5ー6 内なる獣の正体

 イチが昏睡してから四日目のこと。ジェニーが見舞いに来てくれた。


「アンタ大丈夫? 酷い顔してるわよ。お腹空いてるんじゃない?」


 時刻はそろそろ正午というところだ。

 もう時間の感覚も麻痺している。カーテンを締め切り、イチのベッドの脇の椅子に座ったまま、そこから動く気にもなれなかった。


「サンドイッチ作ってきたから食べなさいよ。どうせロクに食事もしてないんでしょ?」


 図星だった。

 顔を持ち上げると、ジェニーのエメラルドグリーンの髪が目に入る。無彩色ばかりのこの病室で、ひときわ鮮やかに映えるそれは、遠い遠い日常の色だ。


「ジェニーちゃん、お店は?」

「もう、そんなの気にしなくていいのよ。このご時世、大してお客も来ないんだから。それより早く食べてよね。時間が経つとパンが水分吸ってしんなりしちゃうんだから」


 筋肉の畝る太い腕に引かれて立ち上がらされ、病室を出て談話室まで連行される。

 カフェにあるような柔らかな色味のテーブル席が六セット、壁際にはお茶と飲料水のサーバー。出入り口から最も遠い席を選んで、二人は差し向かいで腰を下ろした。


 ジェニーは手提げからラップ紙で包んだサンドイッチを取り出し、テーブルの上に並べていく。結構、量が多い。


「最近お客さんが少ないせいか、在庫がやたら多くて。だから心置きなく食べてちょうだい」


 空腹は感じなかったが、こう言われては食べざるを得ない。

 シュカは目の前の一つを手に取り、包みを開いた。その瞬間、香ばしい匂いが鼻腔をすり抜けていく。

 中から出てきたのは、照り焼きチキンのサンドイッチだ。耳付きの山形食パンは軽くトーストされ、とろりとした飴色のタレが絡んだチキンと瑞々しいフリルレタス、ポテトサラダが間に挟まれている。

 別の包みからは、ムラなく焼き上げられた玉子、スライストマト、チーズとレタスのサンドイッチが出てきた。

 その、目にも楽しい彩り豊かなサンドイッチを見て、シュカは大事なことを思い出す。


「ジェニーちゃん、こないだはごめん。せっかくご馳走やケーキも用意してもらったのに」

「どうってことないわよ。あの日は他にもお客さんがいたから、サービスで食べてもらったわ。これで少しはリピーターも増えるかしらね」


 軽い調子でそう言われ、シュカはようやく僅かに口角を上げた。おずおずと手を合わせ、小さく「いただきます」と呟く。

 まずは照り焼きチキンの方を、一口齧る。ざく、というレタスの歯ごたえと共に、タレの甘辛さが口いっぱいに広がった。

 そのままもぐもぐと咀嚼する。久々に顔の筋肉を使ったような気がした。


 二口、三口と頬張るたび、張り詰めていた気持ちが緩んでいく。胸の奥から込み上げる何かを堪えることが難しくなってくる。

 そしてとうとう、一粒の涙が零れ落ちた。

 初めのうちは、どうにか我慢しようとした。だが、後から後から押し寄せるように波がやってきて、呆気なく堰が切れた。


「うっ……ぐっ……」


 喉を詰まらせながら嗚咽を漏らす。唇を噛み締めて、呼吸と共に洟をすする。溢れる涙は、拭っても拭っても止まらない。


「泣くほど美味しかった?」


 ジェニーが淡く微笑んでいる。笑みを返したかったが、やはり無理だった。

 シュカが落ち着くまで、ジェニーは何も言わずに待ってくれていた。


「シュカはちょっと頑張りすぎよ」

「そう、かな……」

「そうよ」


 即答されて、少しだけ笑う。


「イチの電脳チップ……入れなきゃ良かったよね」

「まぁ、そう思っちゃうわよね」

「あの日、仕事なんか行かずに一緒にいたら、こうなる前に止められたかもしれないのに」

「緊急事態だったんでしょ。仕方ないわよ」

「私、いつも仕事ばっかりで、イチに寂しい思いをさせてた」


 電脳チップを早々に入れたのも、休園などの不測の事態にイチの預け先を確保するためだった。思念話メッセージにはイチも喜んでいたが、根本的には自分が滞りなく仕事をするのが第一目的だ。


