鬼は身のうち・中

 ドアから中に入ると、真っ暗闇の中、むっと夏の熱気と埃と黴、そしてなんともいえない臭いが鼻をつく。思わず口を押さえる女の子二人に「ハンカチで鼻を押さえた方が良いですよ」と勧め、法稔は持ってきた懐中電灯のスイッチを入れた。

「……何、これ……」

「食べ物の腐った臭いだな」

 本性はザリガニのシオンより、狸の法稔の方が鼻が効く。彼が明かりを床に向ける。そこにはファストフードの包み紙やドリンクのコップ、コンビニの袋やパンやおにぎりの包み、お菓子の袋がそこかしこに転がっていた。

「こういう曰く付きの場所は、今の時期、格好の肝試しのスポットだからな」

「そうだね」

 シオンが苦笑する。今はネットにこういう肝試しスポットが、地域ごとにまとめてUPされている。そういった場所をカーナビで調べて、休みの度に回る連中も多い。

「……なんだ、じゃあ本当に何にもいないのね」

 余りに雑然とした空間に、香奈芽が思わず笑い出した。

「はい。さっきも言ましたが、何も霊的なものは感じません」

『シオンはどうだ?』

 法稔が心語で尋ねる。

『さっきから淀んだ水気を感じるけど、邪気は全くしてないよ』

 水の魔族の感覚が沼の跡だろうか、じわりとした水気を感じるが、法稔が言った邪霊の塊の気配は微塵も感じない。 法稔は頷くと「ただ……」と足下を照らした。黒い丸々と太ったテカる虫がライトの明かりに驚いてカサカサと去っていく。

「きゃあぁぁぁ!!」

 別の恐怖に二人の少女が悲鳴を上げる。

「こんな場所ですから、早く用を済ませて出ましょう」

「う……うん」

 少女達が頷く。

「床板が腐っているところがあるから気を付けて。私の歩いた場所を踏むようについて来て下さい」

「はい」

 シオンがペンライトを取り出しつける。香奈芽と真里の足下を照らす。四人はそろそろと奥に向かって歩き出した。



 ライトの明かりが四つ目の部屋のゴミで覆われた床を照らし出す。わずかに見える畳は割れた窓から雨が吹き込んだのだろう、窓際が腐ってどす黒く変わっていた。

「うわっ!」

 ぼんやりと浮かんだ顔に、思わずシオンが声を上げる。

「落ち着け。週刊誌の表紙の写真だ」

 身を竦ませた少女達を気遣い「ホームレスでも入ってきているのだろう」ゴミの中に転がる、先々シーズンのドラマの女優の写真が載った雑誌を彼は照らした。確かに今の時期は肝試しの少年少女でうるさいが冬は格好の雨風除けの場所なのだろう。ゴミの中には週刊誌やマンガ雑誌と共にカップメンの容器や割り箸が転がっていた。

「どうして、こんな家壊さないの?」

 ハンカチで鼻を押さえた、くぐもった声で香奈芽が訊く。

「壊すにもお金が掛かるんだよ」

 雨漏りの跡が点々と散らばる天井を見上げてシオンが答える。

「なまじ、コンクリート製で丈夫なだけに余計に金が掛かるんでしょうね」

 法稔は部屋の隅々まで照らして調べると「ここにも問題集は無いな」と呟いた。

「もう! 一体、どこに置いたのよ!!」

 臭いと暑さ、そして時々見かける黒い虫に嫌気が差したのか、香奈芽がうんざりした声を出す。

「ごめんね……香奈芽ちゃん」

「ううん、真里が悪いんじゃないから」

 すなまさそうに謝る真里を慌てて彼女がなだめる。シオンは廊下の床を丹念に照らして、法稔の背をつついた。

「どうした?」

「見て、真新しい足跡だ」

 ゴミが点々と落ちている土と埃を被った廊下に女の子のものらしい小さめの新しい足跡がある。法稔が懐中電灯の明かりで追う。それは奥のぼろぼろに破れた襖の前まで続いていた。

「あのイジメっ子達の足跡か?」

「たぶんね」

 四人が廊下を行き、奥の襖を開ける。こちらも和室。破れて骨だけになった障子と割れた窓からススキの葉が飛び込んでいた。

「床にガラスが飛び散っているから、気を付けて」

 ジャリジャリとガラスの欠片を踏みながら、これまで同様ゴミだらけの部屋を調べる。

「あった!!」

 香奈芽が嬉しそうな声を上げる。「あったよ、真里。これで間違いない?」

 新聞や雑誌が雑然と積まれた山から彼女が綺麗な冊子を拾い上げた。カラフルな海岸のイラストが描かれた表紙を見せる。

「う……うん」

 真里がおずおずと手を出し、問題集を受け取った。

 

 

