第11話



 鼓動が早くて胸が痛い。

 呼吸はこれ以上ないくらいに多くなっている。

 全身の筋肉が、関節が、悲鳴をあげている。

 跳ね翔ける馬の動きに必死についていこうとした。

 何度も瞬いて、冷えた山の空気に体の上昇しきった熱を奪われながら、汗が冷えて身体を滴っていく。

 ごめん、と、酷使されている馬に心で謝っていた。

 ごめん。

 ごめんなさい。

 ぼくが、マンダルバへ行く、そう言ったことで、いまのこの状況になっている。

 何度も、リクはぼくに訊いてくれていた。

 いいのか、と。

 リクは、こういう未来を予測できていた。

 自分の想像が乏しかったけど、でも、ここまで切羽詰まったことになるなんて、思ってなかったんだ。

 ごめん、みんな、ごめんなさい。

 シチェックもタグもセリアも、巻き込まれただけだ。

 ヴィイや、エヴァンス、ル・イース、ほかの人たちも、ぼくを守ってくれていた。

 リクも。

 馬と動きが合わずにガクンと体が浮き上がって、後ろからの力強い腕に引き寄せられる。

 両手でしがみついていたその手に込めていた力が抜けそうになって震える。

 まだだめだ。

 気を抜くな。

 リクの声が聞こえたように、自分を叱咤する。

 前を見ろ。

 何度も瞬いて、闇に慣れてきた目で前を見据える。

 どれだけ走ったのかわからない。

 道筋が急勾配にならないように拓かれた道でも、上がるにつれて登り坂がきつくはなってきている。道は急にいろんな方角に曲りくねり、いきなり反対方向にのぼったりもする。呼吸を間違えると舌を噛みそうになる。

「山を越えるよ」

 キースが教えてくれる。

 拓かれた道以外は、人を拒絶する厳しい山岳の反対側に行こうとしていた。

 山を越えるには、この経路では一本道。

 間違いようもなく、ひたすらに先を目指す。

 道が下りになって、またしばらく走らせた。

「一度馬を休ませるよ」

 返事もできずに、ゆっくりと馬の速度が下がり、道から外れた獣道のようなところに馬はキースの手綱で導かれていく。

 たどり着いた先に、水の流れを感じた。かすかにそんな音がする。

 馬が止まって、キースの腕に抱えられたまま馬から下ろされる。

 掌の力を入れすぎていて、なかなか元に戻らない。馬が自分から水の流れに近づいている間、キースの反対の手がぼくの両手の指を離してくれた。

「痛く、ないですか?」

 荒い呼吸のままで問いかけると、

「全然大丈夫」

 穏やかな声が返ってきた。

 息をつきたくても、止まったことでかえって呼吸が乱れてきた。

「こっちにおいで」

 フィジの声が後ろから聞こえて、ちゃんとついてきてくれていたと安堵する。

 もう一頭の馬も水辺に行ったみたいで、フィジに腕を取られて、導かれるほうに動かない足をとにかく命じて動かす。フィジは岩の谷間のような平らな草地に腰を下ろさせてくれた。

 何度も無理やり呼吸していくうちに、鼓動と呼吸は落ち着いてくる。胸の痛みはしばらくは取れなかったけど、フィジが示してくれるものを手に取ると、革紐に括られた水筒缶だった。

