見るなのタブー

サクラ

 見るなのタブー

 ミーンミンミン、ミーンジージー……。


「雨野さーん、お届け物でーす」

 それはお盆も明けたある日のこと。朝、まだまだ威勢のいい蝉の声に交じって妙に間延びした声がした。

「こんな朝早くからなに?」

 まだうまく回らない舌を動かしながら、私は無造作に枕もとの時計を手に取った。針が指すのは9時半きっかり。完全に寝坊だ。

 慌てて起き上がって手櫛で髪を梳かした後は、三面鏡にいーっとごあいさつ。ほんとうは寝間着でもいいのだろうけどなんだかちょっと気恥ずかしい。洗濯を終えたばかりのラフなワンピースに腕を通した。脱ぎ散らかした寝間着を踏みながらワンピースの裾をはたく。

「雨野さーん?」

 彼の声が追い立てる。はーい、という声は聞こえただろうか。机の上のネックレスをつかんで、私は玄関に向かった。


 申し訳ないことにこの暑い中待ちぼうけをくらわせてしまった宅配人は、初めて見る若い男の人だった。

(今までのおじさん、担当区域変わったのかな?)

 受領印を押しながらぼんやりと考える。まあこうして宅配便を受け取るようになったのはこの春からのことなので何とも言えないが。宅配業者というのは案外頻繁に変わるものなのかもしれない。

「ありがとうございましたー」

 流れ出る汗をぬぐいながら青年はバイクにまたがった。きっとここから何軒も回るのだろう。待たせてしまって本当にごめんなさい。今度からは寝間着でも出ることにします。私は走り去っていく青年の背中にそっと頭を下げた。


 そのままリビングに行った。どうも腕にずっしりくる荷物だ。クーラーをつけてテーブルの上に置く。そこで初めて気が付いた受取人の欄に書かれた名前に私は目を丸くした。

「雨野羽珠さま?」

 思わず口に出してしまった。生まれてこの方自分宛てに荷物が届いたのは(多分)初めてだ。昔教師をしていた祖母には今年も大量のお中元が届いたものだから、てっきり今度もそれかと思っていた。

  誰からだろう、そう思って見た差出人の欄に私はまたもや驚かされた。何だか体がぞくっとする。これはきっと驚いたからだけの理由ではない。もちろん効き始めたエアコンのためでもない、と思う。


 差出人の欄には『同上』と書かれていた。

 もちろん出した覚えはない。しかし不審に思って見れば見るほど伝票の文字が自分の文字に見えてくる。羽珠の朱の部分の最後をはねてしまうのは治らない私の悪癖なのだ。字のきれいな祖母からはずっと注意されてきた。

 とりあえず開けてみよう。ぞくぞくする気持ちはさっきの悪寒とはきっと違う。それに、もしかしたら…。私は胸元のネックレスにそっと触れた。

 

 段ボール箱を開けると中には厳重に梱包された何かが入っていた。そっと取り出して慎重に包み紙をはいでいく。

「それ」は、宝箱だった。海賊が追い求めているような、金属でできたアンティーク調の宝箱。埋め込まれているのはもしかして宝石だろうか。ずっしりと重いけれども、振ってみると中からカラカラと音がする。そして期待通り、「それ」には鍵穴があった。


「ようやく鍵穴のおでましだ…」

 思わず口角が上がる。ネックレスの先についた小さな鍵は、こいつをずっと待っていたに違いない。そう、私がこの鍵を手にしたあの日から。

 

 桜の花に緑が混ざりだす頃、祖母は街の病院に入院した。初めは2週間の検査入院の予定だったのが長引きに長引き、4か月たった今でも帰ってこない。おかげで今でもこの無駄に広い家は私の天下にある。小さい頃は独り占めしたくってよく留守番をかってでたものだが、実際手に入ってしまうとひどくつまらないものだと思う。

 祖母は家を出る時、このネックレスを私の首からさげて言った。

「この鍵をいつも肌身離さず持っていなさい。ただし、決して鍵を開けて中を見てはいけないよ。なに、私が帰ってくるまでだけだよ。すぐに帰ってくるから預かっていておいてくれ。」

