パンドラの箱

賢者テラ

短編

 視界の中を、無数のヘッドライトの光と一定間隔で立っている街灯の明かりとが、次々に映っては消えていった。しかし、そのことは別段、心に何の感慨ももたらさなかった。

 車のハンドルを握る雅也は、後部座席で顔を伏せるエミリに何と声をかけてあげたらよいのか、まったく名案が浮かばないまま、ただただ運転を続けた。

 気を利かせたつもりで、FMラジオをつけて陽気なポップスを流してみたのだが……そんなものぐらいでは陽気になどなれない目に遭った二人には、ただのやかましい音声でしかない。

 運転席の暗がりに浮かび上がった蛍光時計は、すでに午前1時をさしていた。

 静かに泣き続ける女と、彼女を扱いあぐねた男を乗せて、黒のスカイラインは首都高を疾走した。



 雅也は、昔っから無気力な男であった。

 何か目的を持って必死になった、という経験のない彼は、大学受験にも失敗してすでに二浪の身であった。今では八割がたあきらめていたので、もう勉強などしてない。そもそも大学を受けるにも、将来何がしたいとかいうビジョンすら持ち合わせていないのだから、合格どうこう以前の大前提からして地に足がついていない。

 そんな雅也にあきれた親は勝手にしろ、と彼を突き放し、援助を断った。

 それは息子を見放したのでは決してなく、追い込まれることで雅也が『これじゃいけない』と痛感して奮起してくれることを密かに狙ったのである。

 しかし、親の目論見は皮肉にも裏目に出た。

 学歴もなく定職もない雅也だったが、ネカフェ難民になるのだけは真っ平だった。そこで彼は一定期間必死でバイトし、生活も切り詰めて金をためた。

 そして、車を一台購入した。

 その車を元手に、彼が始めたこととは——

 それは、デリヘル嬢の送り迎えをするドライバーだった。



 アパートの郵便受けに突っ込んであった風俗のピンクチラシがきっかけだった。

 目をむくような高いサービス料に、いくら興味があってもオレには縁がないや、と思って捨てかけたが、チラシ裏の『ドライバー募集』の項に目が止まった。

 タクシーの運転手のように、雇い主側から車を支給されるケースはほとんどない。こういう風俗では、たいがい自前の車を使えることが条件とされる。

 その代わりガソリン代は勿論出るし、一日働けば同じ時間をコンビニや飲食店でバイトをする倍以上の日給を得ることができた。ただ、社会的保障は一切無かったので、事故などは絶対に起こすわけにはいかない、というリスクもあった。

 当然健康保険もないので、病気や怪我にもなるわけにはいかない。

 だから一生涯を安心して勤められる仕事ではまったくなかったが、体力が続き、事故にも大きな病気にもならない限りにおいては、それなりに生活できる。

 長い人生を考えればいつかは何らかの奮起をしなければならないのだが、雅也は実際に切羽詰まる状況に追い込まれない限りは、きっと動くことはないだろう。



 後部座席で泣いている二十歳の女の子は、源氏名をエミリちゃんといい、渋谷の道玄坂に本拠のある、東京23区をサービス対象とする高級デリバリーヘルス『プルミエール』に勤めていた。

 雅也は彼女を、都内のとある客の自宅に送った。

 送った後は、プレイ時間が終わるまでは外で待機し、終わったらまた乗せて事務所に帰る——。

 ただ、今日に関してだけ言えば、それだけでは済まなかった。

 エミリは客から、無理矢理本番行為を強要された。

 夕刊紙やスポーツ新聞の三行広告にあるような裏風俗ではない表のデリヘルは、決してそのようなサービスをしない。店舗型の風俗なら、有事の際にはすぐに店のスタッフが飛んでいけるが、こうした形態の風俗の恐ろしいところは、何かあってもすぐに助けが来れないことである。

 プレイ終了予定時間よりもかなり早いタイミングでかかってきたエミリからの電話に、雅也は嫌な予感がした。案の定、送話口に向かってろれつの回らない、くぐもった音声が聞こえてきた。