「飲んで」

 無言で従う。水の冷たさも気にならないくらいに、必死で喉を潤す。

「これも食べて」

 なにかわからない、ほのかに甘い固形のものを、夢中で噛み締め、また水を飲む。ひとしきりその動作を繰り返して、もう入らないと思ったところで、礼を言った。

「休みなさい」

 その声が聞こえる前に、身体が勝手に力を失って、自然に地面に背中をついていた。

 短く早く呼吸しながら、目を閉じる。

 疲れきっているのに、眠気なんてやってこない。

 ぐるぐると、いろんな思いが頭を巡っていた。

 自己の謝罪と、状況による気勢と、耳には聞こえない激励と、それらが交互にやってきては、何度も何度も繰り返し胸を叩いていく。

「このまま野宿にする? 人の気配は感じないけど」

「ああ、しばらく休ませないといけないだろうね」

 少し離れたところの二人の会話が聞こえる。

 きっとこの二人は、ぼくがお礼を言っても謝罪を言っても、とくに気にしないと思うけど、それでも、二人の存在はありがたかった。

 呼吸は落ち着いていたけど、胸の痛みは変わらない。

 目を開けて、星の見えない夜の曇り空をぼうっと見上げる。


 どうして、ここにいるんだろう。


 そんな自分への問いは、ずっとずっと、心の中にあった。

 リクと出逢って、彼についていって、自分で選んで、いま、ここにいる。

 それはわかっている。

 それでも、根本的な疑問は拭えない。

 リクは、大丈夫。

 そう思おうとしても、不安がけっして消えてくれないように。

「これに包まって。ここで寝るよ」

 二人は自分たちの荷物を開いて、革の掛布をふわりとぼくに掛けてくれた。

 二人の好意に、ぼくができるのは、はいと素直に言うことだけだ。

 革の布に包まって座り直し、またゆっくりと横になる。

 神経が冴えすぎていて、頭を休めないといけないと思うのに、それができなくて身体が小さな異常を訴えてくるけど、どうしようもできなくて、ただ時間が過ぎていく。

 大人二人は馬の世話をしたり自分たちの食事をしたり片付けをしたりと動いているのに、この子供の体が勝手に休息を求めて動かなくなっていて、全然力が入らないのを申し訳なく思う。

 いつか、みんなに、報いることをしないと。

 なにもできない自分を情けなく思うけど、自分ができることで返さないと、みんなぼくを叱ってくれるような人たちだ。

 また感謝と謝罪が交互に自分を責めてくる。

 はっきりと気持ちが定まらない自分に怒りさえ湧いてくる。

 一人だと、こんなに自分は情けない。

 いまはそばにいない人を、心が求めていた。


 眠ったのか、ただ目を閉じていただけなのか判別できないうちに、フィジに声をかけられる。

「起きてる?」

「はい」

 すぐに応えて目を開ける。

 辺りはまだ暗い。

「出立するよ。あの子らが見えない奴らを引きつけてくれてるみたいだけど、せめてマンダルバ本領には到達しておきたい。マンダルバに行って、きみが受け入れられるかこの状況じゃわからないけど、とりあえず現状は変えたいよね」

「はい」

 聞きながら体を起こし、立ち上がろうとするけど身体がいうことをきいてくれない。痛む身体を無理やり動かし、生まれたての動物のようによろよろと立ち上がる。

 息を大きく吸って、深く吐いて、何度か繰り返す。

 よし。

「行きます」

「うん」

 キースが馬を連れて近寄ってきて、また馬上に乗せられる。

「もう少し、がんばれ」

「はい」

 せめて、あと数年、歳を経ていたら、もっと、みんなの役に立てたのに。

 また馬上で揺すられて、息を短く吐き出していく。

 時間の経過がまったくわからない。

 でも、少しずつ、闇から薄闇に変わりつつあった。それで、明け方近いということがわかる。

「人の気配がする。気を緩めないで」

 キースの声が聞こえて、前を見据える。

 なにか音が聞こえた気がしたところで、キースが馬を止めた。

 馬の荒い呼吸と、その音が重なって、なんの気配だかわからない。

 耳を集中して澄ませる。

 切羽詰まったしゃべり声と、金属同士がぶつかる音。

 息を詰めて無意識に馬から降りようとした身体を、後ろから支えている腕に押さえつけられた。抗議の声を出す前に、キースが馬をゆっくりと進めた。

 この辺りの道は曲がりが強く、先が見えにくい。曲がりを進んだ先で、微かな灯火がいくつか、真っ先にそれが見えた。

 その火に照らされて、乱れ動く人影がいくつか。明らかに、人が剣を打ち合っている音と気配。

 誰だか探る前に、向こうからさっきよりもはっきりとした男の声が聞こえた。

「いい加減に投降しろ、盗賊どもめ!」

 盗賊?

