パブリック

佐島 紡

パブリック

 二十五世紀はユートピアに成り果てていた。

 世界中を優しさが埋め尽くし、思いやりと愛情で窒息してしまいそうなくらい人を慈しめる世の中。もちろん悪意なんて微塵もない。そこにあるのは秩序と雰囲気。特に規制はされていないが、それらを逸脱する行為はなによりも禁忌とされた。社会の空気がそれを許さなかった。

 僕たちはそんな世界で生を受けたのだ。


 ■


 彼、もといハルは小さいころからたくさんの疑問を抱く、端的に言えば変な少年だった。

 それは、なぜ人を殺してはいけないのかに始まり、なぜ無料の食べ物を食べ過ぎてはいけないのか、なぜ環境カンファレンスと倫理セッションを週に二回受けなければならないのか、法律で決められたわけでもないのにどうして建物は揃いも揃って穏やかな薄い色をしているのか。

 考えてみるとハルの疑問は今に生きる大抵の、それこそ十人中十人が当たり前と受け容れるような物事に対して抱くことが多かった。それは倫理だからだとか、ルールだからだとか、そういった社会の視点で物事を説明されることで彼が納得することはほとんどない。受け入れてしまえば楽なはずなのに、難しいことは全部大人に任せてしまえばいいのに、頑固な彼は疑いの眼差しを鋭く鋭く研ぎ続けていて、常にその答えを探し続けていた。

「どうしたら、幸せになれるんだろうな」

 だから、その時も疑問を呈したのはハルのほうだった。

「ハルは今幸せじゃないの?」

 その時、僕たちは地下室にいた。ハルの家にひっそりと保管されているたくさんの本と映像作品の山に埋もれながら、僕たちはいたずらに時間を潰していた。いや、僕はそういう認識であってもハルは違っていたのかもしれない。お互い同じ『本』を読んでいたとしても僕とハルでは決定的に違っているものがあった。

 僕は最近発売された小説群を。

 ハルは数百年前の過去の遺物を。

 ハルの家の地下室にはたくさんの本が格納されている。それらは電子書籍やAR技術で視界に表示させた拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)のようなデータ上の代物ではない。ざらざらとした紙にインクをしっかり使って一枚一枚丁寧に印刷された、重くてかさばる正真正銘の本だ。

 二十五世紀に小説という文化はもうほとんど残ってはいない。物語を創る想像力も、それを誰かに伝えようとする気概もこの世界には残っていないからだ。フィクションを考える暇は世界平和に対してどう考えていくかに矯正されてしまう。物語で肉付けされて、伝えたいことが分かりにくくなった文章より、直接的に書いてある専門書のほうが人気というのも小説の文化が廃れた原因だろう。だが僕は小説が好きだった。作者が考え出した意見を物語調にして、キャラクターの行動なり発言なりを通じて読み手に伝えようとしている。僕はその感覚がたまらなく好きだった。悪者の概念がもはや存在していない今日の物語は恐ろしくつまらないものだったけれど、文の端々から感じる作者の温かみとか優しさとかを一つのストーリーとして触れるその時が、僕の中では一番の至福だった。

 そういうわけで、僕は本が好きで、それをハルの家で読むことが習慣と化していた。僕はARで、ハルは冊子。媒体も、好みの時代も違っていたけど、同じ読書仲間という共通意識みたいなものを僕はただ一人感じていた。

「ほらよ」

 本から目をそらし、質問を投げかけた僕をちらりと見たハルは、椅子に寝そべっていた体を起こしながらその手に持っている本をぞんざいに投げてよこす。

「ロリータ……?」

 それは昔の本だった。およそ五百ページ超で構成されたそこそこ重たい紙の本。いきなり渡された僕はただただ困惑する。ハルから渡された意図が分からなかったからだ。タイトルと作者名と少しばかり丈が短いスカートのようなものをはいている女性の足が表紙に描かれているさまはどこか僕をむずがゆい気持ちにさせる。そんなデザインをしみじみと眺めながら、僕はおもむろにページをめくってみる。それはとある男の苦悩の物語だった。

 主人公が、歯が浮くような甘ったるい恋愛劇を繰り広げた幼馴染によく似た少女を見つけ、その母に取り入って結婚し少女を愛すという今世の作家全員が頭を捻っても思いつきやしないであろう冒頭から物語は綴られていた。