 それ以来、お風呂と寝る時以外はずっと身に着けていた。学校に行く時でさえも。なのに問題の鍵穴は一向に現れなかった。旧約聖書、ギリシャ神話、古事記。本棚に並んだ背表紙を鍵でつーっとなぞった。こんなのにしたって、鶴の恩返しにしたって、青髭にしたって物語の結末はみんな同じ。見るなと言われたものを見てしまった者には悲劇的な結末が訪れる。ウィキペディアにはそんな話をひっくるめた記事に「見るなのタブー」というタイトルをつけていた。たぶんこの鍵も開けた者に不幸をもたらすのだろう。でも青髭の鍵とこいつには根本的で絶対的な違いがある。鍵穴が分からないことには、たとえどれだけ好奇心に駆られたとしても開けようにも開けられない。鍵と鍵穴がセットとなって初めて、物語は成立するというものだろう。


 そんな待望の、というのもおかしな話だが、鍵穴が今ようやく目の前に現れたのだ。伝票のついた段ボールがテーブルの下に落ちたことにすら気づかなかった。私はそれほどこの宝箱に惹きつけられていた。焦げ茶のボディには金色の縁取り。鍵穴も同じく金色で、その少し上にはルビーのように真っ赤な宝石が埋め込まれている。つばをごくりと飲み込んだ。頂点と左右の側面にある組み込まれた紋様はとても繊細で、どんな骨董屋に飾られているものよりもいっとう美しく思えた。


「もちろん開けないよ?」

 言い聞かせるようにそっと呟く。パンドラの箱を開ける勇気は私にはない。確かに心待ちにはしていたけれど、ここから先物語を進める気はない。いや、決して進ませない。宝箱は妖しく光り輝いていて、首から下げた鍵の金色に反射した。そんな気がした。



「なんだ、開けないの」

 どこに置いとこうか、なんて考えながら宝箱を持ち上げたとき、不意に凛と澄んだ声がした。まだ声変わりの終わっていない少年特有の高さを持ち、それでいて落ち着いた、ゆったりとした声だ。

「だれ?」

 振り返って声をあげ、誰もいないことを確認してから視線を落とした。気のせいでなければ私の手元から、そう、ちょうどこの箱から聞こえたような……。

「『だれ?』か。難しい質問だね。それはたしかヒトに用いる疑問詞のはずだよ?ボクの記憶によれば。この場合正しい問いかけ方は『なに?』じゃないかな」

「わっ」

 いきなり現れた影に驚いて、私は思いっきり尻餅をついた。おそるおそる顔をあげる。そこに立っていたのは中学生くらいの少年だった。短い黒髪はくるくるとあちこちに跳ねていて、顔は整っていて、恐らくイケメンってやつに分類されると思う。着崩した半袖のカッターと黒いズボンは、2年前まで通っていた中学の制服によく似ている。ただ一つ、彼の体越しに見える台所の様子だけが、私の頭に警報音を鳴り響かせていた。


 状況がつかめず呆気に取られている私を一瞥して、彼はまた話し始めた。

「さてと、質問にお答えしようか。はじめまして。ボクは『箱』。今風に言うなら精霊みたいなものかな?あの、モノに宿るやつ。どうぞよろしく、雨野家18代目雨野羽珠サン」

「なんで、私の名前を、それに、18代目って、」

「あれ?聞いてない?キミのお祖母さんはオヨメサンだからね。雨野の直系は今はもうキミ一人さ。キミがボク、つまりこの箱の正当な持ち主だよ。」

 少年はさも当然のことを言うように平気な顔で話す。私の頭はもうめちゃくちゃで、はてなマークにあふれ返っている。追い打ちをかけるようにお尻がずきずきと痛みを訴え始めた。これはさっきまで忘れていた痛みだ。奥歯をかみしめて言葉を紡ぐ。


「つまりあなたはこの箱の付喪神ってこと?」

 違う、本当に聞きたいのはこんなことじゃないのに。頭がうまく回らない。そしてその割に何だか妙に私は落ち着いていた。

「へえ。今どきの子がよくそんな言葉知っているね。いや、キミは特別かな?部屋の本棚からして民俗学でも勉強したいのかい?」

 呆然として無言でうなずく。どうして2つ隣の私の部屋の本棚を知っているのか?なんてつまらない疑問は思い浮かびもしなかった。

「でも残念。付喪神とは少し違う。あれは人間に大切にされたモノに宿る霊のことだからね。ボクも何百年とこの家にいるけど、人間に愛されたことなんて一度もない。いいようにボクを使って勝手に死んでいく。今までの17人みんなそうさ。笑えちゃうよね」