「違うって、何度言えばいいんだって!」

 切羽詰まったその声は。

 エヴァンス!

 剣戟が何度も聞こえて、荒い息遣いや、高めの悲鳴も。

 セリア!

 馬から下りようとすると、またキースに止められる。

 守ってくれてるって、わかってる。

 わかってるけど。

 もどかしさに身体が熱くなって、胸が苦しく押し上げられる。

「やめて」

 小さな声は闇に呑まれていく。

 みんなに、誰がなにをしてるんだ。

 奥歯を噛み締めて、言葉にならない音が喉を鳴らす。

「風が吹く。声は、届く」

 キースが頭のすぐ近くで、密やかに低く言ってくる。

 馬が歩みながらみんなに近づいていく。

 背後から、さあっと、緩やかな風が吹いた。

「やめて!」

 思った以上に、大きな声が出て、前方に風が吹き抜けていく。

 同時に、空の明るさが増していく。

 剣戟が止んでいた。

 声も聞こえない。

 明るくなるにつれて、前方の様子がはっきりと見えてきた。

 エヴァンスが先頭で、その後ろにヴィイの相棒さんがシチェックを背負ったまま馬上で誰かを相手に剣を振るっていたらしく、タグとセリアの馬はその背後で守られるように留まっていたが、近くには相手方が迫ってきていたところだった。

 こちらが近づくと、相手方は動きを躊躇する様子を見せた。

 エヴァンスたちはこちらを向くと、表情はまだ見えないけどぼくだとわかってくれたみたいだ。

 ぼくの腹の中は、まだ熱いままで、喉のほうもなにかにつっかえるように膨らんでいるかのようで熱かった。

 キースがぼくを抱えたまま馬を下り、地面に足をつけてくれた。

 体のあちこちが痛いなんて意識の外だった。

 しっかりと大地に足を踏みしめて、前へと歩む。

「やめてください」

 今度は落ち着いた声が出せた。

 そのまま前へと歩んでいく。

 タグとセリアの乗った馬を越え、シチェックを背負ったヴィイの相棒さんの馬を横切り、先頭のエヴァンスの隣に並んで止まる。キースはすぐ後ろを馬の手綱を引いてきていた。

 敵、と言っていいのか、エヴァンスたちと剣を交えていた男たちは、マンダルバ人の特徴を持つ人々だった。馬上で、近づくぼくに目線を向けてきていたが、場違いな人物が来たと思ったのか、剣を手に持ったまま動きを静止していた。