「自分でも、分かってたんだよ。もっと安全で、もっとイチとの時間を確保しやすい仕事をした方がいいって」

「別の仕事を始めるのも大変よ。今の職場だったら、いろいろと配慮してもらえるでしょ」


 もちろん、その通りだ。

 だけどそれなら、ハンターではなく裏方に回れば良い話なのだ。

 そうしない理由。

 ハンターを続ける理由。


 心臓が、騒いでいた。

 怖かった。本当のことを口にするのが。

 否定されそうで。軽蔑されそうで。


「シュカ?」


 呼び掛けられて、顔を上げる。自分に注がれる真っ直ぐな眼差し。

 もう、黙っておく方が苦しかった。

 音のしない呼吸を数回繰り返した後、シュカは小さく口を開く。


「……声が、聞こえるの」

「声?」

「『ころせ』って」


 ジェニーの視線は微動だにしない。シュカはそのまま続ける。


「私の頭の中で、誰かがそう言ってる。あの怪物たちを木っ端微塵に撃ち砕いて、バラバラに斬り刻んで、徹底的に破壊して……そういう衝動が、身体の奥に巣食ってる。レイさんが死んだ、あの時からずっと」


 身体じゅう震えていた。息が浅い。心が掻き乱される。


「仕事に行ってワームを狩ってさえいれば、どうにか大丈夫だった。だけどそうじゃない時は、いつも変な夢を見るんだ。私はあのエリアの中にいて、あの時の怪物と戦ってて……レイさんが……」


 網膜に焼き付いた赤い色。

 ころせ。内なる何かがそう囁く。

 シュカを修羅の道へといざなう声。

 それにはとても抗い難い。


「自分で止められなかった。止めたいとも思わなかった。だって——」


 なぜならあの時、意識を失いかけるほどに。

 何もかもを忘れ去ってしまえるほど。

 堪らなく。


「……気持ち良かったの、すごく」


 絞り出した声は、酷く掠れていた。


 ずっと求めて止まなかった。歪んだ欲望が、身体の芯からこんこんと湧いている。

 あいつらを、めちゃくちゃに痛め付ける快感を欲して。

 まるで飢えた獣だ。

 従わなければきっと、自分自身が喰い千切られてしまう。

 この、行き場のない怒りと憎しみに。


「だから、ワームでも何でもいいから、とにかく狩った。私がハンターを続けるのは、そういう異常な理由なんだよ。そんなエゴで、イチを振り回してる。母親失格だよ」


 自嘲気味に、そう吐き捨てた。


「そもそも、レイさんが死んだのは、私のせいなんだ。私はいつも引き際を間違える。あの時だって……」


 四方八方に大きく開いたクリーチャーの頭部。

 その奥に見えたコアらしき淡い光。

 あれを撃ち抜かねばと、半ば無意識的に銃を構えていた。

 これまで何度考えただろう。

 もしもあの時、即座に逃げていたら、と。


「レイさんは、私の身代わりで死んだんだよ」


 後悔は意味のないことだと分かっていた。

 だから、その割り切れない思いすら、ひたすらにワームを狩り続けることで誤魔化していた。


「本当はとっくに知ってたんだ。私、おかしくなってるんだって。怖いよね。今だってクリーチャーをズタズタに壊したくて堪らないんだ。どうしてこうなっちゃったんだろう。引き際がさ、分かんないんだよ。ハンター、さっさと辞めれば良かったかな。イチを産んで、そのまま引退してたら良かったかな。そしたらレイさんは死なずに済んだろうし、トバリさんも左腕を失わなくて良かっただろうし、イチだって——……ねぇ、このままイチが、し、死んじゃったら……また、私のせいで——」

