形而上の愛

羽衣石ゐお

形而上の愛

はしがき

 〇

 鬱蒼としたブナの回廊を歩いていると、ふといっそう仄暗くなって、葉音交じりに雨が追いかけてくるのに気付いた。次第に、雨脚は葉を踏みつけるようになると、太く、白い軌道で私を打つのだった。

 私は、走った。この回廊を抜けようとした。しかししばらく駆けるも、先は続くのだった。

 ――そして遁走の果てに、左方の木々が薄くなっていくと、その間隙に、一軒の四阿あずまやを覗かせた。私は心弛びして、無理矢理に、その木々の隙に身体を捻じ込ませると、野放図な叢を、泳ぐようにして渡った。

 いよいよその四阿にたどり着くころ、綿生地のワイシャツには、ちぎれた花弁や葉身がべっとりと張り付いていた。

 四阿は、石畳の上に建てられていた。石畳を黒く染めながら奥に進むと、長く伸びた腰掛はコの字をとっていて、そのあちらこちらに、割れや、蜘蛛の巣や、滲みをつくっていた。もちろん、このようなところに人の姿は見受けられず、私は腰掛のど真ん中に腰を沈めた。チノパンを履いた臀部に冷たさを感じ、私は、ふえっ、と間抜けな声を漏らした。誰もいないというのに、酷く頬が上気していくのがわかった。

 とくにするようなこともなく、身体をのけぞらせて、屋根の下から見やった空に、一切の雲はなく、しばらくもすれば雨はやむだろう、と安堵するとともに、ふと視線が落ちた。とにかく、疲れていた。脱いで石畳にほっぽった、痛んだ黒の革靴からは、絶え間なく雨水がしたたり落ちていて、それが石畳に吸われていく様を呆然として見ていると、私の瞼は縫われていく――。


 〇

 長い夢から覚めたような心地だった。胸に蟠りを残しながら、しかし何も覚えておらず、乾いた身体だけが、夕刻に取り残されていた。やはり、雨雲は何処か遠くに吹き飛ばされてしまっていて、斜陽の橙赤色が、叢を、四阿の柱を、柱に掛けられた革靴を、そして――ひとりの女性を縁取っているのだった。髪を胸あたりまでおろし、薄花色のワンピースを召した女性は、腰掛に座して、水筒の蓋に注いだものを口に運んでいた。他に、何をしているのかと訊かれれば、それは、ただ遠くを見つめているようにもみえるのだった。

 逆光を受けた、その女性の顔は焦がされてしまったように黒い。その後光に、私はまともに顔を見つめることも儘ならず、溶けてしまいそうな目を伏せた。

 すると女性は、「ここは貴方のベッドだったりするんですか」とからかうように訊ねてきた。

「いや。私は、散歩の途中に豪雨に見舞われてしまい、偶然ここで雨止みを待っていたら眠りこけてしまっただけの、ただの、高専生だ」

 回答としては少しずれているような気がしたが、否定は出来たから良しとしよう。

 すると、彼女は口元に手を添え、ふふ、と微笑みを溢し、

「そうなんですか。じゃあ、あんまりここらへんには来ないんですか」と、新たに問うてきた。

「そんなことはない。学校の裏手だからよく来る。それに、好きだからね、自然が。――越してきて間もないころは僻地だとか馬鹿にしていたのだが、まあ、正直私には街中よりもこっちのほうが性に合っているようだね。高専生のくせにネットを全く使わないから、田舎者だなどと揶揄されるぐらいには」

 私が笑ってみせると、彼女も、ふふふ、と大変可愛らしく笑い声をたてた。しかし、その声に追随する表情は未だ隠れたままだった。

 すると彼女はまた、ふふ、と笑い、

「花びら、肩についていますよ」

 と指をさしてきた。

「どこだろうか」

 私があたふたしている間に、彼女は腰を上げ、素足が通された白色のフラットサンダルをゆっくりと鳴らしながらこちらへとやって来て、首のつけねあたりに乗った一枚の花弁を細い指先で摘まみ、こちらに見せてきた。「その辺に生えている、菫ですね。ふふふ」と。

 そう言って、彼女は花弁を落とした。それは力なく風に呑まれて消えてしまった。

「あの、」

 という彼女の呼びかけに、花弁を追い求めていた視線を持ち上げて。

 ようやく、彼女の面貌を目にすることができたのだった。

 

 ――雨止みの後の冷涼な風に靡いて、斜陽に煌めく亜麻色の髪。雪さえもくすんで見えてしまうほどの醇乎たる肌。抱きしめたら拉げてしまいそうな細く、丸い肩。

 とにかく、彼女の美しさといったら、こうだ。――口をきけなくなるぐらいの美しさ。

 私は喉元にナイフを突きつけられたような動悸と眩暈に襲われ、まともに立っているのでさえも難く、呼吸が自然と早くなっている。きっと、今の私の顔は酷い阿呆面だろう。うまく呼吸が出来ずに口端をひくつかせ、目は瞬きを忘れたように見張っている。

 糅てて加えて、彼女と目が合ってしまった。もう、駄目だと思った。私は平然を装おうと、息をゆっくりとのむと、たった今花畑に囲まれているような、青々とした香りが私の気概を易々と打ち砕いた。ヘーゼル色の双眸の澄みようといったら、もう、こんな作り物の平然など、全て見透かされてしまっているのだろうと、それは、もう、狼狽した。