「そちらの責任者は、誰ですか」

 先頭にいた男に真っ直ぐに見上げて問うた。

「お前たちは、何者だ」

 こちらの問いには答えずに、男は鋭い声で問い返してきた。

「ぼくは、マンダルバ領管財官の前で、前領主の息子と名乗った、レナンと言います。そちらの責任者は、誰ですか」

 なにが正解なのかは、自分にはわからない。

 この身体に沸き起こる思いのまま、動くだけだ。

 あちらは驚きの空気に変わったみたいだ。さらに向こう側にこの状況を伝えるべく、何人か馬を返した。

「とにかく、剣を収めてください。あなたたちは、マンダルバの人ですか」

 目線は男から外さない。

「マンダルバ境界警備兵の者だ。ザグゼスタ様の息子とは、偽りではあるまいな」

「話を聞いてくださるなら、こちらも剣を収められます。お願いします、責任者と話をさせてください」

 ぼくができるのは、この心を伝えることだけ。

 馬上の男は、しばらくぼくを見つめていたが、やがて腰の鞘に剣を収めた。

「いいだろう。だが、無駄な抵抗はやめておくことだ。そちらがどのような戦力を持とうと、我らはそれに屈することはけっしてない。ついてこい」

 キースに目をやりながら告げる男は、確かに、明らかに戦闘力を持つとわかるキースを前にしても動じていない。

「わかりました。こちらには子供もいます。どうか、穏便に、お願いします」

「子供? お前のことか」

 それはそうだけど。

「そこに」

 背負われた肩から顔をのぞかせているシチェックは、笑顔満面だった。

 シチェック、逞しすぎる。

「悪かった。こちらはいま気が立っていてな。だからあまり刺激しないでくれ」

 そっけなく言うと男は馬を返して道を進んでいった。他の男たちもそれに続くと、ぼくは気勢を張っていたのを、大きく息を吐いて全身の緊張を抜こうとしたけど、まだ身体はそのままでいろと言っている気がして、気が全然抜けないでいた。

「助かりました」

 エヴァンスが、らしくなく真面目な顔で言ってくるので、首を振った。

「行きましょう」

 ぼくがそう言うと、キースがまた馬上に抱え上げてくれた。


 しばらく馬を歩かせていくと、集落というよりは関所のようなところが見えてきた。

 道はちょっとした丘のようなところに差し掛かっていて、その丘を切り開いたところに道が続いていた。

 その道を塞げられるように門が構えられていて、その間に丸太を連ねた簡単な木扉が上にあげられた状態だった。門の両隣の丘の上両側に、そこそこ大きい平屋の建物が見える。

 天然丘の堡塁。マンダルバの境界砦。

 ぼくらはその建物に案内された。こちら側の馬は世話を名目として取り上げられ、剣の類はそのままにしてくれていたけど、いつなんどきでも応戦ができるように向こうの人たちも帯剣したままだ。

 兵士たちの食堂のような広間に通され、椅子に座らせてもらえた。

 ここに着いてから、シチェックがずっとぼくの片手を掴んだまま離さないので、ぼくの隣に座らせて、マンダルバ兵の人に飲み物をお願いしてみると、結構あっさりと水をぼくたちに提供してくれた。尋問部屋に通されなかっただけでもよいと思う。

 部屋の出入り口に、三人の兵の人が立っていて、こちらを観察するような目で見ていた。

 ぼくたちを観察しても、見た通りのままなんだけどな。

 タグとセリアは疲れた顔をしていたけど、気丈にもまだ目に光があった。

 ヴィイの相棒さん、名前を聞いていなかったのでこの呼び方しかいまはできないけど、眼光鋭く周囲を探るようにときどき辺りに目線を送っていた。

 ヴィイの相棒さんと一緒に、ぼくからは離れたところに座ったエヴァンスだけど、ぼくたちが視界に入る位置にはいてくれていた。目はまだ野生の男のままで、目線はあまり動かしてはいないけど、ぼくやシチェックに意識を向けてくれているとわかるくらいには目が合った。

 フィジはシチェックの隣に座っていて、ぼくと繋いでいる反対のシチェックの手を握ってにこにことしている。シチェックも負けずに嬉しそうに、にこおと笑う。

 キースはフィジの後ろにいた。もうすでに一番くつろいでいる、そんな雰囲気。

 キースが緊張感を持っているのをまだ見たことがないので、彼が闘気を纏って戦場に立つのを想像すると、身震いがしてくる。きっと近くにはいられないと思う。

 みんなでこの部屋に入れられてから、結構な時間が過ぎていた。

 いつもはあちこちと動くシチェックが、よく大人しくしてくれているなと感心する。ときどき、足をばたつかせながら、ぼくにはわからない歌を調子外れな音程で歌い、有名な歌なのかフィジも小さな声で寄り添うように歌っていた。場の緊張をほぐしてくれているみたいで、助かる。

 シチェックが繰り返す歌をいくつか聴いているうちに、ぼくもその中のなにかを歌えそうにまで覚え出した頃、部屋の扉が開いた。

 現れたのは、マンダルバ管財官補佐、ジョーイ・ハーラット。

「これは、レナン殿。よかった、本物でしたか。ご無事でなによりです」

 こちらに向かって歩きながら、食えない笑顔と声音で言ってくる。

 卓を挟んでぼくらの向かいに、彼は座った。

「では、ぼくたちに対する武装を、解いてくれますか」

「いやあ、それがですね、こちらの警戒は、あなた方に対してではなく、山の向こう側に現れ出した賊に対してのものなんですよ。こちらに非礼があったようなので謝罪させていただきますが、いまの状況ではこのまま警戒を継続せねばなりません。それはご承知ください」