「シュカ」


 ジェニーのごつごつした大きな手が自分の手に重なって、シュカはようやく口を噤む。呼気が震え、自分の頬がまた濡れていることに気付いた。


「もう、いいわ。そんなに自分を責めないでちょうだい」

「でも……」

「ずっと戦ってるのね、シュカ。怪物を相手にしてる時だけじゃなくて、普通に生活してる時も、寝てる間も。今だってそうでしょ。休む暇もなく戦い続けてる」


 彫りの深いまなじりに、ささやかな皺が寄っている。


「引き際が分からないって、そりゃそうよ。アタシの知る限り、今までアンタが引いたとこなんて見たことないもの」

「……そうだっけ」

「そうよ」


 即答されて、今度は小さく吹き出す。


「ほら、覚えてる? 高二の時だっけ。電子ドラッグ作って売り捌いてた不良グループをアンタがズタボロに壊滅させた——」

「いやいやいや、ちょっと待て、なんで今その話? というか言い方! 証拠揃えて警察に突き出しただけでしょうが」

「その後で報復しに来た奴らをボコボコの返り討ちにしたのはどこの誰よ」


 返す言葉もない。

 たぶん、母校に残っている『伝説』はこの件だろう。


「ほんっと、ヒヤヒヤしたんだから。後先を全く考えないあの勢い。あの時アタシがついてたからいいようなものだったけど、そうじゃなきゃ完全に危なかったわよ」

「う……ごめんなさい……もう時効にしてください……」


 ジェニーが片眉を上げる。


「弱きを助け、強きを挫く。そもそもアンタ、そうやって何かに立ち向かってないと、ロクに息もできないんじゃないの」

「そう、かな……?」

「そうよ。嫌いじゃないわよ、その生き方」


 柔らかな笑みを含んだ声が、心に沁み入っていく。


「アンタの良いところは、『レイさんが自分の身代わりで死んだ』から『私が死ぬべきだったのに』には行かないところよね」

「……その発想はなかった」


 それは、イチがいたからだ。


「仕事に行ってひたすら怪物を狩るのも、言うなれば生きるためなわけでしょ。イチ坊との生活のため、それからアンタ自身の心を平静に保つため」

「……まぁ、ある意味では」

「だったら、何も間違ってないわよ」


 ジェニーの眼差しは真剣で、シュカは思わず息を呑む。


「変な強迫観念があるなら、専門のカウンセリングを受けた方が良いかもしれない。だけど、アンタは基本的に間違ってない。一生懸命生きてる」

「ジェニーちゃん……」


 また、目の奥が熱くなってくる。


「イチ坊は、そんなアンタの姿をちゃーんと見てる。大丈夫、アンタとレイさんの子よ。きっとそのうちケロッと目を覚ますわ」

「そうかな……そうだといいな」

「そうよ」


 強く言い切られた返答が、雁字搦めで身動きできない心を僅かに解きほぐした。

 肩の力が抜け、思い出したように腹の虫が鳴る。ちょっと照れ臭くて、シュカは赤茶色の髪を緩く掻いた。


「さぁ、食べてよ。腹が減っては戦はできぬ、でしょ」

「そうだね、ありがとう……」


 途中になっていたサンドイッチをぺろりと平らげると、身体じゅうに温かな血が巡り始めた。

 生きている。

 これからも生きねばならない。


「ねぇ、イチが目覚めたらさ……改めて誕生日パーティの予約していい?」

「もちろんよ。待ってるわ」


 そう言ってウィンクしたジェニーは、やっぱりとびきりチャーミングだった。




 ジェニーと別れ、病室に戻る。

 眠り続けるイチの、小さな手を取る。

 柔らかな熱を宿す身体。触れることのできる確かな命。

 世界で一番大切な宝物。

 自分に、何ができるだろうか。この先も、一緒に生きていくために。


 その時、思念話メッセージが入った。トバリからだ。


『シュカ、例のメッセージの発信元が割れた』


 また身体の奥底で、獣が蠢く音がした。

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