『ロリータ、我が命の光。我が腰の炎、我が罪、我が魂、ロ、リー、タ』

 僕はその展開を見た途端、体中が一気に熱を帯びたような感覚に襲われ、体が震え始めた。気が付かぬ間に何度もツバをのどへと送り流していて、体の熱を収めようと、生み出た汗が球となって体中から溢れ出す。そんな状態のまま数ページを一気に駆けた僕は、これ以上は耐えきれないと判断し、急いで本を閉じる。生理的に受け付けてくれなかったのだ。

 恐ろしい自我だった。

 恐ろしく歪な欲だった。

 僕はそれを良しとしている主人公の様に心から怯えてしまった。どうしてこんな思想にたどり着くことができて、あまつや行動に起こそうと計画を練ることができるのか。その全てが意味不明で、その全てが僕にとって嫌悪の対象だった。ここまで受け付けないものは僕にとって初めての経験だった。

 早くなっていた心臓の動悸が少しばかり落ち着いて、ほんの少し生まれた余裕で僕はハルに顔を向ける。ハルは僕のことを見つめていた。大して心配するようでもなく、ねぎらいの言葉をかけてくれるわけでもなく、その冷静な眼差しは、ただただ僕を見据えていた。

「これを読んでどう思った」

 ハルが問う。その声には真剣さがいつもの口調の数倍込められている。

「……とてもじゃないけど恐ろしくて僕には読める代物じゃないかな。人がここまで赴くがままに生きることなんて想像できやしないし、そもそもこんなことを考える人だってほとんどいないはずだ。僕にはこの話を受け入れることなんてできやしないよ」

 ハルは僕の言い分をまっすぐに聞いていた。

「……それはこの世界を否定するのと同じだとは考えなかったのか?」

 どういう意味と尋ねた僕に、ハルは言葉を続ける。

「この世界は優しさと思いやりでできている。考え方を受け入れることはもちろんのこと、人を理解しようと動かないならばこの世界の一員とは決して呼べない。お前がやっていることは、この世界で生きることを放棄するのと同じなんだ」

 僕は言葉に詰まった。確かにハルの言うとおりだったからだ。この二十五世紀はどこまでも慈愛と至福に満ちた世の中。どんな考え方も許容され、人が人らしく生きることのできる理想の地。ユートピア。だがそこで生きるためには一つだけ条件があった。

 この世界で十六年間も生きてきた僕だ。それぐらいはわかる。

『人を理解するということ、しようと努力すること』

 万人がそうやって人のことを考えて、動いて、受け入れることで平和と秩序を創り上げたこの世界にはその姿勢が不可欠だった。本であっても、その姿勢を崩してはならない。総人口の数百万人が何年にも渡って守ってきたことを、僕は今まさにその使命を手放そうとしていたのだ。

「で、でも、これは昔の人の考え方だ。今こういう考え方をする人がいたら理解しようとする気にもなるけど、そんな人はきっとどこにもいない。僕にはこの話を理解する必要性がない」

 苦し紛れの言葉だった。昔だからといって考え方を知る必要性がないわけではない。むしろこの世界に生きる人たちならば、新たな視点で物事を考えることが出来ると喜び、率先して理解しようとあがくのだろう。それが模範的な人間の行動。僕がそうしないのはひとえに昔の本がこの世に存在しておらず、当然そういった過去の考え方に及んでいる人もいないから。そう言い張ることで、自分はあくまでも社会から逸脱してないと強調していた。

 そもそも昔の書籍は二十二世紀ごろ勃発した戦争の影響で、これ以上閲覧することを封じたという歴史がある。文学作品だけに関わらず、絵画や音楽などの創作物全てが対象で、それらは国から廃棄の指示が出されたのだ。なぜ国がそんなことをしたのか理由はわからない。だが、ハルの父親はこっそりと、運よく廃棄されていない過去の創作物を集めていて、今や地下に巨大な書庫を創り上げていた。過去の書物を禁止した国と、逆にそれを集めたハルの父親。両者の言い分を聞いたわけでもないので一概にどちらが悪いとは言えないが、このような、例えばハルから渡された『ロリータ』のような、危険な物語が存在するから廃棄を命令したという国の言い分だったら実によくわかるし、逆にそれを集めていたハルの父親にはどうしても肯定的に捉えることが出来ない。国が過去の書物を回収どころか閲覧すらも禁止しているということは流石に理解しているはず。しかし、だとしたらなおさら彼の真意がわかりかねないし、だからこそ彼が悪いことをしているという認識が取れてくれない。

