旧き守護神と旧き主(5)

 最悪の展開だった。

 こうなってしまっては私にはどうすることもできない。

 ここでランドール副官の命令を拒絶したり煙に巻いたりすれば、ハイバルを庇ったソフィと同じ、今度は私も叛逆者だ。

 では、ソフィのことを殺すしかないのか? それも、リクラフの手で?


――冗談じゃない。私にだって、それがどれほど悪趣味なことか、わからないわけじゃない。


 全力で踏まれたつま先の痛みなど、もう感じている暇もない。

「……ソフィ、そこをどいて」

 私は立ち直りながら、精一杯の希望を込めて、ソフィに最後の機会を与えた。「どかないのなら、まとめて排除するしかない。最後の警告よ、今ならまだ間に――」

「ええ、どかないわ!」

 ソフィは叫んだ。私に対してだけでなく、その場にいる全員に自分の意図を知らしめるように。「やれるものならやればいい! ハイバルを殺すのなら――リクラフを殺しの道具で使い続けるのなら、わたしから先に殺してみなさいよ!」

「こ、この……馬鹿娘っ!」

 思い切り、私は叫んだ。「わかったわ、それがあなたの答えね! 本当に悔いはないな!?」


 怒りとも、悲しみとも。この歯ぎしりをもたらす気持ちの名前は。

 どうしてわかってくれないのだ。

 私にはあなたを殺すつもりもなかった。こんな状況に持ち込むつもりさえ。

 私はただ普通の本読み友達として、賢くて愛らしい妹のような存在の、そんなあなたと、これからも時々お喋りできれば、なんて、たったその程度のことを願っていただけなのに。


――そんなにその男と心中したいのなら、お望み通り殺してやる。

 理幣を取り出し、眼前で両手に挟み込み、全身がまるで青い炎のように静かに燃え上がるのを感じながら唱え、そして願った。


「リクラフ、ソフィ・ユリスキアとハイバルを殺せ」


 そして、リクラフが動く

――ことはなかった。


 3秒が経った。

 そして10秒が経った。

 それでも。

 ソフィの荒い息遣いだけが甲渠に響く。リクラフは、ぴくりともしない。


「……どうした?」

 私はリクラフに問うた。

 こちらの指示が理甲に届いたなら、胸の奥がぶるりと震えるあの独特の感覚が生じるはずだ。それが、いつまで経ってもやってこない。

 ということは、リクラフが指示を受け付けなかったということだ。

 聞こえないわけがないはず。届かないわけがないはず。


 何も動こうとしないリクラフから、ランドール副官とアルバント中佐へ、そしてカウリールたちへと、私は順番に視線を動かした。私の眼に映る誰もが私と同じように、互いをせわしなく見つめている。誰もが状況が理解できていない。この状況への回答を、せめてもの考察を誰もが求めていた。


 ただ、ソフィだけが、意志の滾る眼を、堂々と張った胸を崩すことがない。

 そして、息を吹き返したのはソフィの背後に座るハイバルも、だ。その口から「ふぅ……」という安堵のひと息が漏れるのを私は聞いた。



「……なんでだ? リクラフにかかっていた能力限定は、もう解除されたはずだろうが……」

 ようやくこの静寂を破って、アルバント中佐が呟いた。

 その呆然とした語調は、その場にいた理官全員の気持ちと見事にシンクロしている。

「――リクラフ、説明しろ!」

 私は未だにびくともせず佇むリクラフを怒鳴りつけた。「命令遂行に必要な理幣は既に供与し、指示も下した。なぜ聞き入れない!」

 そこまで言ってリクラフはようやく動いた。私の方へ顔を向ける。冷めた表情と澄んだ瞳で、私を射抜くように。

「すみませんが、ウィルダ。今のような無目的な殺傷の依願は、お請けできません」

「む、無目的な殺傷、だと……?」

 その場の理甲師団関係者一同、誰もが耳を疑った一言だった。「その誓約なら、さっきソフィが解除したはずだ」

「はい。確かに、1890日前にソフィ・ユリスキアとの間で結ばれた誓約解除しています。しかし、それは関係がありません」


“については”?

 既にソフィが結んでいた不殺の誓約は解除されている――が、「無目的な殺傷」とやらは行えない?


「――いいとこまで行ったのに、残念でしたね、エリザさん」

 ソフィの後ろでうずくまっていたハイバルが、その場でゆらりと立ち上がった。「あなたたちの芝居に裏をかかれてしまったのは事実です、俺も死を覚悟しました。だが、あなた方は今、些細ですが決定的な手違いを起こしてしまった。もう俺をここで殺す機会は、」

「だ、黙れ!」

 私はハイバルを怒鳴りつけ、神経を逆撫でするその声を遮った。

 言われた通りにハイバルは「はいはい」と言ってそれきり黙った。すっかり安全を確信したらしい、微笑と共に。


『些細だが決定的なミス』って、何のことだ?

