじゃないし……もしかして、どこかで船を手に入れたとか?」

「なきにしもあらずだな……オレの見つけた入り江なら、小舟を隠せてもおかしくはねぇ」

「話を総合すると、やはり、島の北側に行ってみるしかなさそうですね」

 セレウコスは納得した。

「難しいことは考えてもしょうがねぇぜぇ。早くそっちに向かおうぜぇ」

 暴れる機会がなくなって少しさびしそうだったプトレマイオスがわれ鐘声で言った。

「もしもということがあります。うわさ通り、怪魚が現れた場合はどうしますか」

 念を入れるため、セレウコスは彼女に尋ねた。

「うん……そのときはね」

 彼女は口元に少し笑みを浮かべ、セレウコスにウィンクした。

「全速力で逃げるわ」

「承知しました。よし。総員、配置につけ。展帆用意、帆走を再開する」

 船長のセレウコスが命令を発した。それに応じて、船員たちはわらわらと船内に散っていった。マストに帆が広げられ、インフィニティ号はダナン島の北側に向かって航行を開始した。


 ダナン島の南側はなだらかな平原が広がっているが、北側は山脈が続いて、島の背骨のようになっている。500mから1000mたらずの山々だが、全体的に険しく、そう簡単に近づくことのできない山岳地帯だ。

 海岸段丘の続く南側はなだらかな海岸線が続いているが、山々が海のすぐ近くまで迫っている地形の北海岸は、山の尾根がそのまま海に続いているように見える。小さな岬と入り江が交互に続く、いわゆるリアス式海岸だ。

 12月のこの時期、北よりの風が吹き付けるので、ダナン島の北側は、ダイヤン港のある南側に比べて波が高くうねっている。ただし、この日12月14日は風も幾分穏やかで、厳しい寒さは感じない。

 ダナン島の北側にインフィニティ号を回り込ませ、海岸から1マイルも離れていない沖合で停船し、マリアンヌたちは周辺の観測を始めた。彼女たちの船から見える海岸は、高い海食崖になっていて、そこに波がぶつかって白いしぶきをあげているのが見える。

「うーん……なんか海岸は岩だらけだね。暗礁もありそうだし、上陸地点はなさそうだよ」

 海岸のほうを双眼鏡で眺めていたアッシャーが言った。

「そう。せめて、もっと海岸に近いところに行きたいんだけど。じいさん、どう?」

 下げ振りを使って海底の地形のデータを取っていたカッサンドロスにマリアンヌが訊ねた。カッサンドロスはいったん測量の手を止め、腰に下げていた自分の望遠鏡を使って海岸付近を観察した。

「このあたりは水深が深いし、山岳や崖が海岸に迫っている地形から考えるに、ある程度この船で海岸に近づくことは可能じゃろうが……問題は暗礁と、あのあたりじゃな」

 彼は、インフィニティ号が停泊している位置と島の海岸の中間にある水域一帯を指で示した。日が射し込んできたその一帯は、海の色が若干濃くなっている。

「ケルプの群落があるようじゃ。下手に近づくと、舵に絡まる恐れがあるのう」

 ケルプ(昆布やワカメも含む)やサルガッソ(ホンダワラ)などの海草が茂る群落に船が乗り入れると、舵に海草が絡まって、身動きがとれなくなってしまうことがある。その場合、無理に動こうとして船が壊れてしまう場合もあるし、そうやって身動きがとれなくなっているときに海賊の襲撃を受けることもある。重装戦艦や商船のような、喫水の深い外洋船ほど、この障害にはまりこんでしまうことがある。

 カッサンドロスは、海岸から突き出たひとつの半島の付け根を指さした。山の尾根がずっと海まで乗り込んでいるような半島だ。

「あのあたりに入り江があるようじゃな。風をよけて停泊するのに申し分なかろう。わしが測量して、水路を確かめておこうかの」

「うん。そうしてくれる?」

 カッサンドロスは五人ほどの船員を連れて、ボートに乗って海中の測量を始めた。測量の完了までは時間がかかるだろう。

「お嬢、さっきじいさんが、海草がたくさん生えてるって言ってたよなぁ」

 プトレマイオスがのんびりとした声で彼女に言った。

「うん。それがどうしたの?」

「海草がたくさん生えてるところには魚が多いんだぜぇ。釣りをしたらきっと大物が釣れるんじゃねえか」

 暇なときには、大いびきで寝るか、甲板から釣り糸をたらしている彼は、釣り吉の経験から彼女に言った。

「そうね。あ、それもいいけど……」

 彼女はひとつひらめいた。もしこのあたりが、海草も生い茂り、魚もたくさんいる海域だったら、漁業が島の新しい産業になるはず。調査してみる価値は大きい。

「この海域にどれくらい魚がいるのか調べてみようよ」

「どうやって調べるの?」

 アッシャーが訊ねると、彼女は口をつぐんだ。思いついただけで、具体的な調査方法はなにも考えていないのだ。

「簡単なことだろ。潜って、目で確かめりゃいいさ」

 ジュリアスが横から無造作に言った。

「なるほど。なんでそれに気がつかなかったのかしら。で、誰が潜るの?」

「ボクはいやだよ。海に入ると、塩で髪が傷んじゃうもの」

 アッシャーはあっさり拒否した。

「オレはさっき、カッサンドロスさんから測量の続きを引き継いだ。だから身体があかねぇ」

 ジュリアスはすまして拒否した。

「提督にやってもらうしかねえだろ。言い出しっぺなんだし」

「う~。わかったわよ」

 彼女は一度ぷうっと頬をふくらませると、ベストとブーツを脱いで、チューブトップとパンツの軽装になった。海に潜るからと言って、必ずしも水着になるわけじゃない。船乗りはたいてい、服を着て泳ぐ方法も心得ている。