 笑えちゃう、なんて言いながら少年は顔を俯かせた。その目元がなんだかとても悲しそうで、私は床に手をついてそっと立ち上がった。大きく恐ろしく思えた少年が、実は私の鼻ほどまでの背でしかないことに気付く。

「そんなこと……」

「ああそうだ、1人だけいた」

 私の言葉とかぶさって、少年はポツリとつぶやいた。

「箱じゃなく、ボクを見ていた子。死に方は相変わらずだったけど、それでもボクに名前をくれた。最近はこの名前を名乗っていたのに、10年以上眠っていると忘れるものだね。」

「なんて名前?」

「サクヤ」

 少年は短く、けれど力強い口調でそう名乗った。

「朔月の朔に夜でサクヤ。あなたじゃ呼びにくいだろう。こう呼んでくれてもいいよ」

「じゃあ、サクヤくん」

 少年はこくりとうなずいた。そしてわずかに頬を緩めた、ような気がした。素気なく振る舞っているけど案外その名前を気に入っているようだ。


「さっそく質問なんだけど、サクヤくんを『使う』ってどういうこと?それは見るなのタブーと関係があるの?」

 サクヤは少し驚いたようにまぶたをぴくりと動かした。

「キミ、意外に根性あるんだね。ボクのことをこんな短時間ですんなり受け入れたのはキミが初めてだよ。フツーもっと慌てたりするものなんだけど」

「自分でも驚いてる。でもなぜか、あなたとは初めて会った気がしなくって。」

「へえ、なるほどねえ。まあいいや。その見るなのタブーってやつはよく知らないけど、ボクを使う、ってことはね、過去を変えるってことさ。」

「過去を?」

 サクヤはいたずらっ子のようににやりと笑った。

「正確にはボクをそのカギで開けるとキミが一番未練ある時間に飛べるんだ。そこでは何をしたっていい。宝くじの当選番号をそっと耳元でささやいてやってもいいし、イヤなやつを崖から突き落としたっていい。失われた命を救うことだってできる。病気とかはまた別だけど。ただし、」

 

 少年は一旦言葉をきって息を吐いた。少し首を上げて私の目をじっと見つめる。

「ただし過去を変えれば当然代償がある。時間の流れをかき乱すわけだからね。つり合いを保つために箱を開けた者は自分の命を捧げなくてはならない」

 ごくりと息を飲み込んだ。クーラーはしっかりと効いているのに生ぬるい汗が一筋流れる。

「『代償』まで教えてくれるなんてあなたは親切ね。私の今まで読んだ物語はたいてい開けてから主人公が後悔するものだったよ。」

「ボクは正直者だからね。今までのみんなにも同じ話をしてきたよ。過去を変えたら自分が死ぬ。だからほとんどの人たちは箱を使わずにとっておいた。そして自分ではなく、自分の一番大切な人のために使うのさ。いつの世も、何百年経っても変わらない。代償をわざわざ教えてやっているのにみんな同じ道を辿るんだからおかしな話だよね。先代のあかりも、その前の稚彦も」

「お母さん?」

 突然出てきた母の名前に眉をひそめる。あかりは12年前に交通事故で死んだ私の母親の名前だ。

(おかしい)

 私は彼の眼をじっと見つめた。すぐにそらされる。やっぱり。

 母は父とともに買い物に出かけた帰りに事故に巻き込まれた。相当大きな事故で犠牲者は私の両親を含めて10人以上いたと聞いている。「箱」に命を奪われた、なんてそんなことがあるはずがない。

「キミが何を考えているかだいたい見当はつくけれど、残念ながらはずれだよ。確かに事故が起こったのは偶然だ。でもそれにキミの母親が巻き込まれたのは偶然じゃない。あかりが過去を変えたからさ。命を落とすはずだったキミを助けたんだよ、あかりは」

