種ちゃんは永遠に知らない。

鈴木百合

第1話 角砂糖と彼女

 

 白い立方体が、彼女の薄い唇に吸い込まれていく様子をぼんやり眺めていた。その唇が柔らかく暖かいことも、時に冷たくも甘い言葉を吐くことも、僕は知っている。まぁ、残念ながら、彼女はそれを知らないのだけれど。

 ブラックのアイスコーヒーに沈んだ氷を混ぜ合わせると、汗をかいたグラスがカラン、と音を立てた。その音色に、彼女は伏せていた目を上げた。


「……何よ」

「別に。何もないよ」


 普通に返事をしただけなのに、不満そうに眉を顰められた。そんな顔をしてたら皺ができるよ。説教じみたことを呟きながら、もう一度カランとアイスコーヒーを混ぜて、僕は彼女のために、もう少し丁寧に返事をすることにした。


「何もないけど、あえて言うなら、それは食べ物だけれど、そういう食べ物じゃないと思うよ」

「……どういうこと」

「つまりね、種ちゃん。それは食べ物だけれど、本来そこに溶かしていただくものじゃないんじゃない?」


 自分の目の前にある可愛らしい透明な瓶と彼女の手元にあるカップを指さして、僕は言った。

 瓶の中身は小さな角砂糖たち。彼女は――僕がどれほど愛しく、悲しい想いで彼女の名前を呼ぶか、想像もできないであろう馬鹿な種田美沙ちゃんは、今しがた、飴玉よろしく口に含んでいた角砂糖を指さされ、バツが悪そうに唇を尖らせた。子どもっぽい仕草にふ、と僕が笑えば、ごまかすように、手元の紅茶に口をつける。


「うるさい。あんたは私の親か」

「ご両親も注意するんじゃない? 虫歯になっちゃうよ」

「もう子どもじゃないんだから。っていうか、虫歯になるも何も、これはもともと紅茶に入れるものでしょ。入れずに食べて何が悪いの」


 その紅茶に入れるものを直接口に含むのはマナーとしてどうなのかとか、そもそもそうやって躍起になって言い返してくるところが子どもなのだとか、色々と言い返せることはあったけれど、すっかり意固地になってしまった種ちゃんに、僕は笑いかけた。ストローをくるくるかき混ぜて、アイスコーヒーを飲む。さっぱりとした酸味と苦みが舌を刺激して、少し汗ばんだ体をほどよく鎮めてくれた。


 よく晴れた平日の午後。二コマ続く授業が珍しく休講となり、突然できた暇を持て余した僕は、恐らく写真部の部室で暇をもてあましているであろう種ちゃんを、唐突に映画にお誘いした。僕もかつて写真部に入っていたこともあり、直接部室に行くのは気後れしたので、そっと携帯へメッセージを送ると、数秒で電話がかかってきた。


『何を?』


 もしもし、の『も』を言いかけた僕を遮って、種ちゃんはぶっきらぼうに言う。彼女は嬉しいときほどぶっきらぼうに、楽しみな時ほど言葉が少なくなる。


「なんでもいいよ。見たいのある?」

『……ふたつくらいある』


 そういって種ちゃんは、今話題の映画のタイトルを二つ、空で読み上げた。彼女は意外と映画好きなのだ。二つのうち、種ちゃんはそれとなくラブストーリーのほうを見たそうなそぶりを見せたけれど、僕はあえてそれを察することなく、地球を侵略してくる巨大な宇宙人たちと戦う少年少女のSFバトルものを選んだ。種ちゃんと二人きりでラブストーリー映画を見るなんてごめんだ。

 二人とも映画の後は感想を言い合うタイプである。館内でぼそぼそと話すよりはどこかで別のところで詳しく話そうと、僕らは足早にショッピングモール内のカフェに入った。そんなに甘いものが欲しければケーキでも頼めばいいものの、先ほど注意されたにも関わらずもう一粒、角砂糖をぱくりと食べて、そんなことよりさ、と少し乱暴な口調で彼女は言う。


「映画の感想よ、感想。なんで宇宙人と一騎打ちのシーンであのライバルが出てくるの? せっかくヒロインの活躍の場だったのに」

「あそこでライバルが出てこなきゃ、ヒロインは死んでたよ。だからあれは必要なシーン。それよりも、主人公が弱すぎてイライラしたなぁ。最後まで足手まといにしか思えなかったよ」

