第3話 常習者

 川本鮎子を扱ってから二週間後の夜、俺たちはまたもや彼女の住まいへと向かった。今度は浴槽内で手首を切っていた。母親が買物に出かけた隙に実行したらしい。

 彼女はもともと一人暮らしなのだが、何度も救急車のお世話になっているので、時々母親が様子を見に来ているのだ。それでも、隙を見つけてはたびたび自殺を図っている彼女だった。

 発見が早かったのと、酸素吸入が功を奏したのか、現場を出発して数分後には彼女は、うわごとに近い状態だが、言葉を発するようになっていた。それは、〈もう死にたい〉〈放っておいて〉といった類のものだった。

 病院到着後、医師がやってくるまでの間、珍しく小田原さんが彼女に付き添っていた。いつもはさっさと車に戻るのだが、隊長は母親とともに診療手続きと経過の説明のためにその場を離れていたということもあったと思う。

 俺は処置室前の椅子に座り、救急活動記録表を書きながら、小田原さんの言葉に耳を傾けていた。

「馬鹿野郎、三十にもなって甘ったれるんじゃねえよ。あんた一人のために何人が動いているかわかっているのか。ほっといてくれだと?死ぬ気があるんならなんだってできるだろう。生きていれば、がんばっていれば、いつかいいことがあるんだよ。そう思って生きていけよ。人生なんてよお、下ったら上るし、苦しみが過ぎたらその次は、楽しみがやってくるものなんだよ。どうしても死にたかったら、ひとりでこっそり死にやがれ」

 俺は最初、とうとう小田原さんはキレてしまったかと思った。しかしそうではなかったらしい。ストレッチャーに横たわった彼女の耳元で話す小田原さんの口調は、自分の娘にでも話しているような、どこかやさしさが感じられたからだ。

 やがて、彼女の閉じたままの目尻から一筋、光るものが流れた。小田原さんはさらに彼女の耳元で言葉を発していたが、俺の耳には届かなかった。


「で?」

 まどかはテーブルに肘をついたまま身を乗り出した。

 俺たちはハンバーガーショップの奥の席へ陣取って、顔を突き合せるような格好で話していた。客は大半が若い女性で、店内はトーンの高い声が飛び交っている。はじめはボリュームを抑えて話していた俺たちも、知らないうちに声のボリュームは上がっていた。

「うん、かかりつけではなかったわけだけれども、そこで収容っていうことに落ち着いたよ。でも外科じゃ根本的な治療は無理だからね。またしばらくしたら、かかりつけ病院に転送だろうな」

「精神的な病を抱えている人って厄介なのね。よくなるのかしら、その人」

「人それぞれだろうから、俺は何も言えません。俺は医者でもないし」

「でも、小田原さんがそんなこと言うのって、いつもなの?」

「隊長が言うには、小田原さんは、薬飲んだとか手首切ったとかいう人に対しては、けっこう厳しくあたることがあるんだってさ」

「小田原さんはそのことについては何か言ったの?」

「『いやぁ、年甲斐もなく熱くなっちゃったよ』って。それでおしまい」

「簡単なのね」

 まどかは両手でカップを持ち、小さくため息をついた。

「それでさ、なんかさぁ、そのやり取りを見ていた彼女の母親が、小田原さんに、やたらと話しかけていたんだよ。小田原さんも、真面目な顔で応えていたし。それ、娘が処置室にいる間、ずっとだぜ。何を話していたのかを聞いても小田原さん、教えてくれなかったんだよね」

「へえ、そうなの」

 まどかは、意味ありげに口元を緩ませた。

「普通なら『余計なこと言うな』とか『他人の家のことに首突っ込むな』とか文句言われてもおかしくないくらいなんだよね」

 カフェオレのカップを口に運び、少しもったいぶったようにひと息ついてから、まどかは口を開いた。

「『よかったら娘のことを面倒みてくれませんか』みたいなことを言われたんじゃないのかな」

「やっぱり。そう思うよな。でもさぁ、だって、言っちゃあ悪いけど、親子みたいなものだろ」

 俺は、まどかと考えが一致したことに少し興奮し、スウェットシャツの袖をまくった。

「だからぁ、安心して任せられるって思ったんじゃないの。変な下心もないでしょうし」

「あ、そういうことか」

 俺の予想とはちょっとずれていたが、それはそれで納得してしまった。小田原さんは、人に頼まれれば嫌とはなかなか言えない人でもある。

「でもなぁ。救急隊が、扱った傷病者をプライベートで面倒見るなんて、いいのかなあ」

「あら、看護師と結婚する救急隊員なんかたくさんいるじゃない。似たようなものじゃないのかな」

「う~ん。そうかあ」

 今日はまどかに納得させられることが多い。

「何でもありなのよ。今の世の中」

「そんなものかなあ。お、それはそうと、ここにもひとり娘がいるんですけど。親は何も言わないですか」

 まどかは子供を「めっ」と叱る時のような目になり俺を見つめると、意味ありげに口元を緩め、まあねと小さく言った。俺としては、今のままがいいに決まっているのでかまわないのだが、たまに気になるときがある。弟がひとり実家にいるが、それでも彼女がひとり娘であることにかわりはない。親が心配していないはずはないと思うのだが、尋ねると、いつもはぐらかされる。

 この日の彼女は、デニムのロングスカートにブーツ、モスグリーンのカーディガンを着ていた。カーディガンの下には、胸元が大きく開いた白のブラウス。白い肌に俺が贈ったペンダントが光っている。上から覗くと、その奥にあるものが見えそうだ。

「なにジロジロ見てるのよ。いやらしい」

「だって、寒いのにそんな服着てくるんだもの。しかたないだろうさ」

 見ないでよ、と言われると余計に気になった。


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