アレが見えないのか?(2)

 数日後、仕事が片付きタクシーで家のマンションまで帰り、城壁の扉のような入り口へ足を運ぶ前に、道端で声をかけられる。



「パイセン」



「うお!? お前か? 脅かすなよ。何時だと思ってんだ。深夜、二時だぞ?」



 顔面蒼白で歩く死人のように、上半身をフラフラせる後輩。

 後輩はろれつの回らない口でしゃべりかけてきた。



「お、俺、おっ、パイ、パイセン、パイ」



「なんだよ! キモいぞ?」



 後輩は黙って指を刺す。

 その指は俺に対してではなく、こちらを通り越して背後へ向けていた。

 俺は恐る恐る振り向く。



「パイセン、"アレが見えないんすか?"」



「何もねえけど?」



「アレが、アレが、うっ、げぇ、げぇええー」



 後輩は口を押さえて電柱に駆け寄ると、激しく嘔吐した。



「汚えなぁ。おい、大丈夫かよ?」



 吐き終わった後輩を気遣い、肩に手をかけると、振り向いた後輩を見て、俺は言葉を失い後退る。



「パイ、セン、」



 後輩は口と鼻から、黒いオイルのようなヘドを垂らし、両目からドブ色の涙を流した。



 後輩は怯えた顔で「あぁ、来るなぁ!」と叫び走り去った。

 呆気にとられる俺は、その場で立ち尽くす。



 その日は仕事を休み、クラブで知り合った女と、銀座の老舗レストランで、シャンパンの色合いと香りを楽しみながらディナー。

 コースのメインデッシュは 最高級の和牛ステーキ。

 フォークで肉を押さえ、表面へナイフを縦に入れる。



 ぁあ? 肉が全然切れねぇよ。

 一番良い肉を注文したんだぞ? 焼きすぎか? 焼き加減はレアで頼んだのに、ふざけんなよ。

 肉の焼き加減について共感を求めようと、女の方に目を向けると、女は針のような指でナイフを操り、りきむ様子もなく、か細い腕で難なく切っていた。

 俺の肉だけ焼き加減を間違えたのかよ?



 ウェイターにクレームを付けようと、刃先を肉から退ける。

 すると、俺は自分の目を疑った。


 

 肉の表面は、ファスナーを下げるように、自然と切り込みが入る。

 神の奇跡で海が自然に割れたなんて話があるが、まさか、俺の目の前でも奇跡が起きてるのかよ? そんなわけねぇ。店が仕掛けたドッキリか? 



 そして、ゆっくり裂けた肉の中から、白い水晶のような玉が見え隠れする。

 小さな切れ目の為、よく見えず、俺は肉の裂け目を除き込もうとした。

 切れ目に挟まる水晶玉は、一種だけ震えたように見えると、ギョロリと一回転して黒い斑点が現れる。



 紛れもなくそれは、人間の瞳だ。

 俺はその瞳と目が合い、おぞましさで動けなくなった。

肉がさらに裂けると、目玉の主が、三日月のように半面を見せる。

 青白い女の顔だった。



 驚いた拍子に、思わずテーブルの下に膝をぶつける。

 テーブルの対面に座る女は、怪訝な顔で俺を気遣うので、微笑みを浮かべて誤魔化した。



「別に、こんな肉、見たこと無かったからさ」



 女はクスリと笑うと、再び皿に手をつける。

 俺も、自分が手を付けた皿に目を戻すと、二つに切られた肉の断面は、艶やかなピンク色に肉汁が流れ出ていた。



 俺はもう一度、ナイフの刃を表面に当て、肉を切る。

 今度は力を入れずとも、たやすく切ることができた。

 一口サイズに切った肉を、眺めた後に口へ運ぶ。

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