エロ本

サガワ ミツアキ

エロ本

皆さんは、エロ本が好きだろうか。


私は正直に申しますと、エロ本よりもエロビデオが好きである。



先日、朝のニュースを寝起きのアホ面でなんとなく眺めていると、すこしセンチメンタルな気持ちになった。


エロ本がコンビニの売り場から消えるのである。



車を運転していて尿意を催すと、私を含めた現代人がまず探すのは公園や公衆便所ではなく、コンビニである。


やっとのことでコンビニに入り、トイレまで行く道すがら、大抵はトイレのすぐ目の前にエロ本は佇んでいる。


男性は「知り合いがいて見られたら恥ずかしいし、絶対に見るまい。」と固く誓っても、エロ本があれば必ず目線をやってしまう生き物であり、どこか遠出をした際に店内の人々に対し「この先会うこともないだろう。」と悟ってしまえば躊躇なく手に取ってしまう。それがヒト科男性である。



このコンビニからエロ本が消えるという現象は、決してそのコンビニの店長が女性であり、エロ本のような風俗を忌み嫌っているからではない。


私はまずいコーヒーをすすりながらこう呟いた。


「そうか、こうして若者たちの風俗も時の流れとともに変化していくのであるな。諸行無常である。」と。


自分のことながら大変気色が悪い。文章を書いていてなんだかやるせなくなってきた。



しかし、そう思うのにもワケがある。


私が小学生の頃、世にはもう携帯電話が普及しつつあったが、その頃の携帯電話はまだ折り畳み式のものが出回っていない時代であり、着歌ではなく着メロが携帯電話ユーザーの中での最先端であった時代。


あくまで携帯電話は通話とメールをするためのモノであった。


携帯電話でいやらしい動画を鑑賞することなど、まだNTTの上層部の方々でさえ考えもしていなかったであろう。



当時小学校高学年であった私たちは徐々に思春期なるものに突入し、異性に興味を持ち始めたり、マセたクラスメイトは同じクラスの中で彼氏・彼女の関係を築き上げ、ポムポムプリンのイラストが施された手紙に「好き」だのなんだのが書かれた手紙を交換する輩も出てきた。


そんな中、アホ面下げて友達たちと公園で遊んでいると、たまに「神様の落し物」がその辺に転がっていることがあった。



エロ本である。



それは自転車置き場の端っこや、坂の途中の草むらに、駄菓子屋の前のごみ箱に、公衆トイレの手洗い場なんかに無造作に置かれていた。


さらに、私がこれまで行ってきた研究によると、どうやら「雨が降った次の日」にすこし湿気を帯びた状態で発見されることが多いようだ。


サッカーをしていても、誰かがエロ本を見つけるとボールなんか放っぽり出してエロ本に群がる。


まだ何も知らない純粋な少年たち。


当時の私は、「両想いの男の人と女の人がキスをすることで妊娠する」と思い込んでいるくらいの純度であったため、初めてエロ本を目にした時は正直何が何だかわからなかった。



今思い返せば汚い話だが、とりあえずエロ本を拾うと必ず自宅に持ち帰っていた。


何なら雨で湿気を帯びた物であれば、親が仕事で家にいなければドライヤーで乾かして保管するなどの懸命な延命措置まで行うほどの徹底ぶり。ルパンも次元大介もビックリするであろう仕事ぶりである。


「泥棒の仲間入りだな。」などと大きな背徳感に苛まれながら、親にバレぬように机の中に隠し、親が風呂に入っている間に恐る恐るエロ本を見ていた。




そんなエロ本は、私に大切なことを教えてくれた。


大人はよく自分たち子どもに対して「バカ」だのなんだの何の躊躇もなく言い放つが、このエロ漫画のストーリーを見る限り、大人は相当にバカである。もう小学生が同情してあげたくなるくらいに大人は幼稚なのである。


エロ本を買うのはもちろん大人なのであるから、いつも怖い顔をして廊下に立っている教頭先生や、気難しそうな顔をして音楽室の壁に貼られたベートーヴェンたちもなんだか可愛く思えた。


大人だって完璧ではないのだ。



そしてなにより、エロ本を見つけたときのあのワクワクするような身の毛がよだつような、あの何とも言えない気持ちを感じれたことが今となってはとても貴重なだったのだと感じるのである。