「待ってください、お嬢ちゃん」

 海に飛び込もうとしたマリアンヌにセレウコスが声をかけた。

「うわさの怪魚が出るかもしれません。海中調査は危険です」

「やあねえ、セル。怪魚がいるなんてきっとうそっぱちよ。セルも怪魚がいるなんて信じてるの?」

「そうではありませんが……最悪の事態を想定するのが自分の務めですから」

「大丈夫。怪魚が海面に姿をあらわしたらボクに任せて」

 アッシャーが得意そうに言った。

「どんな動物も、眉間が急所なんだ。天才スナイパーのボクが一発で射抜いて、仕留めてみせるよ」

「まったく当てにならねぇ保証だな」

 ジュリアスがぼそりとつぶやくと、アッシャーはむっとして食ってかかった。

「なにさ。ボクの弓の腕はすごいんだよ。10フィートのムース(大型の鹿)も、急所を射抜いて一発で仕留めたんだから」

「じゃあ訊くが、一発矢を当てたぐらいで死なない奴だったらどうするんだよ」

「うん……それは……全速力で逃げるさ!」

 アッシャーはウィンクしながらびしっと言い切った。

「確かに、アッシャーは当てにならないよね。でも、あたしは怪魚がいるなんて思ってないもん。心配ないわ。じゃ、行って来るね」

 そう言うなり、彼女は船から海に飛び込んだ。海中に沈み、そして顔を出したとき、彼女の悲鳴が響いた。

「つ、め、た~いっっっ!!!!」

「そりゃそうだな。12月だからよ」

 あっさり答えたジュリアスの顔を彼女は上目づたいににらんだ。

「わかってんなら、どうして潜って調べればいいって言うのよっ!」

「本気にするとは思わなかったから。提督のほうこそ、気づかないのがおかしいだろ」

 彼女は今度はセレウコスに非難がましい目を向けた。

「セルもなんで止めてくれなかったのよ」

「すみません。気付きませんでした」

 そう言えば、年中タンクトップのセレウコスは寒さを感じない身体をしている。12月の海が寒いと気が付かなくてもいいわけが立つ。

「もう、しょうがない人たちばっかり。こうなったらやけっぱちよ。とことんこの目で調べてやろうじゃないの」

 彼女は息を吸い込むと、身体を沈め、潜水を開始した。海に潜っていると、あがって風にさらされる時より寒さを感じなかった。

 海水が多少にごっているのか、視界がそう遠くまできかない。海底のほうは、海の中なのに霧がかかったようにもやっている。

『変ね。港の中ってわけじゃないのに、どうして水がにごってるのかな。なんか目もちくちくするし……あらっ?』

 彼女は視界のきかない海中で目を凝らした。大きな影が、沖合の方角から近づいてきている。その影は大きくなり、彼女のほうに迫ってきていた。

『ま、まさか……ほんとうに怪魚が!?』

 逃げるまもなく、影は彼女のそばにまで寄ってきた。影の中で銀色の光が無数にひらめき、それは彼女のそばをかすめるように通り過ぎていく。

 影の正体は、ニシンの大群だった。それも、何千尾という規模の巨大な大群が、大きな魚の魚影のような隊列を作って回遊している。

「す、すごいわ……」

 魚群の通り過ぎていく勢いで、海中できりもみ状態に回転しながら、彼女はごぼっと息を吐き出して驚きを口にした。

 それこそクジラ一頭ほどの規模がありそうなニシンの大群は、きちんとした隊列を守ったまま泳いでいたが、急に散開した。何事かと思って彼女が見ていると、ニシンの群れを割って、一頭のシロイルカが現れた。ニシンを狙ってやってきたのだ。

「わあっ、シロイルカだ。こんな間近で……」

 彼女はシロイルカと目があった。手が届くほどの距離に接近遭遇。彼女はシロイルカの鼻面をなでてみた。見慣れない生物にさわられていたシロイルカは、しばらく愛嬌のある目を向けてじっとしていたが、またニシンを追って泳いでいった。

「すっごくかわいいなぁ。いやされるわぁ」

 すっかり和みの表情になって、彼女は一度海面から顔を出した。そして、船に向かってうれしそうに報告した。

「ねえ、今見た? シロイルカがいたんだよ」

「へえ、そうだったんだ。ちらっと白い影が見えたんだけど……いいなあ、ボクも見たかったよ」

「見ただけじゃないよ。さわっちゃった。すっごくかわいいんだよ」

「うらやましいなぁ」

 船縁から身を乗りだして、アッシャーが残念そうな顔をして受け答えた。

「さあて、もう一泳ぎして……あれれ、体が重いわ……」

 もう一回潜水しようとした彼女は、身体がずしりと重くなる感覚に襲われた。身体が震えて、奥歯が細かく打ち合わさって、かたかた音を立てている。

「ねえ、セル。なんか身体が重いの。どうしちゃったのかしら」

「水温が低すぎるのです。今迎えを出しますから、そこでじっとしていてください」

 セレウコスが船員にボートを降ろすように指示した。

 冷たい水の中にいると、体温を奪われ、体力を消耗する。彼女の気付かないうちに、冷たい冬の海水は彼女の体力と運動能力を奪っていたのだ。

 船員たちは船長の指示でボートを降ろそうとして、滑車のロープが絡まるアクシデントに見舞われた。セレウコスがにらむような目を向けているので、船員たちはあせって問題を克服しようとするが、あわててしまってますますロープがこんがらがってしまっている。