 ドタン、バタンともみ合うような音。辛うじて『助けてっ』という声が聞き取れた。雅也は弾かれたように車から飛び出し、問題の客の家にダッシュした。

 当然、玄関のドアは閉まっていたから、一軒屋の裏口に回る。

 台所に通じるドアがたまたま開いたため、そこから侵入し、現場を押さえた。



 警察は、こういう問題にはあまり親身になってはくれない。

「そもそもその一歩手前のようなサービスをしといて、興奮させといて……」

 実際はそうは言わないが、ホンネとしてはそういうところだろう。

 でも、とりあえずエミリちゃんは男に抵抗した際に口を切って、膝をすりむいた。雅也はデリヘルの店長と連絡を取り、一応警察を呼んだ。

 客の男は、もっとも軽い傷害罪に問われることになった。

 もし、エミリが一切怪我をしていなければ、逆に雅也の方が家宅侵入罪に問われてもおかしくない、というギリギリのところだった。



 事態は一応の解決を見たが、エミリは見るからに精神的ショックを受けていた。

「エミリちゃん、どう? ってか、明日来れそう?」

 電話で、店長は不安気に聞いてきた。

 そこそこ指名を取れる売れっ子のエミリちゃんに穴を空けられたら、店としても痛いはずである。

「難しいんじゃないでしょうかね、多分。まだ泣いてますし」

 後部座席のエミリをはばかって、送話口を手でかばい声をひそめて話した。

「……そっか~」

 電話の向こうで、店長は絶望的な声を上げた。



「あと、15分くらいで着くから」

 とりあえず、エミリを自宅まで送り届けることになった。

 通常は一旦事務所に寄らねばならないが、彼女の精神状態を考えて直帰させることにしたのだ。

 彼女のマンションがある池尻は、もうすぐそこだ。

「……お願い、降ろさないで」

 取調べ以来、彼女が初めて言葉を発した。

「え?」

 一体何を言い出すのか、とビックリする雅也。

「このまま家に帰って一人でいたら私、気がおかしくなりそう」

 エミリがどういう目に遭ったのかを知っているだけに、その言葉はかなりの重みをもって聞こえた。

 雅也も、別に明日がどうなろうがどうでもよかった。

 確かに勤務しなければ日給はないが、一日ぐらいどうってことない。

 そこは、会社勤めの人間には考えられない、風来坊的な気楽さがあった。

「で、どうすりゃいい?」

 目的地に着く必要がなくなった雅也は、住宅街へ入っていく細めの道を回避して、国道へ向かうべくハンドルを切った。

「……私、海が見たいな」

 


 池尻インターから首都高三号渋谷線に登る。

 基本的に、風俗の世界では店員と風俗嬢が仲良くなることは歓迎されない。

 雅也もドライバーとして、あまり親しげに彼女らとしゃべることは少なかった。

 無論、エミリちゃんとも、じっくり話したことなどなかった。

「私ね、清水美里っていうの」

 エミリちゃんは、源氏名ではない本名を教えてくれた。

「ホラッ、証拠だってあるんだからぁ」

 そう言って財布から免許証を取り出して、雅也の前でピラピラとはためかせた。

「そっ、そこまでしてくれなくても、し、信じるから——」

 もはや先の展開が読めなくなった雅也は、次に美里から何を言われるのかと心配になった。

「ねぇ、私の名前……呼んでみてくれるぅ?」

「いいっ?」

 雅也は焦った。彼女の機嫌が戻ったのはうれしいけど……何でこんな展開に!?

「……清水さん」

「違う違うぅ~!」

 本名をカミングアウトした美里は身をよじった。

「下の名前で呼んでくれなきゃ、やだぁ」



 ……な、なじぇにぃ?



 バックミラーで後を確認する雅也は、そこに期待するような眼差しで瞳をウルウルさせている美里を見てしまった。もう、後には引けない。

「……美里さん」

 下を向いて、仕方なさそうにぼそっと言った。

「えっ、聞こえなぁ~~~い」

 美里は耳に手を当てる仕草までして、要求してきている。

「美里さん!」

 雅也はヤケクソで叫んだ。

「すっばらしい!」

 しかし、それで満足する美里ではなかった。

「今度は『さん』を抜いて、言ってみよ~!」

「……一休さん、そんな殺生なっ」

 やり込められた桔梗屋さんのような情けない声をだして、雅也は嘆いた。

「ホラホラ~ 早くぅ~ 私はすぐに聞きたいの!」

 嫌がりながらも、実は雅也もちょっと楽しい気分になってきていたのだ。

 バカをすることで、さっきまでの重苦しいムードを払拭できるのなら、安いものだと思い直した。

 雅也はスウッと息を吸い込むと、ハンドルを握ったままBGMも吹っ飛ぶ大声を出してみた。

「……美里おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ~~~~~~」



「ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 雅也の絶叫がツボにハマったらしい美里は、お腹を抱えてケタケタと笑い出した。女性を下の名前で、しかも大声で叫ぶなどという経験を初めてした雅也は、何だかすがすがしい気分さえした。