「何言ってんのよ。ああいう感じの男子って応援したくなるっていうか、主人公がああいう感じだから『ここでは死ねない!』ってヒロインが思いとどまったんだよ」

「理解できない。あいつはあのままシェルターにいたほうがよかったと思うんだけど」

「わかってないわね」


 あれが萌えってやつよ、と得意げに種ちゃんは言う。はいはい、萌えですか。僕はストローの先をはしたなくガジガジ噛んだ。そんなに弱弱しい男がお好みなら、月末に映画もカフェ代も奢っている僕の男気を返してもらいたいもんだ。

 そんな心境など知るはずもない種ちゃんは、僕の視線など構わず、どんどん話を続ける。


「でも確かに、主人公とヒロインの恋愛シーンは尺をとり過ぎだったな。別にヒロインの過去とかあんまり描く必要なかった気がする」

「それは同意。逆にヒロインの過去を描いてしまったことによって、主人公の背負う過去が薄れてしまった感はある。あれは正直、蛇足だったね」

「だよね」

「僕はヒロインの過去よりも、宇宙人がどうして地球を侵略したかをもっと説明すべきだったと思う。ちょっと説明不足だった」

「確かに。あれじゃ原作読んでないと、宇宙人の意図がわかりづらいわね」


 二人して感想を言い終わり、しばし無言になる。僕はアイスコーヒーを飲み、種ちゃんは紅茶を見つめる。すっと丁寧に爪が整えられた手がガラスの瓶に伸びたので、そっと視線をそっちにやったが、彼女は肩をすくめて角砂糖をひょいっとつまんで口に入れた。あーあ、と声を出さずに呟きながら睨み付けても知らんぷりだ。虫歯になってももう知らない。


「で?」


 ころころと角砂糖を舌の上で転がして、種ちゃんは器用に片眉を上げた。


「映画の総合的な評価は?」


 僕も視線を上げて、薄く微笑んだ。


「そんなの決まってる」

「それはつまり?」

「……とてもおもしろかった」


 そうこくんと頷けば、種ちゃんは嬉しそうに目を輝かせた。


「だよね! 突っ込み所はあったけど、あれ超面白かったよね!」


 種ちゃんは子どもみたいにはしゃぐ。彼女はいそいそとカバンからパンフレットを取り出し、あるページを開いてにやにやと笑った。


「ここの監督のインタビューの一文、『しかし宇宙人は本当に宇宙人なのでしょうか』っていうよくわからない一節が実は伏線だったなんて、誰もわかんないよね。これは映画オリジナルの設定だけどすっごいよかった。あと、ここのシーンの――」


 熱く語りながら、該当する箇所を指さして目を輝かせる様は、幼い少女のようだった。ショッピングモール内にある、閑散とした平日のカフェに似つかわしくないその無邪気さを、僕は目を細めて眺めながら、彼女の言葉に静かに耳を傾ける。


「うん。僕もそこはとても好きだ」


 見ている部分も感想も正反対でも、なんだかんだ好きなものは一緒な彼女が、とても愛しかった。



   *



「栗原くん」


 ちょっと見たいものがある、と言ってそそくさと本屋に入っていった種ちゃんを外のベンチで待っていると、珍しい人に会った。僕の週に一度の選択科目の授業で顔を見かける、種ちゃんと同級生の内田さんだ。

 内田さんとは専攻も違い授業以外では滅多に顔を合わせないし、時間割が被らないので校内ですれ違うこともあまりない。そもそも、顔を合わせる必要もない。僕は少々ぎこちない笑みを浮かべて手を上げた。


「やぁ、内田さん」

「久しぶりだね。元気? 今日は美沙ちゃんは一緒じゃないの?」

「一緒だよ。今は外してるけど」

「本当にいつも一緒なんだね」


 くす、と小さく笑って内田さんは首を傾げた。何が言いたいんだ。

 特に話したいこともないので早く行ってほしいと思いながら、僕は内田さんに曖昧な笑みを返した。すると、彼女は困ったように綺麗に整えられた眉を顰めた。


「怒ってる?」

「ん? 別に怒ってないよ」

「顔、変だよ」

「ひどいな。元からじゃないかなあ」

「口調もちょっと変じゃない?」

「前からこうだよ」

「そうかな? まるで私が知ってる栗原君じゃないみたい」

「ははは、そっかあ」


 この不毛な会話はいつまで続くのだと、僕は思わず腕時計を見た。種ちゃんが本屋に入ってからもうすでに三十分は経過している。彼女は平気で一時間くらい同じ店をぐるぐるするので、まだかかりそうだ。