「……何をしている。すみません、お嬢ちゃん。もうしばらく待ってください」

 仰向けの状態で海面にぷかぷか浮かびながら、彼女は身体を動かさずにじっと待っていたが、波にもまれているうちに、なんだか感覚も鈍くなってきた。指先が冷たくなって感覚がない。頭のほうも働かなくなってきている。

『このままだと、ほんとうにあたしやばいかも……』

 船員がやっとの事でボートを降ろすまでの間、波の上に半目を開けて揺れ続けていた彼女は、ぼんやりそんなことを考えていた。


 マリアンヌがインフィニティ号に帰還してしばらくのち、測量を終えたカッサンドロスが船に帰ってきた。

「嬢ちゃんや、航路を確保しておいたぞい。それにしても、なんでまたそんなかっこをしておるのかね?」

 カッサンドロスは、甲板の上で木炭コンロの火に当たって暖をとっているマリアンヌに訊ねた。普段着は海水でびしょびしょに濡れたので、暖かそうな服に着替えたのだが、彼女の今のかっこうは、キャメルの毛皮でできた、腕のない二足歩行のなにか。これはドリスの家に泊まったときにアッシャーが借りた『歩ける寝袋』だ。

「海に潜ったら、身体が冷えちゃってね」

「12月だと言うに、なんでまた海に潜ったんじゃ?」

 マリアンヌは海中調査の顛末をカッサンドロスに話した。

「無茶をしよるのう。まあ、なんとかは風邪をひかんと言うから大丈夫じゃろうが」

 いらないことを付け加えた彼にマリアンヌはドロップキックを食らわせた。彼の身体は船縁まで吹っ飛んだ。

「あたたた……身体が冷えているんじゃから、少しはおとなしくしてもいいだろうに。しかし、嬢ちゃんの観察してきたことはなかなか興味深いのう」

 肩から首筋のあたりをさすりながら起きあがって、カッサンドロスは言った。

「海中の見通しが悪いのはおそらく、栄養のある海だからじゃろう。海や川、湖沼には顕微鏡でしか見えないような小さな虫や藻の類がおる。それを小さな魚が餌にし、その小さな魚を狙って、大型の魚や海獣がやってくる。このあたりの海は、魚たちの栄養源がたくさんある、豊かな漁場になりそうじゃな」

 彼は船員のひとりに、地図のファイルをもってこさせた。

「ニシンやシロイルカは北洋の生き物じゃから、寒流に乗ってこのあたりまで回遊してきたと考えられるのう。極北からライコス島(ディカルト諸島最北端の島。現在、グリフヘッド王国の領地)に南下して流れてくる寒流がある。アンシュレクやトゥリアにニシン、たら、サケ、いかなどの漁獲をもたらすと言うことで『母の潮』と漁民たちに呼ばれているものじゃが、その流れがダナン島のほうまで来ておる可能性が高いのう」

 ディカルト諸島周辺の海図をマリアンヌに見せ、海流の動きを指でなぞって見せながらカッサンドロスは説明した。

「じゃあ、このあたりの海に漁師さんたちが入ってきて漁をしたら、アンシュレク島のようにダナン島も海産物が特産品になるかもしれないね」

「そうじゃの。それも、島の南側で行うよりも、こちら側で沿岸漁業を行うほうがよさそうじゃ」

 カッサンドロスはうなずいた。その時、プトレマイオスが大声を上げた。

「おおっ、こいつはいいぜぇ。お嬢、おめえら、見やがれぇ」

 満面の笑みを浮かべたプトレマイオスは、巨大なかごを抱えていた。その蓋を開けてみると、かごの中には、あふれんばかりに大きなかにが入って、足をわさわさ動かしていた。

「わあっ、すごい」

 マリアンヌはびっくりした声をあげた。量もさることながら、一ぱいのかにの目方が半端じゃなく大きい。小さいものでも足を広げた大きさが2フィート。大きいものになると4フィートになるものまでいた。

「釣り上げたスケトウダラを餌にして、かにかごを沈めてみたんでえ。きっとかにかロブスターがいるんじゃねえかと思ったんだけどよ、ここまでわんさか入ってるとは俺様も思わなかったぜぇ」