 僕は正直、過去の創作物に触れたくもなかった。

 だから、割ときつめの言葉で拒絶してみたのだが――。

「いや、それは間違っているぞ」

 やはりというべきか、なんとなく予想していた通りというかハルは僕の言い分をいとも簡単に否定する。

「お前が言っていることはただの甘えだ。この世界に生きている以上、しなければいけない義務をお前は放棄している。昔いた、今いるなんてこの世界の理にはなんら関係はない。何度でも言ってやる。アキ、お前がやっていることはただの甘えなんだ」

 ハルは自分の言い分を通そうとする時、驚くほど冷たい口調になる。胸を針のような鋭利なものでつつかれている感じ。言われたらもちろん悲しくなるし、ハル以外誰も使わないような強い言葉をこれでもかと言われたら、もう何も言えなくなる。僕がそんなハルを見るのは今回が二度目だった。一度目は、僕とハルが初めて倫理セッションで出会い、同じグループになった時。相反するどちらの意見を主軸に置くのかという際に、僕は今と同じ冷たい言葉を放たれたのだ。結局両方の案を提出するということで話は収まったのだが、あの時のような言い方で物事を押し通そうとされたら僕は何も言い返せない。今回もきっと、ハルに言われるがままになるのだろう。

「そうだね……」

 僕は言い返すことを止め、諦め気味にハルの言い分を受け入れる。しかし、ここでふと思う。ハルは何がしたかったのか、と。

 幸せではないと呟いたハルから渡されたロリータ。それをもう読めないと限界を伝えたら、その行為は世界を否定していると反論された。

 ハルのしたいことが、まったくもって分からない。

「……ハルは僕に何をしてほしいの?」

 そういえば、最初からハルは少しおかしかった。普段のハルならば、疑問を持てども口に出したりはしない。一人頭を抱えて思考にふけっている様を見て、僕が何に悩んでいるのか問いかけるのだ。

 他の挙動もおかしかった。ロリータを読んでいる僕をじっと見つめていたり、昔はともかくこんな些細なことでここまで強い口調になるところとかが、基本他の人の行動に口出しをしないハルらしくなかった。

「単刀直入に言うと、仲間になって欲しい」

 またもや僕の頭に疑問符が浮かぶ。ハルは自分のこと話したがらないせいかこういう時の説明が言葉足らず過ぎる。

「どういうこと?」

「言葉通りの意味だ。この何もかもが許されて完璧な世界。俺はこの世界が大嫌いだ。この世界を変えたい。そのための仲間が欲しい」

 完璧な世界。確かにそうだと思う。どこまでも夢にあふれていて、なりたいものになれて、皆が皆を尊重しあう、優しい優しい平和な世界。一片の濁りもない善意は誰を不快にさせることもなく、その善意を踏みにじる者もいない。暮らしも食べ物も遊びも友達も、望めば望むだけ与えられるこの世界。そんなこの世界のどこをそんなに嫌悪しているのだろうか。

「何がハルをそこまで焚きつけるの?」

「……この世界に父さんは殺された、からだ」

 僕は思わず目を見開く。

 彼の父親は数年前に自殺した。五十二歳という若すぎる年齢でその生命を終えたのだ。ハルによると、たくさんの書物と映像作品と、たった一言だけの遺書を残して死んでいったらしい。

『父さんに、この世界は生きづらいよ』

 この言葉をハルの父親は自殺する前日に言ったそうだ。

 今の時代、自殺者はほぼゼロに等しい。ハルの父親が自殺したときは町中の雰囲気自体が暗くなってしまったぐらいだ。なぜ彼が自殺したのか見当もつかないが、理由がこの世界にあるとするならば、それを変えなければならない。ハルが仲間を求めていた理由はそこにあった。

「だけど、世界を変えるって具体的にはどうするの?」

 ハルは僕の手元を指さす。

「俺は昔の世界を創り上げたい。だからまずはそれらの本を読んで昔の考え方に触れてほしい」

 僕はハルの顔に眼差しを向ける。ハルはどこまでも真剣な表情をしていた。真っ黒な目には赤く炎がともっているようだった。そういえば、昔もめた時もハルは今のような瞳をしていた気がする。