「命を落とすはず…?私が?どういうこと?」

 サクヤくんはまたさっきのいたずらっぽい笑みを浮かべた。体の芯がぞくっと震える。きっとこれは警告だ。これ以上聞いてはいけないという警告。

「その通りの意味さ。キミは12年前、階段から落ちて重篤な状態に陥った。キミの事故はワタシのせいだとあかりは自分を責め続け、ついにボクを使ってしまった。それだけの話だよ」

 命の奪い方だなんてどうとでもできるからねー、という言葉は右から左へと抜けていった。展開の速さについていけない。

 階段から落ちたことなんてないー。そんな馬鹿なことを言おうとして、寸前でとどまった。彼の話が正しければ、私の母は自分の命を懸けてその過去をなかったことにしたということだ。今正しければ、なんて言ったけど、今思い返せばあの時の私はサクヤくんの話を完全に信用していたと思う。それこそ不自然なほどに。彼がでたらめを言っているとは思えなかった。


「さてと、ボクに話せることはおおかた話し終えたと思うけど、なにか質問はある?ああそうだ、思い出した。言い忘れていたね、ボクは一生に一度しか使えない。さあ、キミは箱をどう使うか。別に今すぐ使っちゃったっていいんだよ。」

「ちょっと、考えさせて」

 拙い言葉をそっと紡いでいく。サクヤくんは私の返答が意外だったのか、小さく目を細めた。

「分かった。じゃあ鍵を開ける時はボクを呼んでよ。呼び出し方は箱を三回磨いてビビディバビディブー、だよ?」

 なんかいろいろ混じってない?そう言った時にはもう彼の姿は見えなくて、ただ手元の箱から青い煙が立ち上っているだけだった。



 一週間たった。祖母からの久しぶりの電話は、不規則な生活は送ってないかだとか節電はしているかだとかのお小言ばかりだった。4か月も入院している割には元気そうで少し安心する。伯母夫婦が会話しているのをちらりと聞いたときにはもうダメだと自室で1人泣き腫らしたのだが、一夜明けてしまうとどうも実感が湧かなくっていけない。実際今私の頭の中を占めているのはいまいち状況の分からない祖母ではなく、居間のテーブルの上に悠然とおかれた箱のことだった。


「よし」

 力強くつぶやいて決意を固める。箱を手に取って頭を3回丁寧に撫ぜた。すうっと息をすって、

「ビビディ、バビディ、」

「え、待って、それ本当にやるの?」

 ポンという軽快な音と青白い煙と共に、少年―サクヤは再びその姿を見せた。最初は細かくクスクスと、徐々に大きく大げさに笑ってくる。こっちは覚悟を決めて、真剣にやったというのにそんな態度なものだから腹が立って、

「サクヤくんがこうしろって言ったんじゃない。いつまで笑ってんのよ」

「いや、ごめんごめん。まさか本当に信じるなんて思ってもみなかったから。」

 軽い調子でさりげなくディスってくる。もう一言なにか言ってやろうと思ったのだけれど、サクヤが笑うのをやめて真面目なまなざしで私を見つめてくるものだから、何も言い返せなくなってしまった。


「それで、もうどうするか決めちゃったの?一応言っとくけど、後でやっぱりやめる、なんてのはなしだよ?」

「分かってる。でもこの箱がずっと傍にあったら、いつ誘惑に流されちゃうか分からないから。大切な人が自分のために命を犠牲にするだなんて、残された人にとってはどれだけ辛いことか」

 要は、過去を変えなければいいということなのだろう。目の奥に浮かぶのは最期の日の両親の笑顔。小さな私の頭の上に落ちてきた桜の花びらをそっと払って、何か喋っている。でもどうしても思い出すことが出来ない。そう、きっと今の私の未練ってやつはー

「私の未練じゃ過去は変わらない。ちょっと飛んですぐに帰ってくる。そして残りの人生全部使って、こんな呪いを断ち切ってみせる」

 サクヤは目をパチパチと瞬かせた。確かめるように私の顔を覗き込むと、今度は小さく一度だけクスリと笑った。

「キミ、本当に度胸があるね。こんな短い期間でそこまでの覚悟が決められるなんて、いったいナニがキミを動かしているのか、教えてほしいくらいだよ。

 さあ、そうと決まったら早速そのカギを鍵穴に差し込むといい。最後の忠告だけど、過去では何にも干渉してはいけないよ。無事に帰ってきたいのならばね。」

 鍵を見つめて目を閉じる。真っ白な病室に横たわる祖母の姿が見えた気がした。箱を手に取って鍵を差し込む。箱がゆっくりと開いて、私の体は目がくらむようにまぶしい、青白い光に包まれた。