 プトレマイオスは得意そうに言い、さっそく、生きているかにの足を一本引きちぎって、新鮮なかにの刺身を食べた。

「うめぇぇ~」

「提督、これブルーム・クラブだ。トゥリア島の一部の漁場でしか取れない高級食材だよ。おいしくないはずないよ」

 アッシャーが動いているかにをひとつつかんで言った。

「ねえ、みんなで食べようよ。コックさんに調理してきてもらって。あたし、その間に着替えてくるから」

 そう言って、マリアンヌは再び自分の個室に引っ込んだ。船員が二人がかりでかにかごを持ち、かにを調理室に運んでいった。

 十分あまり経過して、彼女が着替え終わって甲板に出てくると、ゆでたかに、炭火で焼いたかにが甲板に並べられていて、すでにそれに食いついている船員たちもいた。

「遅かったね、提督」

「もう、ずるーい。みんなで先に食べてるなんて」

「大丈夫。ちゃんと提督の分も取ってあるよ」

 アッシャーは彼女に、ゆでたかにの足肉を皿に取っていた。それも大きなところだ。甘いかにの香りが漂ってきて、彼女はよだれがこぼれそうになった。

「いっただっきまぁーす」

 彼女はつばを飲み込んで、ゆでがににかぶりついた。ぷりぷりした食感のかに肉の歯触り、肉の間からわき出てくる芳醇な肉汁、口一杯にあふれ出て鼻から抜けていきそうな風味に、彼女は完全にノックアウトされた。顔面どころか、身体中の筋肉が弛緩してしまいそうなうまさで、目から口元からだらしないほどゆるんでくる。

「おいしーい! もうそれしか言えない!」

 彼女は思わず叫んでしまった。

「お嬢ちゃん、鼻水たれてますよ」

「え? あ、ほんとだ」

 セレウコスに指摘されて、彼女はシャツの袖で鼻の下をぬぐった。

「はな垂れ小僧みたいなかっこうをしては美少女提督が形無しじゃよ」

「いいじゃん。それより今度は焼きがに食べたい」

 はしたないかっこうを注意したカッサンドロスを軽く受け流して、彼女は焼きがにのほうに手を伸ばした。もうすでに、目がかにになっている。すっかりこのブルーム・クラブの虜になってしまっているようだ。

「もう最高だわ、このかに。これがもし島の名物になったら、それだけでもこの島に来る理由があると思うな」

 焼きがにをはふはふ言ってほおばりながら彼女は、またゆでたかにの足をつかんだ。

 インフィニティ号はしばらくかにパーティで盛り上がり、航海士も船員も誰もがかにを堪能した。何はいもあったかにはすべて殻と化してしまった。

「しかし、これだけの豊かな漁場に人がまったく来ないのは、不思議と言うよりむしろ不気味じゃのう。なにゆえ、ここに人が来ないようにしておるのかのう」

 食後に白湯を飲みながら、カッサンドロスがふと疑問を口にした。

「怪魚のうわさのことか」

 セレウコスが訊ねると、カッサンドロスは「うむ」とうなってうなずいた。

「嬢ちゃんの話でも、プットが短時間であげた漁獲からしても、ここは手つかずの豊かな漁場とわかる。もし、うわさにあるような巨大で凶暴な怪魚がおるとしたらこうはならんじゃろう。すべてその怪魚に食い荒らされて、ペンペン草も生えんようになっておるはずじゃ」

「なるほど。いもしねえ怪魚がいるって言ううわさの出所が総督府からだとすると、あのちょび髭野郎が意図的にうわさを流した……ってことも考えられるわけだ。あいつが何をたくらんでそうしたのか気になるな」

 ジュリアスがあごのなでながら言った。その時、

「提督、みんな、あっちを見てよ」

 アッシャーが双眼鏡をのぞきながら島のほうを指さした。

「なにかあったのか」

 セレウコスが訊ねると、アッシャーは眼前にある半島の一点を指さした。山脈から尾根が海にせり出してきたような地形のこの半島は、こんもりとした山になっている。彼が指さしているのは、その山の頂上付近だ。

「何があるの。よく見えないわよ」

「よーく目を凝らしてみて。煙が上がってるんだ」

 アッシャーに言われて、マリアンヌはじいっと目を凝らして観察した。確かに、山の頂上付近から、一筋の煙が上がっているのが見えた。ただ、注意しないと見えないほどかすかにだが。

「海には怪魚がいるってうわさだったし、山には人喰い熊がいるってうわさがあるよね。だから、島の人たちは島の北側には行かない。じゃあ、なんで煙が上がっているのかな。人がいるって証拠だよ」

 アッシャーがそう言うと、マリアンヌたちの表情が変わった。

「嬢ちゃん、煙は山の向こう側から上がっているようじゃな。あの山の向こう側に、なにかあるのかもしれんぞい」

「おい、あっちを見ろ! 山の中からも煙が上がってるぜ」

 ジュリアスが、島の山脈の一点を指さした。ジュリアスが言わなければ絶対に気が付かないほどうっすらだが、半島と尾根が続いている山々の一点から、ほんのかすかに煙が上がっている。

「人がいる場所が二ヶ所もあるのね。これはもう、調べてみるしかないわ」

 マリアンヌが言うと、航海士たちはうなずいて同意した。

「お嬢ちゃん、この半島の向こう側は、船を乗り入れることのできる入り江になっていると見ました。煙の出所を確かめるためにも、船をそちらに動かしてみてはどうでしょう」

「セル船長、そいつはよくねえぜ」

 セレウコスの提案にジュリアスが首を振った。

「オレもあそこは入り江になっていると見ている。だけど、そこはきっと何者かの船着き場になっているんじゃないかと思うんだ。もしオレの予想通りだとしたら、半島から昇った煙はきっと、その船着き場を守るための砦かなんかから出た煙だ。海軍にいた頃、味方の前哨基地や海賊どもの基地はそんな形になってた」