 ……モウイヤダ……。

 どこからか声が聞こえる。

「良かったね。真里ちゃん」

 にこっと笑うシオンに真里はぎこちなく笑って返した。

 ……モウイヤダ……。

 女の子と言ってもとおるほど可愛い笑顔。あの三人のイジメっ子達が『紫苑様が来る!』と騒いでいたのも解る。

 ……モウイヤダ……。

 あの子達は今夜、この『紫苑様』とお友達になるつもりで来たはずだ。なのに『紫苑様』は素っ気なく彼女達に接していた。

 ……モウイヤダ……。

 この辺りの中高校生の女の子の間で『紫苑様』のお友達というのは一種のステータスだ。香奈芽は気付いていなかったが、彼女が『シオン』と呼び捨てする度に少女達がむっとした顔をしていたのを思い出す。

 ……モウイヤダ……。

 あれはあの子達が癇癪を起こす前の顔だ。あの顔をした後は、必ず憂さ晴らしに手酷くイジメられる。真里は問題集を持つ手が震えるのを感じだ。

 この肝試しをなんとかかわしても、またイジメられる。これからも、この先も、あの子達の気分次第でずっと、ずっと……。

 ……モウイヤダ……。

「真里さん、一応中身を確かめてくれませんか?」

 法稔の言葉に真里は頷くと問題集を開いた。途端に顔が強ばる。

「どうしたの?」

 横から覗き込んだ香奈芽が息を飲んだ。

 問題集は三十ページほどある、どのページにも真っ黒になるほど、真里の悪口が書かれていた。そして最後のページには……。

『全部ちゃんと消してね。先生に見つかったらヒドイ目に合わすから』

 リーダーの女の子のふざけた文字が綴られていた。

 ……モウイヤダ!!

「もうイヤだ……」

 真里の口から、ぼそりと彼女のものとは別の少女の声が漏れた。

「真里さん?」

「真里ちゃん?」

「真里?」

 三人が声を掛ける。

「もうイヤだ……イヤだ!! イヤだ!! イヤだぁぁぁぁぁ!!」

 真里が問題集を握ったまま狂ったように頭を振り回す。黒い髪がバサバサと宙に揺れた。

「どうしたの!?」

「落ち着いて! 真里!!」

 シオンと香奈芽が落ち着かせようと彼女に近寄る。そのとき、法稔が叫んだ。彼の瞳が獣の瞳に変わる。

「来る!!」

 ズン……軽く家が縦に揺れた。その瞬間、空気が変わる。ひんやりとした水気が流れる。様々な不快な臭いにもう一つ、生臭い臭いが加わった。

「ヤツが来る!!」

 ズルリ、真里の後ろに黒い固まりのようなモノが現れ、彼女を飲み込む。

「真里!!」

 香奈芽が叫ぶ。

「危ない!!」

 法稔が彼女の前に躍り出る。「オン!!」数珠を取り出し、裂帛の気合いと共に拳を前に打ち出す。

 ギャアァァァァ!!

 法稔の放った気弾に、少女の声と複数の男女の入り交じった声が響いた。

「ポン太!」

「法稔だ!」

「そうじゃなくて!! これは!?」

「例の邪霊の塊だ!! でも、どうして、今まで気配すら感じさせていなかったものが!!」

 香奈芽を庇う法稔に邪霊の塊が襲い掛かる。

 ……ダメ!!

 少女の声が響く。塊は二人の脇を通り過ぎると、玄関に向かってズルズルと身をくねらせ移動して行った。

「真里……」

 香奈芽がぺたりと床に座り込む。

「シオン! 追うぞ!!」

「うん!!」

 シオンが法稔の後ろに回り、恐怖に腰の抜けた香奈芽を抱き上げ、肩に担ぐ。

「真里……真里……」

 二人は廊下に飛び出ると、玄関のドアに向かって走り出した。

 

 

 ズン……地面が軽く縦に揺れた。

「地震!?」

 空き家の外で待っていた三人の少女達が口々に呟き、スマホをチェックする。

「……地震じゃないみたい。」

 一人の子が確認したとき、明らかに空き家の雰囲気が変わった。

「……なんか変じゃない?」

 家が暗くなったというか、全体に闇に覆われたというか……それと共に空き家の方から冷たい水気と生臭い臭気が彼女達の足下に流れてくる。

「何、これ……」

 三人が鼻を押さえ、顔を見合わせたとき「真里!!」「危ない!!」香奈芽と法稔の声が家から聞こえた。

「やだ……」

「まさか、本当に出たの!?」

「逃げよう!!」

 三人が踵を返す。そのとき

「おや、まあ、自分がしでかしたことに始末もつけないで逃げ出す気かい? 女の風上にも置けないねぇ」

 蓮っ葉な口調の艶やかな女性の声が闇に響いた。

 

 

