第6話 君の名は

「あの時な」

 この店のマスターとなった健二が言う。

「あの時?」

 聞き返す俺に、コップを拭きながら健二が言う。

「俺もお前に内緒で就職試験受けてたんだ」

「なんだ、噂は本当だったのかよ」

「ああ、すまん。親からどうしてもと言われて、親が申し込んでた会社の試験を受けたんだがな」

「受かったのか」

「そりゃあ、親父のコネのある会社だったからな。あれで落ちることはないな」

 健二は次のコップをまた拭き始める。

「でもな、5年持たずに辞めちまった。そしたら叔父貴が、何年かしたら引退するから、そんときゃこの店を継がないかと言ってくれてな。俺が嫌々会社勤めをしていたのがわかったんだろうな」

「お前、この店でバイトしてる時生き生きしてたもんな」

「ああ、好きなんだよ、この店。それから叔父貴が怒る親父をなだめすかしてくれたお陰で、今ここにいるんだよ」

「なんだ。じゃあ俺はもう気に病まなくてもいいってことか」

 俺はふっと肩の荷が下りた気がした。

「ああ、またいつでも来いよ」

 

 ——ガランガラン

 健二とそんな話をしているとき、喫茶店の扉が開き、鞄を脇に抱えて髪をチリチリにした女が入ってきた。

「千春ちゃん、まいど」

「マスター、参ったわ。またネームが通らなかった。あーあ」

 そう言いながら、隅のテーブル席に向かう。

「そりゃ残念。出直しか。どうだい。たまには甘いウインナコーヒーでも飲むかい」

「何よ、マスター。今日珍しく優しいじゃん。もしかして口説いてんの」

「よせやい。ダチの惚れた女を口説くほど飢えちゃいないぜ。頭疲れた時は、甘いものが欲しいかなと思ってさ」

「ははは。冗談よ。でも、気持ちは有難いけど、あれはあたしと髭のマスターの大切な思い出の飲み物だからね。同じ味が出せるようになったら飲ませてもらうわ。トラジャ淹れて」

 健二は肩をすくめ、俺を見ながらニヤリと笑った。

「だとさ」

「ダチの惚れた女、か。お前のダチなら、もう惚れたはれた言うようなガキじゃあるめえ」

「確かにな。お前、結婚は」

「いや、まだ。しそびれた」

「なら、ガキじゃねえが、まだ惚れたはれたもできるだろ」

「何を今更」

「千春ちゃん、まだ独身だぜ」

「千春ちゃん?」

「なんだよ。さっきはまだ未練あるんかと思ったが気のせいか」

 言われて隅のテーブル席に振り向くと、ちょうど顔を上げた彼女と目が合った。

 そこには高校生の頃サラサラ黒髪だったウインナコーヒーの君が、チリチリの頭になって座っていた。


 ——そうだ。君の名は。


「あっ、サラッと言われたけどさ、惚れたダチって誰よ!」

 千春の声が喫茶店内に響いた。

 

 


 

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