「ねえ、ジュリアス。もしかしたら、海賊が基地を作っているって言うの?」

 マリアンヌが訊ねると、彼は首を縦に振った。

「海賊か、それに準ずる奴らだ。昨日オレが見つけた入り江に、このあたりじゃ見慣れねえチキンハートの瓶を見つけたときにふと思ったんだ。裏で出入りしている船乗りなら、こいつをこの島に持ち込めるだろうとな。そいつらがあの入り江に上陸して、間道を使って島に入り、ちょび髭野郎と連絡を取っている……。証拠はねえけどな」

「でも、海賊がこんな辺境の島に来てどうするのさ。島に来るのは定期船くらいだし、それが襲撃されたっていう話はないでしょ」

 アッシャーが否定的に言った。彼の言うことはもっともだ。襲撃と掠奪を行う海賊が、貧しくて商船もろくに来航しない、そんな収益が一番あがりそうにないダナン島に巣くうことは考えられない。

「確かにの……。じゃが、山脈の中から煙が上がっておることからすると、わしはジュリアスの予想が正しいと思うぞい」

 カッサンドロスがそう言って、口ひげを指先でひねった。

「海賊のする仕事はなにも掠奪だけとは限らん。たとえば、密漁や密貿易と言ったことも考えられる。山の中にも人が入っているとなると、なにかそこに収入源となるものがあり、入り江はその積出港になっておる……と予測できるのう。それがなんなのかは調べないことにはわからん」

「考えてたってはじまらねぇぜぇ。この目で確かめて見りゃいいじゃねぇか」

 プトレマイオスが野太い大声で言った。海賊かなにかがいると聞いて、彼は暴れたくてしょうがなくなっているようだ。

「そうね。じゃあ、上陸しよう。じいさんが測量してくれたわけだし、あの入り江に船を乗り入れたらいいわ。セル、おねがいね」

「承知。航行を開始する。抜錨開始。フォアマストのメーンスルを開け」

 セレウコスは船員たちに指示を出した。インフィニティ号はゆっくりとしたスピードで、半島の陰に隠れるように移動した。


 船を停泊させた入り江は、大型船でも十分停泊できるほどの水深があった。岸辺から40ヤードほど離れた海上で投錨し、マリアンヌたちは島の北海岸に上陸した。

 ここの海岸は、なめらかな石がごろごろ転がっている浜で、ところどころ大きな岩が海岸線に突き出ている。崖のような山肌が海岸のすぐそばに迫っていて、その山肌から、まばらに松の木が突き立っている。

「この山の向こう側に、人のいる形跡があるのよね」

 先ほどまで眺めていた半島を指さしてマリアンヌが言った。この位置からは煙が見えない。人跡の正体を確認するためには、ここから山を登っていく必要があるが、急峻な山肌には、そう足がかりになるところが見つからない。

「あそこの藪のあたりが足がかりになりそうだね。尾根に続く谷になっていて、急だけど登れなくはなさそうだよ」

 アッシャーが海岸の一角を指さした。そこは低木が茂る藪になっている。

 その藪の中から、急にピクルスが飛んできた。

「わっ、びっくりしたぁ。あれ、なにかくわえてる」

 ピクルスが口になにかをくわえているのを見て、マリアンヌはそれを取り上げてみた。それは乗馬用のゴーグルだった。

「ねえ、アッシャー。これって……」

「これは……間違いない、ドリスさんのゴーグルだ」

 ピクルスのくわえてきたゴーグルを丹念に確認したアッシャーは、自ら藪の中に入っていった。マリアンヌや航海士たちもあとに続いて、藪に分け入った。

 低木の陰に、一丁の大型ボウガンと数本の矢が落ちていた。矢は散らばって落ちているが、地面に突き刺さっているものもある。よく見ると、落ちていると言うより、規則的に置かれているようだ。

「これはバニパル=シンジケート傘下の兵器工房が作っている『スティンガー』。ドリスさんが使っているボウガンだよ。間違いない、ドリスさんはこのあたりにいたんだ」

「しかし、その女はどこにいるんでぇ。みあたらねえぜぇ」

 プトレマイオスがきょろきょろあたりを見渡しながら言った。

「わからない……でも、みんなこれを見て」

 アッシャーはボウガンの周りに散らばっている矢を指し示した。

「これはハンティングの時のサインなんだ。先に偵察に入ったとき、どの方向に群れがいるとか、それを知らせる暗号なんだよ。えっと……『北東1マイルにハザード、東方4マイルに獲物の群れ』だって」

「……なんのことかわからねぇな。なんだよ、ハザードだの獲物の群れだのって」

 ジュリアスが腕を組んで首をひねった。

「ハザード……つまり障害物となるものがあり、もう一つ、獲物の群れ……なにか資金の種になるものがある場所、もしくは重要ななにかがある場所と見ていいかもしれんのう」

 カッサンドロスがあごひげをなでながら言うが、思案しながらの答えだけに、はっきりとしたことは言えなかった。

「ドリスさんはどこにいるのかしら。サインだけ残してどこかに行ってしまったのか。それとも……」

「敵対する何者かに拉致された、と見たほうが良さそうです」

 セレウコスが言い、海岸で拾ったひとつの石を手にとって、マリアンヌたちに見せた。

「この海岸の石とは違う質のものです……人為的に削られた形跡があります。おそらく、小型のカタパルトか艦載用の弩砲で使う石製の砲丸でしょう。それに、海岸にわずかですが、木片らしきものが浮かんでいました。ここで何らかの武力行使があった、かと……」