 その言葉を信じるすべを、ぼくは持っていない。

「では、こちらのことを、説明してもいいでしょうか」

「はい、もちろん」

 管財官補佐は笑顔ながら、向こうもこちらをきっと信じ切ってはいない。

「そちらの、マンダルバ役人に案内される形で、ぼくたちはこの道を進んできました。一日目の宿までは、彼らと一緒に行動し、何事もなく過ごせました」

「それはよかった」

「表面上は」

 そう、ぼくがわからなかっただけで、リクたちの警戒の仕方は相当なものだったと思う。

「表面上は?」

 とぼけたような管財官補佐の声音に、大きく息を吐いて、心をなだめる。

「ぼくには、詳しいことはわかりません。エヴァンスさん、説明をお願いできますか?」

 管財官補佐は椅子を動かし、背後のエヴァンスの顔が見える位置に目線を向けた。

「スーザを出る前から、何者かの視線を、レナン殿の周囲に感じるようになりました。我々はレナン殿の警護に、ヤトゥ商会の精鋭幾人かを同行させ、警戒していました。一つ目の宿に至るまで、その気配は去ることなく、常に我々に付きまとってきました。夜になり、一時は襲撃を受けるかというくらいにまで、その気配は近寄ってきていたと思われます。そこへ、そちらのフィジ殿とキース殿が現れ、レナン殿と行動してくださるということで、頼もしい味方が増えたと思っていたのですが、朝になり、昼を過ぎてもその気配は止まなかった」

 ふっと息をひとつ吐いて、エヴァンスは続ける。

「日が落ちる前に、マンダルバ役人たちが宿の確認をするため先行しましたが、こちらに戻らず、同時に背後から強い気配が増えてきたため、我々は馬車を捨て、単騎で先を急ぐことにしました。そちらの役人不在で通行手形も持っていないため、身分を怪しまれ、実力行使で足止めを受けていたところ、先行していた我々にレナン殿も合流した、そういう状況です」

「お連れの方が、まだいらっしゃるはずですね?」

「はい」

 エヴァンスよりも先にぼくが答えた。

「ぼくたちを先に行かせるために、五人が、まだ道の向こうにいます」

 大きく息を吸った。

 吐く息は震えた。

 言葉は続けられなかった。

 エヴァンスがそれを繋ぐ。

「五人は、それなりの手練れです。あの道幅で相手が数十人ならば、とくに問題はない。ですが、暗闇でしたし、それ以上なら、怪我人くらいは出る恐れがある」

 エヴァンスたちのあの警戒は、数十人以上と判断されたものだ。

「なにが起こっているのか。あなたにはわかりますか」

 管財官補佐は、作られた笑みをやめ、一度くしゃりと笑うと、真剣な目つきでぼくを見やった。

「あなた方と面談する少し前より、当領境界付近で、不審な者たちの目撃情報が上がるようになりました。もともと、このレッテ山岳地のこちら側を当領としているのには訳があります。まず、こちらの補給路と人員の確保、こちらへ来る場合の道筋を厳選させ、迫ってきた敵に対し、こちらからの追い込みをかけやすくすること、それらを踏まえて、山岳の下るこちら側に境界を置いているのです。山岳の向こう側は、有事の際には、ある意味囮になります。他国の者には、このマンダルバはのんびりした土地と思われているようですが、それはこの境界警護兵の毎日の働きによるものです。領内の者は、彼らのおかげで毎日を安心して暮らしていられる。あなた方が昨夜通り過ぎた一帯は、この関所の前の、最後の要。こちらの警備兵が毎日交代であちらへ行き、警戒の任務に当たっている。それが、昨夜は、交代が行われることがなかった。そのことだけで、この境界警備兵が警備強化をする理由となるのです。敵、それは他国の侵略に限りません、盗賊の仕業も、過去に多くあった。こちらの無礼は、有事のことと、お許しください。幾人か他の経路で向こう側に向かわせていますが、いまだ報告は来ていません。こちらも、情報不足で二の足を踏んでいるところでした」

