満月と皆既月食と惑星食と

「見てください、月真っ赤っすよ」


 後輩は私の隣でそう言った。夜空にどっしりと構える月は、欠けているはずなのに消えていなくて。そして、そんな赤い月はいつもと変わりない柔らかな光で、私たちを照らしていた。


「皆既月食ってほんとに真っ赤になるんだ。なんか言ってよね、惑星食? とも同時なんだっけ」

「そうでーす」


 天王星っすね、と言いながら、後輩は空を見上げる。しんみりした横顔はまるで秋の夜空みたいで、この夜から月の光が消えたら、溶け込んで空の一部になってしまいそうだった。


「なんか、美味しそうだね」


 寂しい空気にしたくなくて、そんなことを言ってみる。昨日までと同じように、ふざけ合ってからかって、そんな取り留めもないひとときを、今日も。


「どういうことですか」


 空を見上げていた後輩の視線が、ぐいっと私に向く。ふふ、目が合った。


「ほら、月も食べられてるみたいだし」

「食って一文字ついてるだけで美味しそうなんて、先輩は相変わらずっすね」

「もう、それどういう意味よー」


 そう言いながら、あざとく笑う。ちゃっかり制服の袖を萌え袖にして、口元に当てて。染み付いた仕草は、こんなにも簡単に出てしまう。


 後輩は笑ってくれなくて、ふい、と目を逸らす。そんな照れた様子が可愛くて。ちょっと昔は、ほんの半年前は、あんなに切なくなっていたはずなのに、自分のあざとさに辟易しなくなったのは、一体いつからだっけ。


「四百四十二年ぶりってすごいっすよね」

「ほんとだね、見れる私たちはラッキーだ」


 何か言いたげな後輩の表情。一生に一度、見えるかもわからないこの夜を、最後の月を、私は目に焼き付けたい。


「ずっと聞きたかったんすけど、なんで先輩って俺の名前、帰り道では呼んでくれないんすか」

「負けな気がするから」

「はぁ~、なんすかそれ」

「なんでもー」


 とびっきり、可愛く笑った。呼べないのをごまかすみたいに。後輩は後輩だから、最初は先輩との対比として扱っていたけれど、いつからかその後輩の枠組みから出てしまわないように扱っていたから。


「先輩はなんで、卒部しちゃうんですか」


 虫の声にかき消されそうなくらい、小さな声だった。冬の澄んだ空気を滲ませる、淡い声だった。私が思考に耽った一瞬で、景色が光りを失った気がした。


「だって三年生だもん」


 当たり前ー、って空気を明るくしようとして、やめた。真っ暗な世界には、そんな無理した明るさは必要ないって思ったから。


「本当に、今日が最後なんですよね」


 声が震えていた。私たちの間を遮るように、冷たい風が通り過ぎる。


「うん」


 立冬したばかりの寒さを体で感じれば、嫌でも時が流れてしまったことを理解しなくちゃいけない。


 私も先輩が卒部するときに、後輩と同じ気持ちを抱いたことを覚えている。心が水色の気分で満ちる私とは正反対に、あの日の先輩はいつも通りの先輩で。私はその日、ずっと伝えられなかった気持ちをまた伝えることができないまま。「さみしい」のたった一言すら、言えなかった。


 私には、この帰り道の時間しか先輩を独り占めして隣に立つ権利を持つことはなかったのに。


「嫌です」


 稲穂みたいな声だった。本物の稲穂を揺らすほどの強さを持ちながら、後輩は私の目を決して見ようとしてくれない。


 強そうに見えて、明るそうに見えて、実はちょっと臆病で。


「嫌だね」


 言ってしまったら、もう抑えられない。涙を見せないように空を見上げれば、月を飲み込んだ夜空が一面に広がっていた。いつの間に食べられてたんだろう。私の目の前を埋め尽くすのは、夜空だけ。ああ、卒部式でも泣かなかったのに、なんで今こみ上げてくるの。