 セレウコスの言葉を聞いてアッシャーが青ざめた顔になった。

「まさか、ドリスさんは……」

「……周辺に血痕はない。傷つけられたわけではないだろうが……敵の手に落ちたと見ていいだろう」

「生きて……いるよね……」

 アッシャーの声は震えて、消え入りそうになっている。

「大丈夫だって。きっと大丈夫。悪いことばっかり考えると気力がなくなるよ」

 マリアンヌがアッシャーの背中をばしんと勢いよく叩いた。アッシャーは相当痛かったのか、顔をしかめてその場を飛び跳ねた。

「どっちにしろ、サインの場所を確認しなきゃな。少人数で偵察した方がいいだろうぜ。多人数だと動きが鈍くなるからな」

「わかったわ、ジュリアス。目標は二ヶ所だから、二手に分かれるといいわね。この、東にあるちょっと離れたところには、山歩きに自信のある人がいいよね。誰か自信ある人いる?」

 彼女が呼びかけると、アッシャーとジュリアスの二人が手を挙げた。

「ボクは結構平気だよ。スポーツハンティングやってたから、山歩きも慣れてるんだ」

「海軍時代、陸軍の連中と山中行軍の演習をやったことがある。陸上作戦や偵察の経験もあるぜ」

「じゃあ、二人がこの『獲物の群れ』を偵察してきて。そうね、五人ほど船員を偵察隊に組み入れるわね。それと、ピクルスもつれていって、なにかあったらあたしまで連絡してね」

 彼女はピクルスを抱きかかえて、ジュリアスに渡した。ピクルスはジュリアスの身体をよじ登り、ぼさぼさ頭の上に腰を落ち着け、しっぽを持ち上げてぷすっと一発放屁した。

「なんか腹立つな。このドラゴン」

「気にしないで」

「……さっそく出発するぜ。なにかあるといけねえ、ピストルボウガンは装備しておけよ。……おい、アッシャーのバカはどこに消えやがった」

 アッシャーの姿が見えなくなっていたので、ジュリアスは苦虫をかみつぶした顔になった。すると、藪の陰から、迷彩服に着替えたアッシャーが姿をあらわした。

「偵察行なら、それなりのかっこうをしないとね。さあ、急がないと日が暮れてしまうよ」

「てめえを待ってたんだよ、バカ」

 アッシャーとジュリアス、五人の船員で構成された偵察隊は、谷間の斜面をよじ登るようにして、山の中に潜っていった。

「もう一つの『ハザード』のほうの偵察隊を編成しなくちゃ。これはあたしが行くわ。プットとじいさん、ついてきて」

「おう、なにかあったら俺様が守ってやるぜえ」

 プトレマイオスが土手っ腹をぼんと叩いた。

「プットに山登りができるかちょいと不安じゃがのう。まあ、1マイルほどの道のりならたいして時間もかかるまい」

「そうね。セルはここでキャンプを張って、留守番を頼むわね」

「承知」

 マリアンヌはプトレマイオスとカッサンドロス、それとボウガンを装備した船員五人と共に、先ほどアッシャーたちの登っていった斜面をよじ登っていった。


 海岸からよじ登っていく最初の山道は急峻だったが、谷間を通り抜けて尾根沿いに丘に登っていく道はどちらかというとなだらかな道で、マリアンヌたちの偵察隊はすんなりと、木々の間を分け入って前に進んでいった。

 このあたりは、米松や赤松などの松の木が直立している。人の手の入らない林なので、幹のしっかりした松の大木がそこらに生えている。倒木や岩にはコケ類がむしていて、時期が違って実を生らしていないものの、ベリー類の低木もある。このあたりの森林は豊かな森のようだ。

「赤松が生えておるのう。きっと、時期が来れば松茸がそこかしこに生えてくるかもしれんぞ。ほら、生えたあとがある」

 カッサンドロスが赤松の根元から、傘の開ききって乾燥しかけた松茸を指さした。

「おお、松茸じゃねえか。お嬢、まだ生えてるかもしれねぇ、松茸狩りしようぜぇ」

「さすがにもうないってば。でも、秋になったら松茸がたくさん生えるんでしょ。きっと、これも島の特産物になるんじゃないかしら。松茸、おいしいもん」

 食いしん坊のマリアンヌはすぐに秋の味覚に目を付けた。

「松茸ばかりではないのう。この松自体、切り出せば優良な商品になる。松材はやに質じゃから、船の資材に適しておるのじゃ。見る限り、この山々は松やカシ、アオダモといった木材が豊富なようじゃ。木こりが入ったり、育林の技術が入れば、林業がこの島の産業になる可能性は高いのう。なんと言っても、海洋国家ディカルトにとって船の建材が手に入ることは何にも代えがたい」

 すぐそばに生えていた赤松の巨木をさわりながらカッサンドロスが言った。

 偵察隊はそこから丘の頂上に向かって歩き出した。太った体格のプトレマイオスが、意外なほど身軽に山を歩く。彼が先頭に立って、行く手をさえぎる藪やツタ、カズラなどを手斧でばっさばっさ切り倒していくので、ついて歩くマリアンヌたちはわりと楽に山中を進むことができる。

 やがて、半島にそびえる小高い丘の頂上に彼女たちはたどり着いた。

「煙が上がっておるのはあちらのほうか。ここからならよう見えるわい」

 カッサンドロスが半島の東斜面、マリアンヌたちが船を停泊させてる入り江の反対側を指さした。見下ろすと、この方向にも懐の深い入り江がある。彼の言うとおり、煙が上っているのが、海の上から見るよりはるかにはっきり見える。ただし、森林が視界を阻んでいるので、煙の出所がどこなのか確認できない。