 ハルはハルなりにこの世界をよくしていこうと考えているのだ。

 そう考えると、一気に親近感が湧いた気がした。

「もちろん断りはしないだろうな。俺は今に生きながら昔の考え方に触れている。アキが出した条件もクリアして――」

「大丈夫だよ」

 ハルが僕を断らせまいと必死に退路を防いでいく。しかし、もう大丈夫だ。僕は僕自身の意でハルの意見に参加する。

 ハルの弁を遮り、僕もしっかりとハルを見据える。そして、

「一緒に、世界を変えていこう」

 ただ一言、そう宣言した。


 ■


 宣言したのはいいものの、苦手なものはやはり苦手で僕は一人机に突っ伏していた。側にはハルから手渡されたロリータがある。ハル曰く、ロリータはハルの父親が一番読み込んでいた本らしく、何度も読んだのか、指を置くところにたくさんの垢がついている。なるほど納得の読み込み具合だ。小さいころから読んでいたのか指紋の大きさも別々だ。今のページは二百五十四。やっとのことで一章が終わり、これから物語がぐねぐねと動いていくのだろうと容易に想像できた。

 伴侶が不慮の事故で命を落とし、(といってもこれも主人公が直接的な原因といっても過言ではない)それを好機と判断した主人公が伴侶の娘と逃避行を始めるところである。そこまでハルのため嫌々ながらも読み進めていた僕は、主人公が同じ星に生きた人間ではないように思えてきた。主人公は常に伴侶の娘に対して劣情を抱いており、その体の柔らかさ、無邪気さ、愛らしさがどこまでも気持ち悪く鮮明に鮮明に描かれていた。翻訳らしい淡々とした描写とそれとは逆に恐ろしいほどの娘に対しての執着心や熱意が相まって、その様に強烈な嫌悪感を抱かせる。すべてが計算されつくし、もはや芸術的なほどであった。

『ロリータ、ロリータロリータロリータ』

 その純粋なる気持ち悪さと、ただただ驚く展開に圧倒され続けていた僕だが、やはり限界が近づいている。もう開きたくもない。二十五世紀の小説に比べてかなり内容も入り組んでおり、というか考え方が根本的に別物というのもあり、四苦八苦しながら読み進めてきたがさすがにこれ以上は来るものがある。今まで一応の主人公セーブ役として機能していた母親がいなくなった今、娘は主人公の思い通りなのだ。諸悪の権化である主人公が少女に悪逆非道の限りを尽くしていくのは目に見えており、想像もしたくない僕はギブアップすることを決意した。読んでいけばどこか一つぐらいは主人公に共感できるかと思ったが本当に全く見当たらず、そういう面でも僕はもういっぱいいっぱいだった。

 昔の世界にいいところなんて一つも見つからない。

 もう寝よう。僕はそう決め、寝床につくことにする。

 本も返そう。今日はもう家に帰っているから無理だけれども、明日一番に返せばいい。

 時刻は九時を回ろうとしており、普段の僕に比べたら長く起きていたなと、少しばかり以外に思う。飛ぶように過ぎた時間。その元凶がロリータなのだ。普段は逆に長ったらしく感じる時間が今はむしろ早く感じていて、ロリータ、もとい昔の書籍の魔力に驚きを禁じ得ない。

 拡張現実のコマンドを操作し、部屋の電気をシャットダウンさせる。僕は暗闇が嫌いだった。得体のしれない何かがじわじわと僕を侵食しているようで、さらに今日は過去の遺物にまで触れた。共有できない異質性と、口に出すのもはばかられる不快感は弱い僕の心をさらに心細くするのに十分すぎた。

 早く寝よう。横になり、毛布をかぶり目も閉じる。脳裏には小説の主人公の狂気な沙汰が鮮やかに焼き付いており、ベッドにシミを作るほどの冷や汗が、滝のように流れ落ちる。

『手の窪みには、まだロリータの象牙の感触が残っている——抱きながら手を上下させると、白いワンピースを通して伝わってきた、思春期前の、内側に曲がった背中の、あの象牙のようにすべすべした、しなやかな肌の感触がまだこの手の中にあふれているのだ』

『私は強力な睡眠薬を母親と娘の両方に処方して、まったく何の咎めもなく後者を一晩中愛撫する姿を想像してみた』

『彼女の頬骨には赤みがさし、ふっくらとした下唇はつやつや光っていて、私は今にも溶けてしまいそうだった』

 もはや悪夢以外の何物でもなかった。聞こえるはずのない主人公の笑い声が耳元で反響し、この先もずっと主人公の語りで少女が描かれていくと考えたら気の毒で仕方なくなる。この世界に生きていればそんなことにはならないのに、みんなで解決策を考えるのに、物語だから仕方がない。物語だから救いようがない。