 混乱の余り視線もうまく定まらず、思考整理のための数秒間の沈黙を挟んでから、食って掛かるようにリクラフに叫んだ。

「答えろリクラフ! ソフィがあの時に結んだ誓約以外にも、お前を縛りつける誓約が他に存在するということか?」

「その通りです」

 リクラフはその瞳と同じぐらいに明瞭な発音で、しかしその表情と同じぐらいに無感情に語り始めた事柄に、その場の空気は凍りついた。


「ソフィ・ユリスキアを含む、ユリスキアの正統継承者20名との間で締結した誓約 計498条――うち、ユリスキア以外の外部部族に対する行動に関して合意した全18条の規律が存在し、その全てが効力を有しています。その中において、特定の状況を除き対象の殺傷につながる行為は、原則として禁じられています。繰り返しますが、1890日前にソフィ・ユリスキアとの間に結ばれた2条の誓約、先刻解除することに同意した通りです」


  498――桁がふたつほど狂っているのではないのか。アルバント中佐が今にも卒倒しそうな表情を浮かべたのが、状況を物語っている。


 一縷の望みをかけて、私は可能性を探ろうとした。

「……その誓約とやらを、全て口述することは?」

「ウィルダの指示によって行えと言うのであれば、できません。ユリスキアの正統継承者以外の方に誓約の詳細をお話することは、まさに誓約によって禁じられています」

 リクラフの返答は完全に素っ気がない。取りつく島もない。

「だったら、それもソフィから頼めば」

「いいえ、ウィルダ」

 焦る私を制してリクラフは答える。「仮にソフィの請願であっても、正当な理由なくして全ての誓約を直ちに解除することは、お請けできかねます。ユリスキアの総意に対して、私は合意をしているからです。そればかりは承認できません」

 リクラフの返事を聞いたアルバント中佐がぽつりとぼやいた。

「……信用が足りない、ということか」

「ど、どういうことですか!」

 私は勢いよく振り返り、中佐を睨んだ。

 彼の表情も茫然とした感情に包まれているが、おずおずと答え始めた。

「その……リクラフは、これまで20世代もの酋長と誓約を取り交わし、大事に守ってきたわけだ。それを、我々の一存で、一方的に解除することはできないということだ。言い換えれば、“その資格がお前たちにあるのか?”とリクラフはこちらを疑っているのだ。まさに信用の問題だよ」

「しかし、さっきはソフィがすぐに誓約を解除できたではないですか!」

「すぐに済んだのはソフィ・ユリスキア自身が当事者として結んだ誓約だったからだ。だが彼女の先代が結んだ誓約なら、ソフィ・ユリスキア自身も全くの部外者ではないにせよ、少なくとも誓約の当事者ではない。つまり完全に第三者の我々ともそう立場が変わらない……」

 ここにいる我々いずれも当事者として結んだのではない誓約を解除させる――それだけの信用が足りない。

 では――では、どうすればいいのだ。

「ちなみに中佐殿、今リクラフの言った計498条もの誓約を全て解除するとしたら、それはソフィの協力といくらかの理幣をつぎ込めば、どうにかなるような話なのですか?」

 アルバント中佐は丸刈りの頭を抱えて呻いた。

「それはやれるかどうかではなく、やる価値があるのかどうかの問題だ。――有り体に言えば、やってられんよ」


“やってられんよ”――中佐の言葉が全てだった。

 未開部族ユリスキアが結んだという約500ものわけのわからぬ誓約を全て解除し、リクラフを自在に使役できるようになるまで、一体どれほどの理幣と時間が必要になるのか。

 そして、そこまでするほどの価値が、もはやこの理甲にあると言えるのか。


 なるほど。こうなることがわかっていたからこそ、ソフィは頑なに能力限定の解除をしらばっくれ続けたのだ。

 そのはったりによって、ソフィは5年間という時間を稼ぐことができた。しかし、理甲師団にしてみれば、5年間という時間を無為にしたことに他ならない。



「……こんなポンコツに期待した我々の5年間は、何だったのだろうな」

 ランドール副官の冷静な語り口には相当な憤りが押し込まれているのがわかる。「――リクラフはやはり廃甲が妥当だと師団長には報告しておく。元はと言えば、他の理甲同様に従順に使えるようになる最後の機会としてこの場を設けたのだ、こうも次から次へと面倒が生じるなら付き合い切れん。――カウリール上級理官、代わってここにいる蛮教徒カルト2名を始末しろ」

「喜んで」

 ようやく出番とばかりにカウリールは胸を張り、自分の両脇に立つ2人の理官をちらと見て、ソフィとハイバルの方向へあごをしゃくった。


 この場にいる理甲は、リクラフだけじゃない。処刑人が変わるだけの話だ。

 ハイバルをこの場に連行してきた2体の理甲が、それぞれ動き始めた。

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