「もう少し進んでみなきゃいけないわね」

「うむ。じゃが、ここからは慎重に進まなければいかん。何が待ち受けているかわからんからの。プット、ここからは道を造るのは控えよう。万一、敵に見つかったとき、追っ手に道を与えることになりかねん」

「心配するねぇ。何がやってきたって、俺様が残らずぶっ飛ばしてやるぜぇ」

 プトレマイオスはそう言って、厚い胸板を手でぼんと叩いた。

「頼もしいね。でも、ここはじいさんの言うとおり、見つからないように慎重に進んだ方がいいわね。じゃあ、みんな、ゆっくりこっちに下りるよ」

 今度はマリアンヌが先頭に立って、煙が出ている方角に向かって、慎重に歩を進めて斜面を下っていった。藪やカズラがからんでくるが、それらをロープや足場代わりにして、そしてなるべく身体を低くして先に進んでいく。

 煙の立っている地点にかなり近くなったとき、彼女は斜面を下って、目の前にあった藪に捕まろうとした。

「きゃっ」

 彼女は思わず悲鳴を上げた。いきなり足元の地面が消えたからだ。藪の根本から先は、崖のように切り立った急斜面になっていたのだ。

「あぶねえ、お嬢」

 バランスを崩して滑り落ちそうになった彼女の首根っこをプトレマイオスが捕まえて、山に引き戻した。

「提督、見てください」

 船員のひとりが、藪の切れ目から、真下を指さして彼女に言った。彼女は船員の指し示したものを、顔を突き出して見てみた。

「なんてこと……ほんとに砦だ」

 落差が40ヤードはある急崖の下は、丘の中腹のなだらかな斜面になっている。その斜面の一部が平らに均されていて、木材の塀で囲われた小さな砦になっていた。塀の中には、何棟かの木造の建物が建っている。また、砦の門と、海を見下ろすのに有利な位置に見張り台が設置されている。

 そこからさらに下ったところには入り江があり、浜辺に三艘ほど、一本マストの船が陸揚げされている。スループと呼ばれる快速船で、機動力を生かして襲撃する海賊たちに好んで使われる船だ。

「ジュリアスの予想通りだったね」

 マリアンヌは小型の望遠鏡で砦の中をもっとよく見てみることにした。

 砦の中を歩いている人数はそれほど多くない。見張り台の上に、二人一組で四人。塀の中を動き回っているのは十数人。見たところ、賊兵の数は20人に満たない。ただ、素人同然のちんぴらではなく、見るからに顔つきが凶暴で猛悪な、年季の入った海賊たちのようだった。

「海賊の砦とは、腕が鳴るじゃねえか。お嬢、いっちょ暴れ込んでやろうぜぇ」

 海賊の砦と知って、プトレマイオスが喜び勇んで彼女に言った。腕がうずうず鳴ってしかたないのだ。それに、鬱憤がたまっているので暴れたくてしょうがない。そんなことが彼の顔に書いてある。

「この人数じゃ無茶よ。今は我慢して」

 彼女は彼をとどめた。彼はつまらなさそうな顔になった。

「砦の規模としては小さいのう。ここは、海賊たちが船隠しの港として使っとるこの入り江を見張るためのものじゃろう。とはいえ、賊兵どもの根城であるわけじゃから、立派な『ハザード(障害物)』じゃ」

 望遠鏡で砦の様子をつぶさに観察しながらカッサンドロスが言った。

「小さいとはいえ、壁や門の造りはなかなか頑丈そうじゃの。力攻めでは損害が大きくなる可能性がある。プットやジュリアスなんかが攻撃を提案するじゃろうが、下手に攻撃をかけんほうが得策かもしれん。それより、あっちのほうが重要じゃ」

 彼は砦から目を離して頭を上げ、今面している入り江の奥から、さらに内陸に進んだ山岳地帯から昇っている煙の方向を指さした。

「あれが、サインに示された『獲物の群れ』、つまり海賊どもにとっての重要拠点となるものじゃ。それがなんなのかは、偵察に行っとるアッシャーとジュリアスの報告を待たんといかんがのう」

「うん、そうね。情報を集めた後で、これからどうするかを考えなくちゃ」

 マリアンヌは山岳地帯のほうに目をやった。そちらのほうから、鳥の群れが海に向かって飛んでいくのが見えた。魚を餌にする鳥たちだろう。

 その鳥の群れの中に、一羽だけ緑色の鳥がいた。その一羽が、群れを離れてマリアンヌたちのところにやってきた。

「あ、ピクルスだ。なんだろ……メモをくわえてきてるわ」

 ピクルスは口にメモ用紙をくわえて飛んできていた。彼女はそれを手に取り、目を通してみた。

「手がかりを拾った、至急合流したい。だって」

「うむ。丘を下りたところが、わしらの隊とアッシャー、ジュリアス隊の進路の分岐点じゃ。いったんそこまで戻ったほうがいいのう」

 マリアンヌたちは、もときた道を引き返すことにした。プトレマイオスが道をつけていたことにくわえ、迷いやすい地点には、カッサンドロスが木の枝に端切れを結わえ付けて目印を付けていたので、道に迷うことなくすんなり帰ることができた。