 カラン、コロン……。下駄の鳴る音が近づいてくる。LEDライトの光の中に現れたのは一人の着物姿の若い女性だった。

 水色の半襟を付けた草色の綿の着物に、藍色の帯をキリリと結び、黒い髪を首の上で纏め、とろりとした朱色の珊瑚玉のついた簪を一本打っている。 端の釣り上がった猫のような目に、大きな瞳。少女達がどうあがいても足下にも及ばない、大人の色気を漂わせた女は彼女達に冷たい目を向けると、細い白魚のような指をちょいと振った。

 途端に少女達の足が動かなくなる。

「何?」

「ヤダ!!」

 口々に喚く少女達に「あんた達には『餌』になって貰うよ」うっすらと笑み、空き家を睨む。

「……思った以上に上手くいったねぇ……」

 それだけ、馬鹿女達があの子を追い詰めていたということだろうけど。忌々しげに呟き、彼女は瞳を和らげた。

「今、救ってあげるからね」


 

 ガサガサガサ……。

 空き家を覆う草むらが揺れる。

 ボトリ。

 敷地に上がる段から、何かが道路に落ちた。

 ズルリ……ズルリ……。

 その何かが、まだ熱気の残るアスファルトを上を這い、女と少女達の方に向かってやってくる。

「さあ、ご覧」

 女が手を空にかざした。ぽう……と青白い、幽霊画に描く人魂のような炎が手の上に浮かぶ。

「ひっ……!」

 それに小さな悲鳴を上げた三人の少女は、炎がふわりと飛んで照らしたモノを見て「きゃあああぁぁぁ!!」高い悲鳴を上げた。

「あんた達のなれの果てだ」

 それは蠢く顔の集合体だった。コールタールのような黒い粘つくモノに沢山の顔が浮かんでいる。男女様々、青年から老年までの青白い顔が黒い表面に浮かび、何かを叫んでは沈み、また現れる。それが自転車ほどの大きさの塊のあちらこちらで行われていた。

「……真里!!」

 少女の一人が声を上げる。 塊の中央には青白い真里の顔があった。他の顔のように浮き沈みはせず、うつろな眼でぶつぶつと何か呟いている。

 ……モウイヤダ……。

 ……モウイヤダ……。

 ……モウイヤダ……。

 よく聞くと二つの少女の声が重なっていた。

「……これは……ここまで上手くいくとは思わなかったよ」

 女が猫の目を見張って驚く。

「何がよ!!」

 ズルリ……ズルリ……。アスファルトの上をゆらりゆらりと芋虫が身体を波打つように、いくつもの顔を浮かばせたり沈めたりしながら、向かって来る塊に少女達が金切り声を上げる。

「この足、動けるようにしなさいよ!!」

 半分涙が混じった声に女は婉然と微笑んだ。

「あんた達は『餌』だって言ったろ」

 少女達の声を聞きつけたのか、真里の顔が彼女達の方に向く。そのまま、彼女達に向かって真っ直ぐに進み始めた。

 ……モウイヤダ……。

 ……モウイヤダ……。

 真里の声に周りの顔から、煽る声が続く。

 ……喰っちまえばいい……。

 ……とり殺してしまえばいい……。

 ……そうすれば、もうお前達を苦しめる者はいない……。

「いやあぁ!!」

 少女達が必死で足を道路から離そうと身を捩る。

「助けてえぇぇ!!」

 涙をこぼして叫ぶ。そんな彼女達に「その前に真里って子に言うことがあるんじゃないのかい?」女がせせら笑った。

「ご……ごめんなさい……」

 少女の一人が謝る。

「もう、イジメないから!」

「教科書隠したり、お金取ったり、体操服汚したりしないから!!」

「真里の大事なもの取ったり壊したりしないから!!」

 それを皮切りに三人が口々に謝る。

「おやおや」

 女が細い着物の肩を竦めた。

 が、真里の顔は聞こえていないのか、うつろなまま、黒い塊はますます近づいてくる。

 ……モウイヤダ……。

 ……喰っちまおう……。

 ……モウイヤダ……。

 ……喰っちまおう……。

 地鳴りのような声と共に近づく。

「来ないでええぇぇ!!」

 足はそのまま、べたりと道路に尻を付いて、身体だけでも少しでも塊から離れようと少女達は試みる。

「仕方ないねぇ」

 女はゆるゆると首を振った。

「あんた達、この子に『遊び』だの『悪気は無い』のだの散々言ったんだろう? 悪いことをしたと思わないで、人をここまで傷つけられる者の『ごめんなさい』なんて、意味がないからねぇ」

 ズルリ……ズルリ……。塊が近づく。真里を飲み込んだときのように、ぐぱっと身体の一部が割れる。その奥でニヤニヤと男の顔が二つ、大きく口を開けて、牙を剥いた。

「あ……」

 限界が来たのか、三人の少女が次々と意識を失い地面に倒れ込む。 ズルリ……ぐったりと倒れた少女達に更に塊が近づく。

「やめて!! 真里!!」

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