「俺、毎日部活終わりの帰り道のためだけに学校に来てたんですよ?」


 ――ねえ、林先輩。


 おどけて見せる声の裏に、私の名前を呼ぶ悲痛な声が聞こえた気がした。


「ちゃんと明日からも学校来なきゃだめだよ」


 諭すように、普通に努めて。帰り道はあと少し。後輩の顔が見たくなって視線を下げれば、いつからだろう、後輩が私のことをしっかりと見つめていた。その表情に赤い月の僅かな光が差し込んだ。今にも崩れ落ちそうな、初めて見た後輩の表情。


「ああもう、先輩は別にそんなことないっすよね、そーですよね」


 ぶっきらぼうな声が、静かすぎる夜に響いていく。


「さみしいんだよ、ちゃんと」


 あの日には言えなかった言葉が、するりと口からこぼれた。まるで、今日のためにとっておいたみたい。あの日より寂しい気持ちにみまわれるなんて思ってもみなかった。月の光が満ちるみたいに、私の体は切なさに満ちて。この帰り道が永遠であればいいと、願わずにはいられなかった。ふざけないと、軽くしないと、堪えきれなさそうだったから、いつも通りを演じてた。


「なんっすか、それ」


 月光が世界に満ちるように、心を満たす切なさが溢れ出していく。


「今までありがとね」


 上手く、笑えているかな。あざとさいっぱいの、鏡の前で練習した表情で。熱を帯びる目元を、風が優しく撫でていく。


 もう、分かれ道だ。今日の時間も永遠じゃないんだから。


「雪先輩、」


 ふいに、初めて呼ばれた名前。その声が淡い光に包まれて、私の耳たぶをくすぐる。それは、冬の訪れを感じさせるように張り詰めた空気に触れて、緊張感が一気に高まった。


「あの、いや。……ありがとうございました」


 言いかけた言葉を飲み込んで告げられた言葉は、期待していたのとは違うもので。あぁ、やっぱりなんて思ってしまって。何を期待してたんだろうって、ネガティブになって。その瞬間に、堪えていた涙が一筋、私の頬を伝っていった。


「ばいばい」


 涙をどうしても見せたくなくて、私は最後に後輩の目すら見えないまま分かれ道を歩き出す。


「先輩と過ごせてよかったです、さよなら」


 ずんずん歩き出した背中に、そんな声がかかる。そのとき、月の光が私の足をつまずかせて、足が止まる。今さっき言われた名前が、さよならの言葉が、どうしても耳の奥で響いて離れなくて。


「待って、後輩」


 気づけば振り返って、大声で呼び止めていた。


「なんすか」


 びっくりしたように、歩き出していた後輩も立ち止まって振り向いた。歩いて逃げた分だけ、私は走って後輩に近づいた。


 また逃げるのは嫌で、伝えられないのは嫌で。後輩の隣に私じゃない誰かが立つのが許せなくて。四百四十二年ぶりの、この運命みたいな夜を過ごせた奇跡を信じたくて。


夜空よあ


 初めて後輩の名前を呼ぶ。私の声は、後輩の耳で特別に響いているのかな。もう後には戻れない、戻らない。見守ってくれている月に力をもらって、あの言葉を告げる。


「月が綺麗ですね」


 私は後輩の隣でそう言った。空に食べられた真っ赤な月は空の中で存在感を醸し出していて、淡く光る光は私たちを照らしていた。


「死んでもいいです、たぶん、今日俺」


 それだけ言って、泣き崩れながら後輩は隣でしゃがみこんだ。気づいたら私の瞳からも涙が溢れ出していた。


 私の右手を、後輩がふいに掴む。離さないように、力強く。私もそれに応えるように、しっかりと握り返す。明日からも、隣でいられるように。


 私は臆病で、気持ちを素直に伝えられないけれど、同じように臆病な後輩にはちゃんと伝わったんだからこれでいい。きっと二人で歩く道は昨日の帰りよりも明るくて、温かくて、少し特別で。


 見上げれば、目の前を覆う空の端っこで月が存在している。私に力を貸してくれた月は、そんな私たちのやり取りに照れるみたいに笑っていた。


「月が綺麗ですね」


 ぽつりと呟いた私の言葉は三年間見守ってくれていた月の光に当たって照らされて、光が満ちていく運命の夜空に静かに溶けていった。

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