 状況はわかった。

 でも。

「仲間を、助けてはもらえませんか」

 管財官補佐は、ぼくの目を見つめたまましばらく答えない。

「快諾したいところではありますが、それはできません」

「どうしてですか」

 ぼくの声は震えて低く唸る。

「境界警備兵は、名の通り、この境界を守備することを任務としています。領外に出て戦うには、戦力が足りません。本来、戦となれば、本領より戦力が増員されることで戦闘が可能となります。それが盗賊相手であっても、他国侵略の囮の可能性もある。それは過去に痛いほど経験しておりましてね。どのような理由であっても、戦力が揃うまでは、こちらが動くことはない」

 言葉以上に、管財官補佐の態度は冷淡だ。

 じゃあ、どうすれば、リクたちを助けられる。

「それでは、その戦力とは、いつ揃いますか」

「臨時の増員であれば、麓の男たちがその任に当たります。一両日。準備と移動を含めれば、そのくらいは必要です。昨夜のうちに指令は向かっていますので、こちらに到着するのは早くても今夜半。本来は、ここの警備兵だけで、他国の敵襲であっても三日は守備のみで持ち堪えられる。この山の麓の領域には、多くの守備兵力も存在します。だが、彼らは日常の農業や他の仕事と兼務して、兵となってくれています。情報を得てからでないと、彼らへの招集は掛かりません。ご理解ください」

 それでは、遅い。

「管財官補佐殿」

「はい」

 息をひとつ吐く。

「お願いがあります」

「我々にできますことならなんなりと」

 一番の望みは叶わない。

 でもそれは、他人任せなことでもある。

 自分に、なにができる。

「こちらの、シチェックと、そして、そちらの二人を、預かっていてもらえませんか」

 シチェックの手をキュッと握り、タグとセリアを見やる。管財官補佐もそちらに目を向けた。

「安全なところに。お願いします」

 管財官補佐はうなずいた。

「承りました。早めに、麓の町まで案内しましょう」

「ありがとうございます」

 管財官補佐は立ち上がり、早速案内するそぶりを見せた。

「そちらのお二人も同行ください。どうも、アーノルト様がご立腹のようだと、こちらの耳にも入っておりますので」

 フィジとキースのほうに向けて管財官補佐が言う。

「悪いけど、それはきけないね。いま仕事中だから」

 フィジの言葉に、

「は?」

 と管財官補佐はとぼけた声を出した。

「仕事とは」

 さすがに普通の声に言い直したようだ。

「こちらの、レナンの守護を」

 管財官補佐の反応は少し遅れた。

「その依頼を、受けられたのですか」

「そう。だから、彼が動かないなら、あたしたちも動けないね」

「レナン殿、あなたも山を下りられるのでは」

 訝しげに、眉をひそめて、管財官はぼくを見下ろした。

「いいえ。ぼくは仲間を助けに行きます」

 管財官補佐は絶句したようだ。

「あなた方が動けないなら仕方ありません。ぼくにできることはないけど。あの、フィジさん、キースさん、手を、貸してもらえませんか」

 二人に向かい、心からお願いをする。

「お願いします」

 二人に向かって、深く頭を下げた。

 待つまでもなく、

「きみが行くところに、あたしたちもついて行くよ。その場所できみに危険があるなら、きみを守る」

 その言葉に、頭を上げる。

「ありがとうございます」

 本当に、ありがとう。

 管財官補佐の溜め息が聞こえて、そちらに目をやった。

「わかりました。私も同行します。幾人か兵士を連れて。それでよろしいですか」

「はい」

 ここに来て、微かにだけど、やっと笑えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る