「いってらっしゃい」

 サクヤの言葉と共に、私は箱に飲み込まれ、意識は闇の中に溶けていった。


 

 穏やかな春風に撫でられて、私ははっと気が付いた。立っていたのはよく見知った我が家の前。ポストに突っ込まれたままの夕刊には、2007年4月4日と書かれている。どうやら成功したらしい。なんだか鳥肌が立ってくる。もちろんその原因の8割は半袖のブラウスと薄いひざ丈のスカートという今日の格好にあるのだが。もう少し考えておけばよかった。


 カランカラン。玄関の引き戸に取り付けられた鈴が音を立てる。綺麗なオレンジ色が日差しに淡く光っていて、すっかり色あせてしまった今のとは大違いだ。中からは数人の声がして、私はとっさに前庭の植木に身を隠した。

「やだ。羽珠もいっしょに行く。ねえ、いっしょに行くの」

 舌足らずな口調。高い声。間違えなく5歳、いやまだ4歳か、の私だ。4月4日は両親の命日だから、ぴったりちょうどの時間帯に飛んできたようだ。

「だめよ、羽珠。まだ熱があるんだから寝ていなさい」

「お買い物はまた今度一緒に行こう、な?そうだ、しっかりよく寝て元気になったら、新しいおもちゃ買ってやるから」

「ほんと?じゃあ羽珠、早く元気になる!約束だよ?」

「ああ。指切りしよう」

「「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった!」」

 もう、あなたったら羽珠に甘いんだから、なんて母親は幸せそうに笑っている。父親は幼い私の目線の高さまでしゃがみ込んで、その大きな指を小さく柔らかな手に絡ませている。私の目からは涙が一筋流れ落ちた。忘れてしまった二人の声。それが手を伸ばせば届くところにある。行かないで。飛び出して大声で叫びたくなる気持ちをぐっと抑えた。


「それじゃあ俺、エンジン掛けてくるね」

 玄関には私と母が残された。そう、ここからが私の未練。記憶から零れ落ちた母の最期の言葉。強い風が吹いて、玄関先の桜の木を揺らす。花びらはひらひらと舞って、幼い私の頭の上に見事に着地した。

「羽珠…本当に良かった、元気になって…」

 母が小さくつぶやく。どうも風邪をひいているらしい私はその言葉に首をかしげている。母が頭を撫でて、頭の上の桜の花びらを払いのけた。

「羽珠、ごめんね。許してなんて言えないわ。ママ、きっとこれからあなたに辛い思いをたくさんさせてしまう。でも、それでも羽珠には生きていてほしかった。あなたは私の宝なんですもの。」

「ママ、何言ってるの?」

「忘れないで。ママは世界で一番、あなたのことを愛しているわ。今も、これからも、たとえ側にいられなくても。羽珠、私は運命を変えることが出来なかった。でもあなたなら。強くて優しい羽珠ならきっと未来を変えられる」

 幼い私は目をぱちくりさせて、そして言った。

「羽珠もね、ママのこと世界で一番大好き!あ、でもパパもばあばも大好きなの。一番がいっぱいあるときはどうするの?」

 母もまた目をぱちくりさせて、そっと口元を緩めた。その仕草は私と瓜二つで、また目元がうるんでくる。

「一番がいっぱいあるのは素敵なことよ。もっともっと一番を増やしてね」

 うん、と私は力強くうなずいた。17歳の私も同じようにうなずく。涙はとめどなく溢れてくる。母が行ってきます、と扉を閉めるのを確認して私は立ち上がった。そういえば帰り方を聞いていなかったことを思い出す。たぶん同じようにしたらいいのだろうと箱を持ち上げ鍵を手にしたとき、急に背後から声がした。


「おかしいな、確かに車のキー持って出たと思ったんだけど」

 父の声。私は慌てて木の陰に身を隠したけれど、驚いた拍子に箱を落としてしまった。父がすぐ側まで来ていたので回収することもできず、私はただひたすら息を押し殺し気づかれないことを祈っていた。