 何を思ったか、内田さんは僕の隣に腰かけた。ふわ、と女性らしい柔軟剤の香りが鼻腔を擽った。嫌な予感がしてトイレに逃げ込もうと腰を上げようとした瞬間、内田さんはいたずらっぽく僕を覗き込んだ。


「私と一緒だった時は、ベンチで待ってたりなんかしてくれなかったのに、人は変わるものだね」


 嫌な予感は的中した。しかもど真ん中、貫通。


「……まぁ、色々とね」


 打ち抜かれた僕は、観念してベンチに深く腰掛けなおした。僕が不用意に逃げることを諦めて真正面から話せば、内田さんは悪い子ではないのだ。気難しい種ちゃんの数少ない友人の一人だし、どんな人とも話せる気さくな人だ。ただ少し、僕にとって後ろめたい存在なだけ。

 内田さんは僕が降参したからか、ちょっと申し訳なさそうに微笑み、話しかける。


「美沙ちゃんは元気?」

「元気だよ。でも、内田さんのほうが知ってるんじゃないかな。専攻も一緒なんだし」

「うーん、実はあんまりお話しないんだよね。ほら、私が美沙ちゃんと仲良かったの、今年の夏の終わりごろだったから」

「ああ……そっか」


 仲が良かった。それが過去形である理由を、僕は痛いほど知っている。内田さんは悲しげに眼を伏せた。


「栗原くんは、まだ美沙ちゃんのこと、〝種ちゃん〟って呼んでるの?」


 思考停止して固まっていると、背後から非難めいた声が聞こえた。


「何してんの」


 振り返ると、やけに重そうな本屋の袋を握りしめて、種ちゃんが仁王立ちしていた。種ちゃん、僕を待たせて一体どれだけ買い物をしたのか。呆れている僕と、種ちゃんの様子をおかしそうに見つめる内田さんからの視線を受け、種ちゃんぶすっと無愛想な表情でつかつかとこちらに歩みより、座っている僕の鼻先に本屋の袋を突き付けてきた。


「重いから持って」


 ……一時間近く待たせて、どんな暴君だ。

 呆れながら立ち上がって、本屋の袋を受け取ると、種ちゃんにぐいっと腕を掴まれた。思わずよろけている間に、種ちゃんは内田さんに会釈をする。


「またね、内田さん」

「うん。引き止めちゃってごめんね」

「えっ、あ、あの……」


 さすがに内田さんにちゃんとあいさつをしようとした僕を無視して、種ちゃんは無理やり歩きはじめてしまった。仕方がなく首だけ振り返って会釈をし、種ちゃんに引きずられるままショッピングモールの出口方面へ進む。

 内田さんが見えなくなるくらい歩いたところで、唐突に種ちゃんは立ち止まった。何か言いたげだったので、僕はため息をついて、種ちゃんの話を聞くことにした。


「おつかれ。ずいぶん時間がかかったんだね」

「限定盤の写真集があったの。じゃなくって、あんた内田さんと仲良かったの?」


 君だって、仲が良かったよ。そう言いたいのを抑えて、まあね、と目を逸らして肩をすくめた。種ちゃんが眉を顰めてぶっきらぼうに言う。


「内田さんと何話してたの?」

「……別に。何にもないよ」

「嘘だ。変な顔をしてる」


 ああ、何故僕は今日、女性二人から変な顔をしていると指摘されなければならないのか。


「なんでもないって」


 へらり、と笑ってみせたが、種ちゃんは不審そうな顔をした。


「あんたねぇ。なんでもないのに、そんな泣きそうな顔するの?」


 思わず息が詰まった。

 彼女は、勝手だ。人を平気で一時間近く待たせるし、人と話している間を遮って歩いて行ってしまう。決して傍から見て、気づかいのできる人ではない。

けれど、こうやって時たま見せる彼女のぶっきらぼうな気遣いが、心の柔い部分に容赦なく触れてきて、ああ自分はどうしようもなくこの人が好きなのだと、思い知らされるのだ。