 分岐点で待ち受けていると、アッシャーとジュリアスが戻ってきた。

「ご苦労様。あれっ、だれか怪我したの?」

 彼らと共に偵察に行っていた船員が二人がかりで、ひとりの男を担いでいた。インフィニティ号の船員ではない見知らぬ男で、ぼろぼろになった作業服を着ていて、全身にひどい怪我を負っていた。息もかすかだ。

「偵察に向かった山中で見つけた。怪我をしている上に、何日も飲まず食わずだったらしい。相当衰弱している。水をやったけど、脱水症状を起こしていてなかなか飲まなかった」

 ジュリアスが説明した。

「じいさん」

「わかっとる。応急手当は迅速が肝心じゃ」

 船医であるカッサンドロスがさっそく怪我人の服を脱がし、全身の怪我の具合を診察した。

「全身にひどい打ち身がある。坑道で落盤に遭ったような傷じゃの。それと、切り傷が化膿してきておるの。なによりも、衰弱状態なのが一番いかん。手持ちの薬で傷はなんとかなるし、湿布もできるが……だれか、キャンプに戻って、なにか食い物と蜂蜜を取ってきてくれんかの」

 船員のひとりが、谷間の斜面を下りてキャンプ地に向かった。

「プット。ネルソンズブラッドを一瓶わしにおくれ」

「おう」

 プトレマイオスはデカパンの中に手を突っ込んで、ネルソンズブラッドのボトルを取り出し、カッサンドロスに渡した。

「なんかほかほかしとるのう……。まあよいわ」

 彼はそのボトルを開けると、怪我人の傷口に振りかけた。ネルソンズブラッドはアルコール度数が高いので傷口の消毒にも使えるのだ。

 消毒したあと、彼は怪我人の傷口に膏薬を塗り、晴れ上がった打ち身の部分にはバルサム油(天然メンソールの植物油脂)を塗りつけ、包帯で巻いた。

 手当の最中も終わっても、怪我人は意識の遠のいた状態だった。

「そろそろ、気付けをするか」

 彼は怪我人の口の中にネルソンズブラッドを少し流し込んだ。アルコールの高い酒は気付け薬になる。怪我人は意識を取り戻した。

「どう、大丈夫?」

 マリアンヌが心配そうな顔で男の顔をのぞき込むと、男は薄く目を開けた。

「う、うう……ここは……。あんたたちは……?」

「山の中で倒れていたからここまで連れてきた。大丈夫か」

 ジュリアスが彼に言った。彼はまだ頭がぼんやりしているようで、首をかすかに動かしながらかすかにうなり声をあげるだけだった。

 キャンプ地に戻って、食料を取ってきた船員が帰ってきた。

「さあ、これを食べて元気を出して。ゆっくり食べなきゃおなかがびっくりするよ」

 マリアンヌは男に、蜂蜜を塗ったパンを渡した。男はぼんやりした目で少しの間パンを見ていたが、やがて一心不乱に食べ始めた。そして、渡された水筒からごくごく音を立てて水を飲んだ。男の顔に少しずつ生気が戻った。

「ねえ、君はどこから来たんだい? 君は山道から離れたところで倒れていたんだけど、いったい何があったんだい」

 食事をしてある程度元気の出た男にアッシャーが質問した。

「俺は……逃げてきたんだ。金鉱から」

「金鉱だって?」

 アッシャーがびっくりした声で聞き返した。

「ああ。俺は……もう一年近くなるかな……いい働き口があるって誘われて、船に乗せられ、ここに連れてこられて、ずっと穴の中で金を掘らされ続けていた。毎日毎日、石を掘り返した。飯は粗末で、しかも住まいはタコ部屋にすし詰め。周りは、みんなだまされて連れてこられた奴とか、犯罪を犯して連れてこられた奴らさ」

 男は水筒の水をぐびっと飲んだ。

「金山の敷地は高くて頑丈な柵に囲まれていて、しかも強面の奴らが十数人、いつも見張っていて逃げられない。逃げようとしたり、奴らに逆らおうものなら、見せしめに殴り殺される……俺も、そうやって殺された奴を何人と見てきた……」

「ひどい……」

 マリアンヌはうめくように言った。

「坑道で作業してたら、急に天井が崩れやがって……仲間が何人か下敷きになっちまった。俺はなんとか這い出ることができたが、そのとき、崩れたあとから外の光が見えることに気がついた。俺は自由になりたくて、そこからなんとか抜け出した。そのあと、山の中を何日も歩いて……あとは覚えてない」

 男の話は終わった。マリアンヌ以下一同はその話を息を飲んで聞いていた。

「金鉱があったとはのう……隠し金山じゃな」

「強面の奴らって言うのは海賊の兵隊に違いねえな。海賊が金鉱の経営をしてやがるのか」

「この島には鉱産資源は埋蔵されていないって話だったんだけど、それはうそだったんだね。総督が隠してたんだ」

 マリアンヌはその場にすっくと立ち上がった。木々の間から見える空はもうだいぶん暗くなっている。夕暮れ時になっていたのだ。船員がランタンに火を入れた。

「いったんキャンプに戻ってセルやほかの船員のみんなと合流するわ。そのあと、この人の言った金鉱に向かうわよ」

 彼女は怪我人の男のほうを向いた。

「大丈夫、歩ける?」

「ああ、なんとか歩ける」

 そう答えた男に、彼女は頼んだ。

「おねがい。金鉱の場所まで案内して」



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