義務をやめるわけにはいかない

naka-motoo

放棄はやりたいことだけやれる人の特権

 義務。


 おそらくは今の時代に一番耳障りで、人の手を縮こませる言葉かもしれません。


「我慢とて○○の嫌わせたまう自慢あれば」


 ○○の中に入る言葉はわたしが書くのは畏れ多い言葉ですので皆様がお好きな言葉を入れればよいと思いますけれども、「我慢」というのはある意味「自慢」であり、我慢ではなく「させていただく」あるいは「好きだからやっているだけです」というのが一番いい状態なのだろうと思います。


 ただ、「本当に好きなことをやっている」人と「もともと好きではないけれども愚痴を言っても始まらないので納得してやっている」人との間には天地の開きがあります。


 介護、というものがあります。


 それが親に対するものであれば、「扶養義務」という範疇であり、やることは「当たり前」のことでありかつ「義務」です。


 やりたいかやりたくないか、やることを諦めるか諦めないか、そういうことははっきり言ってどうでもいいことです。


 重要なことは、それに携わる本人の思想や信念や経済状況といったものは特に意味がなく、ただ単に目の前に『扶養しないといずれ死んでしまう』親なり祖父母なりが放り出されているという現実があるだけです。


 結果として介護をするのであれば、その行為が偉いとか納得してやるとか他人の評価を気にしないとかそういう一切合切はどうでもよく『介護をしている』という事実があるのみです。


 飛躍とお思いでしょうが『いじめ』に遭う子も同じです。

 よくいじめに遭う側にも原因があるとか、いじめに遭ったことなど忘れて人生の時間を進めろとか言う方もおられますが、そういう陳腐な考え方をしようがしまいが、その子が『いじめに遭った』という事実があるのみです。いじめる側には『いじめをした』という事実があるのと同様、後から誰が何を言ったとしても、その子が『いじめに遭った』という事実があるのみです。


 少しでも前向きに生きていても、悲しみに長い時間暮れずにはいられなくても、いずれにしても、『虐待があった』『戦災に遭った』『武士として戦地に赴き戦死した』『震災で大勢の方が亡くなった』『通り魔に大切な人を殺された』、こういう事実が厳然としてあるのみです。


 おそらくわたしのココロの持ちようをどうこうするということは特に問題ではなく、義務を履行するのか、履行しないのか、その二点があるのみであって、たとえば扶養義務を履行できない方がおられたとしたら、代わりに誰かがその義務を履行しているか、あるいは目の前の老人が餓死なりしてひっそりと消えていく、ということなんだろうと思います。


 姥捨て山というものがありますけれども、義務の履行を『諦める』という世の中になっていったとしたら、姥捨て山を合法にせざるを得ない日がそう遠くない内にやってくるだろうと思います。

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