現代では、携帯電話はスマートフォンに移り変わり、スマートフォン上でインターネットにアクセスできるため、TSUTAYAでわざわざエロビデオを借りなくてもいやらしい動画を簡単に見れるようになった。


これは私にとってはとても画期的なことであり、ホントにスティーブ・ジョブズには感謝してもしきれないほどである。


そんな時代であるからして、もはやピピっと「エロ画像」だなんてGoogle画像で検索してしまえば、いくらでも満足できてしまうのだ。


こうなってくると、もはやエロ本は必要なくなってしまう。




先日、私は同じ市内ではあるが引っ越しをした。一人暮らしを始めたのだ。


友達の家の近辺であったため土地勘があるが、せっかくなので散歩に出かけた。


新居から少し歩くと、中学生の時によく友達とエロ本を探しに行った公園があった。




あの頃を思い出しながら公園内を歩き回ったのだが、そこにはエロ本どころか読み捨てられたジャンプやコロコロコミックすら落ちていなかった。



現在私たちが生きている日本では、「本が売れない」「CDが売れない」としきりに言われている。


本もCDも大好きで集めている私とすれば無関係にも思える現象が今起きているのだが、確かにスマートフォンがあれば、今は音楽も漫画でさえもダウンロードで済んでしまうのだ。


そりゃあCDも雑誌も文化としては廃れていってしまう。


ましてやエロ本など、買うことはおろか立ち読みをすることでさえ勇気が要る代物であるから、お店としても店舗に置かないほうが経営としてはよろしいのであり、そのためにコンビニからエロ本が消えることとなったのだ。



私は別に店頭にエロ本が並ばなくたって構わないのだが、私が危惧しているのは、これから大きくなっていく子供たちのことである。


今の子供たちは、何でもすぐにパソコンやスマートフォンで何の苦労もなく情報を得られるのだ。


確かに無駄はないし、すぐに欲しい情報が手に入るので便利この上ない。


私の場合、中学校の先輩のほとんどはアタマがイカれている人たちであったため、先輩たちから情報を得ても大抵の場合間違っているか世間から見たらロクでもない情報ばかりであった。



「SEXした後、女の人のアソコにコーラをかければ妊娠しない。」と教えられたのだ。


コーラをかけられた女の人は帰り道さぞ歩きにくかったであろう。



ただし、何でも簡単に手に入ってしまうために、私たちが何か初めて物事を知った時に感じたあのドキドキ感や、青く酸っぱい思い出や体験は手に入れることは彼らにはできないのかもしれない。


大きな話をすれば、現代は何かと「無駄なく、手早く、効率的に」という風潮だ。


これは仕事だけでなく、人間関係や日常生活にもこのような風潮が多く見受けられる。


確かに無駄はないほうがいいし、効率的に行えたほうがいいのは間違いのない事実である。


しかし、美輪明宏さんも言っていたが「必要無駄」というモノがある。


無駄なく効率的なことだけを考えた暮らしをしていれば、出費も少なく金銭的に余裕のある暮らしが行えることだろう。


しかし、仕事に疲れて帰宅した際に、無機質な部屋に帰ってくるのでは味気なく、心が落ち着くことはないのではないか。


ドアを開ければ自分の目で選んだインテリアがそこにあり、「あの時、あの人と出かけた時に立ち寄ったあのお店で見つけたあの大切なモノ」が部屋にあるというような生活は、とても豊かな生活ではないだろうか。


その一見無駄にも思えるようなモノや時間たちのその隙間に、ヒトやモノや思い出なんてものがスポッと入ってくるのではないだろうか。



性欲は人間の大きな欲求の一つであり、我慢することは困難だ。


ただし、そこにもひとつ必要無駄があったほうが。


今思えばそういう回り道をしてきた人間の方が、飲み会などで一緒に話をしていてとても面白い。


私はいつだってモテたいし、女の人にチヤホヤされたいどうしようもないダメ人間であるが、これまでの人生でモテ期と呼べるモノが存在せず、何度も女性関係で情けない失敗を重ねてきたお陰で、今の自分の価値観やネタにできるような話、思い出がたくさんできたのだと思っている。


良いか悪いかは別として…。




よくエロ本を拾ってきて私に貸してくれた、同じクラスのパソコン部だったアイツは今何をしているのだろう。


きっとアイツも私と一緒、エロ本に載っているような美女と一緒に並んで歩くような人生は送っていないはずである。


諸行無常である。

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