「あれ、これあかりの宝箱じゃないか。どうしてこんなところに落ちているんだ?」

 祈りは届かなかった。父は訝しげに箱を拾い上げた。そのまま車の鍵を取りに向かう父を忠告も忘れて追いかけようとする私を止めたのは突然現れたサクヤだった。


「ここでキミが父親に干渉したら、全てが無駄だ。大丈夫。ここまでは歴史通りにいっている」

「どういうこと?未来から持ってきたあの箱を拾われたら過去を変えることになっちゃうんじゃないの?」

 テンパる私に、サクヤはまたあのいたずらっ子のような笑顔を見せた。

「ボクはどの時間軸にも属さないからね。よく聞いて。この後、キミの父親はボクを持ったまま車に乗り込む。そして事故で死ぬ」

 心臓がどくんとはねた。分かってはいたことだけど、こうして改めて聞かされると、そして生きて笑っている2人を見た後だとやりきれない。少しだけ、過去に飛ぶという決断は時期尚早だったかなと後悔した。

「ただし、一緒にボクを巻き添えにして、ね。」

「え?」

 自分の目が点になるのを感じたのは初めてだ。さぞかし間抜けな表情をしていたことだろう。

「あかりは確かに自分の運命は変えられなかった。でもあかりが過去を変えてキミを救ったことで、雨野家が箱の呪いに打ち勝つ未来が確定した」

 何も言葉が出なかった。名前くらいしか知らないタイムパラドックスが起きているような気がしたが黙っていた。

「というわけで、ボクはそろそろお別れだ。縁側にこの時代の箱があるから12年後の自分に送っておくことだね。そうしないと取り返しのつかないタイムパラドックスが起きてしまう。ボクのタイムリミットはもう少しあるし、最後にキミを現在に送りかえすことくらいはできるだろう。そうしたら、」


「ねえ」

 サクヤの言葉を遮った。急な展開に相変わらず頭はついていけてなかったけれど、それでも一つだけ聞いておきたいことがあった。

「サクヤくんは、どうして笑っているの?」

 彼の屈託のない笑顔が一瞬だけ凍り付いた。ちょっと見上げてじっと見つめてくる。

「難しいことはよく分からないけど、要するにサクヤくんは死んじゃうんでしょ?どうしてそんなに笑っていられるの?」

 ははは、と彼はわざとらしく笑った。

「まだおかしなことを言うね。最初に言ったでしょ。ボクはだれ、じゃなくてなに、だ。死ぬことが出来るのは生きている者だけ。ただの箱が壊れるだけのことだよ。だいいちキミも残りの人生かけて呪いから解放する、だなんて言ってたよな。それってつまりボクを壊すってことだろ。それがこんなに早く叶うんだ。喜ばしいことじゃないか」

 そんなつもりじゃなかった、なんて言えるはずもない。ただ目を伏せてひたすら首を横に振っていた。サクヤは私の耳元でそっとささやいた。

「――、―――――」

 そこからの記憶はあまり残っていない。



 気が付くと私は自分の部屋の布団の上で眠っていた。弾みをつけて起き上がると頭がきしりと痛む。蝉の声がひどくうるさい。耳をふさぎながら見た枕もとの時計は午前9時半を指していた。完全に寝坊だ。

「雨野さーん、お届け物でーす」

 この間の若い配達人の声がする。ちょっと考えて私はそのまま部屋を出た。手櫛で髪を梳かすと、桜の花びらが1枚舞い降りて、私は少しの間、それに目を奪われた。

『羽珠、ありがとう』

 あれはどういう意味だったのだろう。彼ーサクヤもまた運命に縛られた一人だったのだろうか。

「雨野さーん?」

 追い立てる彼の声に大きくはーいと返事をした。きっと聞こえているはずだ。

 そうだ、今日は久しぶりに街までお見舞いに行こう。祖母に話したいことがたくさんある。

 玄関の戸を開けると、すっかり色あせてしまったオレンジの鈴がカランカランと音を鳴らした。それはつい昨日、12年前の記憶の世界で聞いたのとまったく同じ、美しい音だった。





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見るなのタブー サクラ @saraho2o4

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