「あの、」

 と、先と変わらない筈の声が、耳の奥を強く掻き毟った。まるで耳元で話しかけられているのではないかと勘違いをしてしまった。それぐらい、彼女の声は細く、通るのだった。


「私を……見たことはありませんか」


 おかしな物言いだった。まるで、過去に会ったことがあるような。まるで、彼女は私と、再び巡り合えたような、そんな、儚げなニュアンスだった。

「あ、いや。きっとない。……第一、貴女のような人を見たら生涯忘れることはないだろう……」

「そうですか。……え?」

「いや。なんでもござりませぬ」

 声が思わず上ずってしまった。どうしてくれよう。普通に話そうとしても、かえって緊張して上すべりしてしまうではないか。

「あ、そうです。貴方に一つ言っておきたいことがありました」

「なんだろうか」

「ごめんなさい。しばらく貴方に不自由な思いをさせてしまうかもしれません」

 彼女はそう言い残して、数メートル先に架けてある小橋まで走った。すると彼女は、小橋の上でこちらへと振り返り、「また明日!」と返事もまたずに去っていってしまった。私はそれを、ぼーっと見ていた。ああ、これはきっと夢なのだろう、と。

 それでも、もしかしたら。という気で、少し早い十五秒を数えてから、腰掛の上から手を伸ばし、柱に立てかけられた革靴を取り、足を通して、彼女の後を追った。すると、彼女は、豆粒のように小さかったが、足を止め――こちらをみていた。目が合ったような気がした。私は気付かなかったふりをして、くるりと迂回して寄宿寮へと足を向かわせた。

 あたりはすっかりと焦がれ、更に斜陽は傾きを大きくしていた。しかし私にとって、この西日よりも、彼女のほうが赫灼たることは確かであった。


 〇

 山を切り崩した高台の上に、学校はあった。麓の郵便局から坂に足を掛けると、徐々に傾きは険しいものになり、それをひとしきり上ると、『市井野いちいの工業高等専門学校』という看板の先に、またぞろ急勾配がやってくる。それをも越えると、ようやく学校の正面口だった。

 私は、背伸びをした。疲れが抜けていくようで、しかし蟠りが残ったままであった。

 ひょいと高台から、崖下を見下ろした。あたりはすっかり暗んでしまっていた。ここら一体の盆地は今、その殆どが青藍に茂った稲畑で、少数の民家が心もとなく灯っている。

 市井野の夏場は高温高湿、冬場は雪を背丈ほどにも降り積もらせるのだった。

 そして今年は、七月の半ばごろになっても梅雨は明けていない。さっきみたく驟雨がやって来て、今のような雨間に星々をみせることは至って珍しいのだった。


 〇

 寮の三人部屋で、分析化学の問題を関数電卓片手に解いていると、ふと、スタンドライトに煩わしさを感じた。先程までは、ただ、同室者が寝るときに消した蛍光灯の代替品としか思っていなかったものの、しばらくこの灯の下でルーズリーフに数式を書き連ねていくにつれて、曲がってきた対向車がハイライトだったときのような、子供の頃に見たら駄目とわかっていながらも太陽を見てしまったときのような、途端、著しく、不快なぐらい強い明るさを感じて、思わず、目を瞑らずにはいられなかった。――瞼の裏側には、灯を被っていた物体の輪郭が赤紫色に取り残され、それらはやがてぼんやりと滲み始めて、瞼の外に出ていった。

 再び目を開けると、煩わしさは無くなっていた。機会があれば、明るさを調節出来るものを買おう、と決心しながら、ルーズリーフを教科書に挟み、それをバッグに入れ、灯を消して布団に入った。

 何か、手元に当たっている。なんだろうか、と思ってそれを掴むと、それがスマホだということに気付いて――無意識的にパターンを解除していた。

 昨年、市井野花火へデートに行ったときの早百合さゆりが、微笑んでこちらに手を振っている。しかし、にやけることなども出来ずに、ステータスバーの便箋をタップした。新着のメールは一通で、学校の情報処理センターからだった。……二時半なんて、随分夜分遅くではないか。などと文句を垂れながら、そのメールに目を落とした。

 

『二〇一九年七月十五日月曜日 by:Unified-One.

 Subject:Your password will expire soon.

 市井野工業高等専門学校総合情報処理センターよりお知らせします。

 高専共通システムに登録されているパスワードの有効期限が近づいています。あと二十日です。パスワードを変更してください。

 有効期限が切れた場合、ログインが出来なくなります。


 パスワードの変更は、市井野高専認証サーバ

 https://douyathsy.itiino-ct.ac.jp\iumus/にて行ってください。』


 それを半ば流すように読み終わって、大仰なため息を吐いた。このメールは二か月ほど前から一週間に一通ほどの頻度で来ていた。しかし、日々の疲れや、まだ日にちがある、という変な余裕から無視をし続けた。そして期限が二十五日を過ぎてからは、毎日来るようになってしまったのだ。まあ、近日中にでも変えることにしよう。――電源を落として、寝ることにした。

 画面の輪郭が、しばし瞼を浮遊し、すっと抜けていった。


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