 しかし。

 数秒の後、美里の笑い声は次第に泣き声へと変化していった。

 それはもう、見事なグラデーションであった。

「ああああああ~ん!」

 まるで、ちっちゃい子が泣いてるみたいだった。

 せっかく楽しく盛り上がりかけたのに、車内は再び気まずいムードに包まれた。



 かなり、長いドライブになった。

 高速を乗り継いで、茅ヶ崎までやってきた彼らは車を降り、湘南の海を前にして砂浜に座った。

 夜明けまであと一時間。

 海から吹き上げてくる風は、ちょっと冷たい。

 どちらからともなく、二人は身を寄せ合った。

「……さっきはごめんね。急に泣き出して」

 何の前触れもなく、彼女は雅也に訥々と語りかけてくる。

「私ね、長いことウソの名前でばかり呼ばれてきたからさ、正直なところ本当の名前で呼んでもらいたくて、あんなこと言ったんだ。ホント変だよね? 名前呼んでもらって泣いちゃうなんてさ」



 二人は、実に多くを語り合った。

 お互いのそれまでの人生、そして挫折——。

「あんたも私も、似たもの同士だね」

 そう言って美里は、色のあせかけた月を見上げた。

 夜明けが近いのだ。

「……でもいつか、何とかしないといけないんだよね」

 雅也は、美里を仕事上の送迎対象ではなく、一つの命として見ていた。

 そしてその命は、彼の真横で、まばゆいまでの光と熱を放って、息づいていた。

 彼女の心臓の鼓動さえ、聞こえてきそうだった。

「そうだよね」

 一人だと考える努力さえしてみなかったことが、美里と寄り添った今では真剣に考えなければいけないことのように、自分に迫ってくる。そのことを、雅也は不思議に思った。

「私……もうデリヘルの仕事には戻れない」

 色あせた月に代わり、地平線の向こうから顔をのぞかせかけている太陽に、彼女は視線を注いだ。



「大事な質問があるの。真剣に答えてね」

 美里は、雅也の腕にすがりつき、ギュッと力を込めた。

「男の人って……女とヤリたいから好きなだけじゃないよね? ちゃんと、そんなことだけじゃない愛情って、あるよね?」

 普通の感覚なら、そんなもの当たり前にある、と思うだろう。

 しかし、雅也は美里を笑えなかった。

 ただ欲望のためにモノのように見られ、その人格を踏みにじられ、仕事とはいえ欲望の数々に汚されてきた彼女は、冗談などではなく男性の愛が信じられなくなったのだろう。

 今のこの子には、常識や正しい答えなど役に立たない。かえって苦しめるだけだ。だから雅也の答えは、決まっていた。

 ここで心からそう言えなければ、この子は死んでしまうかもしれない。

「ああ、あるさ」

 美里の大きなまつ毛に溜まっていた大粒の涙が、ポロリと頬を伝った。

「……お願い、それを信じさせて」

 怯えきった兎のように震える小さな肩を、そっと抱きしめた。

 生まれて初めて、誰かのために何かを本気でしたいと思った。

 出来ることは何でもしてあげたい、と思った。



「……パンドラの箱って知ってる?」

 空が白み始め、太陽の全体が海の上に登ってきた。

「ああ」

 ギリシャ神話のパンドラという女神が、開けてはいけないと言われた箱を開けてしまったために、疫病・悲嘆・欠乏・犯罪などの悪いものが飛び出し、世に広まってしまった、という話だったはずだ。

「最後に箱に残ったのが、『希望』だったんだってね。だから人間は悲惨な目に遭いながらも、希望だけは失わずに生きていけるようになったんだって」

 雅也は美里の言葉を聞きながら、オレンジ色と藍色がまだらに混じり合う朝焼け空を見上げた。

 キボウって、ひとりじゃ持てないんだな。

 自分のためじゃなく、誰かを想ってこそ持てるものなんだな——。

 


 どちらからともなく、二人は見つめあった。

 互いの瞳の中に、映りこんでいる自分自身を見たような気がした。



 ……あなたは私の最後の 『キボウ』 になってくれますか?



 言葉にしないが、心の中でそう叫び合っていた。

「仕事辞めて、明日っからどうするつもり?」

 我に返って、フッと笑みを洩らした美里は、顔を上げた。

「一緒にそれ、考えてくれる?」

 雅也は答える代わりに、美里に顔を寄せた。

 美里は逃げずに、目を閉じて雅也の唇を受け止めた。

 それは性的なものをすでに超越していた。

 すべての魂の傷を癒し、すべての心の汚れを洗い流すキスだった。



 朝日は、二人の再生を祝うかのように、その輝きを二人に注ぎかけていた。

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パンドラの箱 賢者テラ @eyeofgod

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