 しかし気が付いた。寝ようと思ってベッドで横になっても考えるほど、この物語が救いであってほしいと切実に願うほど、僕はロリータに対してのめりこんでいるという事実に気が付いた。それは作者への期待なのかもしれない。作者ナボコフが善人であってほしいと、僕はそう思っているのかもしれない。

 どちらにせよ、ロリータへの関心は、主人公と娘への興味はとどまることを知らなかった。これらを消化するのは読み進める以外の方法では存在していない。

 僕は体を起こし、コマンドを操作し、部屋を明るくする。

「ロリータをここに」

 僕がそうつぶやくと、知性天井からゴムでできたピンク色の腕が伸びてきて、数メートル離れた机の上にあるロリータをベッドにいる僕のところまで器用に運んでくる。昔には存在しない今だからこそできる文明の力だ。

 僕は時計に目を向ける。一時間もすれば眠くなるはず。どうせ明日には返すのだし、もう少し読み進めても誰も咎めはしないだろう。

 僕はそんな心持ちで、ロリータを読むことに着手した。


 ■


 時刻は六時を回り、僕の拡張現実がアラームを鳴らす。それでもなお、本を読む手は止まらなかった。残りはあとわずか。彼の独白で物語は終結を迎えようとしていた。

『そしてこれこそ、お前と私が共にしうる、唯一の永遠の命なのだ、我がロリータ』

 終わった。彼は最後の最後まで自分に殉じた男だった。彼は愛に生きた男だった。彼は自分のしたことを罪だと強く思い続けた男だった。そして、彼はどこまでも報われない男だった。

 僕はその様を心のどこかでかわいそうと思ってしまった。もっと良いやり方はなかったのかと、娘も主人公も幸せになる未来はなかったのかと、思わず考えてしまう。確かに主人公は悪人だった。思うままの自我に生きた、根っからの悪人だ。

 しかし、ロリータを心から愛していたのもまた事実。成長するにあたって愛情を失っていくと言っていた主人公だが、成長しきった少女を見てもやはり愛していた描写を見て思わず涙腺が緩んでしまった。いつからか小児性愛から父性愛に変わっていたが、そこもまた泣ける。彼は理解できない化け物のような人間ではなかった。僕はすでに彼を受け入れていた。

 窓を見ると、すでに朝日が昇っている。僕はぶっ通しで読み続けていたらしい。

 いい話だった。僕もこういった生き方をしたいとまで感じてしまった。

 だが、一つ思う。これは今の世の中ではできないのではないだろうかと。

 この世界は優しい。どこまでも優しくて思いやりにあふれている。みんながみんな望んだ生活ができ、不自由なんてこれっぽっちもない。どん底を知らないようにお膳立てされている。

 だから歪んだ人が生まれてくることはない。

 ロリータの主人公のように、別人に過去の面影を重ね愛する悲しい人も、ロリータ本人のように心から誰かを拒絶する人もいない。僕にはハルという苦手な人がいるから、後者のほうは当てはまらないかもだけど、基本的にみんな他人が大好きで、何事も受け入れる準備はできているから、主人公とロリータ間の倫理の問題などはすぐに解決する。立ちはだかる障壁と言ったら、ロリータが主人公を愛してくれるかどうかぐらいだが、それすらも大したことではない。実際に行っている人は見たことないが、一応この世界では一夫多妻制と一母多夫制が認められている。最も重視すべきは自分の気持ちよりも相手の気持ちだから、きっと幸せになれたはず。

 だけど、それではこの物語は生まれなかった。愛に生きて不幸な一生を送る主人公のような人間は存在しなかった。この世界では不幸がない代わりに物語のような難解なことも何一つない。

 ――つまらない。

 ふと思ってしまった。この世界はなんとつまらないのだ。あたりを見渡せば優しさ、善意、慈愛に平和。いつも他人のことばかり考えていて、気遣いながら生きている。こんな世界でどんなドラマが生まれるというのか。

 平和である分この世界は恐ろしく退屈であるということに僕は今、気が付いてしまった。その点、昔の世界はどうだろう。成功は約束されていない。思いが成就するのも確実ではない。共有しすぎないからすれ違いもたびたび起こる。常に悪意を疑いながら人を落とすことだけを考えている。