 ぎゅ、と拳を握りしめ、僕は言う。


「じゃあ話すからさ。一個、お願いがあるんだけど」

「……なによ」

「僕のこと呼んでみて」


 彼女は不思議そうに首を傾げ、


「〝和也〟」


 ああ、言わなければよかった。

心の中で後悔しながら、僕はわざと顔を顰め、ぶっきらぼうな口調でごまかした。


「そうそう。内田さんから下の名前なんだっけって言われちゃってさ。友達なのに、忘れられてたことがショックだっただけだよ」

「何よそれ。馬鹿じゃないの」


 心底呆れたように彼女は言う。本当、馬鹿みたいだよね、と笑って、俺は、美沙が掴んでいる手をそっとほどいた。


「ほら、行こう。〝種ちゃん〟」

 


   *



 僕は――俺は、栗原和也は、種田美沙が好きだ。


〝気軽に呼び捨てしないでよ、栗原〟


 けれどそれを、彼女は知らない。


〝あんたなんか、絶対に名前で呼んであげないからっ〟


 私が大好きなアイドルと同じ名前だから。そう言っていた彼女が、俺の下の名前を呼んだのは、あの時の一度だけ。今年の夏のはじめ、彼女に告白をした俺に、嬉しそうに返事をしてくれたあの時だけだったはずなのに。

 種田美沙はその直後、トラックに轢かれた。

 外傷はまったくと言っていいほどなかった。しかし、頭部を強打し、意識不明の重体。びまん性軸索損傷。例え回復しても、意識障害や高次機能障害が残るだろうと、誰もが彼女の命を絶望した。

 しかし、彼女は奇跡的に生還した。その代償として彼女は、今年の春から事故の直前までの、半年間の記憶を失った。

 親友だった内田舞香のことも、かつて、彼女と毎日のように口げんかをして、お互い傍若無人に振る舞って、周囲から犬猿の仲と言われていた、栗原和也という人間のことも。

 事故のショックを緩和するための、防衛反応でしょう。そう医者は言っていた。これまでの半年間を思い出すということは、事故当時の恐怖を思い出させることになる。だから、さっき内田舞香が言いたかったのは、こういうことなのだ。


〝本当にいつも一緒なんだね〟

 ――あなたがそばにいることは、彼女が辛い記憶を取り戻してしまう、リスクでしかないのに。


 それは俺だって重々承知だ。それでもそばにいたいというのは、俺のエゴでしかないこともわかっている。

 そばにいるために、「俺」は「僕」になった。「美沙」と呼んでいた名前を、彼女が一番嫌がっていた「種ちゃん」というあだ名に変えた。彼女の気を引きたくて、嫌がることばかり言っていた態度を、彼女の言いなりになるように変えた。曖昧なことはとことん突き詰めてしまう性格を、微笑んでごまかすようにした。写真部を辞めて、実は好きだったラブストーリーを、決して彼女の前で見ないようになった。

 彼女が記憶を取り戻すトリガーに触れないように。正反対のことをして、彼女のそばにいられるように。

 それはきっと、傍から見たら狂気の沙汰だ。

 けれど感情なんて、恋なんて、そんなものなのだろう。


「さっき本当は内田さんにフラれてたんでしょ」


 あの後、気が済むまで買い物をした種ちゃんは、夕食を食べるために入ったカフェで、いたず

らっぽく僕をからかった。

 もうすっかり日が暮れていて、窓ガラスには向かい合って座る僕と種ちゃんの姿が映っていた。種ちゃんの買った膨大な買い物袋に囲まれながら、僕は曖昧に微笑んだ。


「まさか。僕に内田さんは恐れ多いよ」


 本当、恐れ多い。種ちゃんへの恋心を自覚して振ってしまった内田さんの顔を思い出しながら、僕はごまかすようにコーヒーを啜った。確かにね、と種ちゃんは呟いて、また角砂糖を手にして口の中に放り込んだ。


「……それさ、食べ物じゃないんだよ、種ちゃん」

「うるさいなあ。あんたにはわかんないでしょうね」

「わからないねぇ」


 嘘。本当は俺も角砂糖、食べちゃう派なんだよ。


 口にしている名前も、感情も正反対。なのに、好きなものは一緒な彼女が、やはりとても愛しかった。


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