名もなき存在 少女視点

「お前なんか産まなければよかった」


繰り返されるそれになんて返せばよかったのだろう。

どうすればよかったのだろう。

答えはわからない。ただ私は産まれてきてはいけなかったのだということはわかった。だけど、どこにも行くあてもない私はただ怒鳴る声にじっと耐えるしかなかった。

物心ついた頃には、母と私の二人暮らしだった。時折母の元に誰か訪ねていたが、それが誰かはわからない。


「私は本当はこんなところにいる人間じゃないのよ!」


「本当なら私があの人の側にいたのにっ」


「私は本来ならもっと愛されるべき特別な存在なの!」


繰り返されるその言葉の意味はよく分からなかったが、まるで自分に言い聞かせるかのように母はそう言って度々何かを思い出しかのように叫んでいた。だけど、母のもとに時折訪ねてきていた人はいつしか訪れることもなく、顔もよく知らない人に何かを思うことはなかったが、母は違ったようで頻りになんで、どうしてと言っていたのを覚えている。

ただその人が一度だけくれたお菓子は、とても甘くておいしかった。その人の目がどんな風に私が見えていたのか知らないけれど、ただ生きているだけで精一杯の私には関係なかった。

ボロボロの壁に、薄汚れた部屋。足の折れた椅子に、湿気た匂いのするベッド。一年中隙間風が通る寒くて、薄暗い家の中に私は声を殺して存在していた。

いや、存在していたのかすらわからない。もしかしたら私はそこにいなかったのかもしれない。だって、私は要らない子だったから。

母のもとに訪ねてくる人がいなくなってから、母の行動はどんどん悪化していった。まるで何かに憑りつかれたように、同じ言葉を繰り返し、責めていた。


私という存在を。


「お前なんかいなければよかったのに」

「おかあさ…」

「お母さんなんて呼ばないで!!」

「っ、ごめんなさい…っ」

母と呼ぶべき人は、そう呼ぶと怒ったし、殴られた。水をかけられたこともあるし、ご飯を貰えなかった時もあった。

昔はそうでなかったかもしれないが、もう覚えていない。何日も何日も、私のせいだと罵られて頬を打たれた。それに飽きれば母はどこかへ出かけて、少しだけ静かな時間が訪れる。

逃げたくて、ここじゃないどこかに行きたかったけれど外に出れば怒られるので、寒くて薄暗い部屋でじっとしているしかなかった。

そうすればいつか、窓から覗き見た親子みたいに抱きしめてもらえる日が来ると思っていたから。

そう、ずっと思っていた。


でもあの日、母は帰ってこなかった。


度々何日か帰ってこない日はあったが、ずっと待っていても帰ってこない母にお腹が空いて、家の中を探してみたが、どこにも食べれそうなものは無くて、家にいるのも寒くて苦しくて外に出てしまった。

長い間家の外に出たことがなかったから、久しぶりの外はとても明るくて眩しくて、眩暈がするほどキラキラと輝いているようだった。

だけどそこでも私は要らない、見えない存在だ。

自分とは違う、可愛い服を身に着けた女の子が歩く姿に住む世界が違うのだと言われた気がして、私は物陰に隠れた。

明るい太陽の下は、私なんかが歩いていい場所ではないとたくさんの目が言っている気がして、路地裏を隠れるように進んだ。でも最初から行く場所なんてものはなく、どこに行けばいいのかもわからなくてただフラフラと彷徨い歩いた。家から離れてどれほど歩いたかなんてわからない。

「あっ……」

そして気付いたら地面が顔の傍にあって、自分が倒れているのだと分かったけど起き上がる気力はなかった。

路地の向こうは明るくて、たくさんの楽しそうな声が聞こえるのに私は一人で、ここは冷たくて暗かった。

まるでまた家の中に戻ったみたいだった。


いたい、さむい、くるしい。

でも、もういいのかもしれない。

だって誰も私のことなんて見ていないのだから。

私がいなくなっても、きっと誰も気にしない。


私は、いない存在だから。


そんな当たり前のことが頭の中を駆け回ったが、何故かぽたりと涙が出た。

なんで泣いてるのか、理由は分からない。

だって母親に叩かれて怒られた時も、泣けなかったのに。

でも、それでも、少しだけ願ってしまったんだ。


だれか、わたしのなまえをよんで。

わたしをみて。

だれか、私を抱きしめて。


ひとりは、いやだよ・・・・・・。


だから目が覚めて、見たことも無い綺麗な場所にいた時、私はついに死んだのだと思った。

それと同時にこんなふわふわで温かな場所なら、もっと早く死ねばよかったかもしれないと、そんなことさえ思っていた。

だってここは暖かくて、気持ちよくて、怖いものなんてなさそうだったから。

「あっ!目が覚めたのね!!」

大丈夫?気分が悪いとかない?

だけどそう言ってそっと私の顔に触れてくる女の子に、私は身動きが出来なくなった。だって、そこにいたのは私とは住む世界が違うと思っていた子だったから。それにそんなふうに私の目を見て、私に聞いてくれた人なんていなかった。

全部が綺麗で、手も白くて小さくて、ふわふわきらきらしていて、私には眩しいお日様みたいだった。

「お腹すいてる?食べれそう?」

それともお水がいい?と尋ねる声が私に向けられていると分かり、何か言わなければと思うのだが上手く言葉が出てこなくて口を開いているのに声が出ない。

どうして、とか。

なんで、とか。

ここはどこ?なんて疑問はたくさんあった。目の前の女の子がきっとここに連れて来てくれた事も助けてくれた事も頭では理解している。

だからありがとうと言わなければ、その前にきっとこの子は私なんかとは関わってはいけない人だから、早く謝って出て行かなければならないとわかっているのに、体が動かない。

そうしないとまた怒られてしまう。この子に嫌われてしまう。

わかってる、わかっているのに……っ

「大丈夫、ゆっくりでいいから」

「っ、ぁ……」

それなのに大丈夫、大丈夫だよ、と笑いかけてくれるその子は見たこともないほどキラキラと輝いていて、私なんかが触れていい子じゃないのに躊躇なく私の手をぎゅっと握ってくれた。この子とは違う、汚くて、傷がいっぱいある手を何のためらいもなく触れてくれた。

まるで私に大丈夫だよ、と伝えるようなその温かさと優しさに涙が溢れた。

「どこか痛い?気分が悪い?」

いきなり泣き出した私に驚いた様子で顔を覗き込んでくるのが分かったけど、涙で上手く喋れない私は首を振るしか出来なかった。


ちがう、ちがうんです。

ただ、うれしかった。

私を見てくれたことが、私に触れてくれたことが。

その瞬間、ようやく私は生きているのだと感じたから。

産まれたことをゆるされた気がしたから。


声を上げて泣き続ける私を抱き締めてくれた腕は、私よりも小さいのにとても大きくて温くて、それは私がずっとほしかったものだった。


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