 なんとまあ最高だろう。悲痛の声が満載だ。たくさんのドラマが想像できる。きっとロリータのような悲しくて、考えさせられる物語がいっぱいだろう。

 僕はハルの父親が昔を望んでいた一片が見えた気がした。今まで全く分からなかったことが一気に開けたような気がして、鬱屈とした何の味もしない暮らしに光が刺したように思えてきた。なぜ僕は今まで忌避していたのだろう。

「……このつまらない世界を変えてみせたい」

 思わず漏れた。ハルがまずはロリータを読んで昔の世界に触れてくれと言っていた意味が今ならよく分かる。ハルは父親の意思を汲み取って、世界を面白く変えていく所存なのだろう。今の僕ならば何か力になれる気がした。

 僕は背伸びをしながら今後のことを考える。とりあえず、倫理セッションで何か言ってみよう。みんな真摯に受け止めて社会の改革に努めてくれるはずだ。

 期待で胸が高鳴る。喜びで頬が緩む。興奮状態もほどほどに、僕はロリータ読了の余韻に浸りながら、意識を失うかのように床に倒れこんだ。


 ■


 そこから僕は変わった。一見どこも変わっていないようだが、自分の中ではいろいろ変わったつもりだ。

 まず読む小説が大きく変わった。二十五世紀に出版されたつまらない物語ではなく、二十世紀前後のうねるような展開の物語を好んで読むようになった。サロメに人間失格、ドグラマグラにカラマーゾフの兄弟。いずれも今では考えることもできない人間模様がありありと描かれていて、それによって世界が、付近の人間関係が変わっていくのは僕とどこか縁遠いものに見えた。この世界はみんながみんな優しいから、独占することをおいそれとはしない。あくまで自分は社会の一員。そんな考え方が根底に宿っている。それゆえにお互いの関係もある程度までは踏み込んでくれるが、逆にある程度からはなかなか踏み込んでくれなくなってしまう。頼めばいろいろと手伝ってくれるし、相談だって乗ってくれるけど、それは昔でいう表面上の関係と何ら変わりない。相談に乗れる関係。気軽に話せる関係。そこまでがデフォルトなのだ。そこからは幼馴染だとか、いとこだとかの強い関わりがない限り、なかなか問いてくる人はいない。プライベートがほとんどなくなったというのも昔と今の大きな違いだろう。拡張現実を起動しながら、または常時起動型のコンタクト拡現などを身に着けながら、道行く人を注視すると、様々な情報が公開される。本名、職業、電話番号やアドレスコード。既婚か未婚か健康状態はいかがなものか。その人物において最も評価されるべきところは先頭に、害を与える、つまりは普通を逸脱している危険なものは赤文字で。

 こうやってお互いがお互いを見守る——いや、監視することで人々は模範的な生活を余儀なくさせられる。他者に全面的に信頼を置くことでプライベートを実質的になくし、調べようと思えばどこまでも調べられる。

 きっと、そういった意識が逆に人の関係を希薄なものへと変化させているのだ。

 僕はそういう考えの元、倫理セッションで主張することも決めた。個人情報を公開しすぎることが、逆に思いやりを薄くしていると。人が人をさらに思いやるためにはお互いの知らない部分がなくてはならないと。班のメンバーは、目を丸くして聞いていた。どんな意見を言っても温かい拍手が送られるが、この時ばかりはこころなしか、いつも以上に気持ちの入った拍手を送られている気がした。

 この意見は大々的に取り上げられることとなった。百年ほど続いてきたプライベート公開法に転機が訪れるのではとニュースでも話題となり、様々な議論が行われることとなった。僕自身もそういった大きな話し合いなどに呼ばれることも増え、その際は過去の世界の憧れを思う存分語りつくした。もちろん過去の作品に触れることは禁止されているから伏せるところもあり、世界をよくするための意見とはいえ初期は後ろめたくもなっていたが、その意見が支持されていけばいくほど、僕のおかげで世界が良くなっていると、自分を正当化することが出来た。

 その間も、ハルの家に行くのは日課としていた。いや、更に通い詰めるようになっていた。

 初期は僕の考えを興味深そうに聞いていたハルだが、次第に聞きたがらなくなっていた。その内僕がハルの家に赴いてもドアを開けてくれなくなった。ドアにロック機能はついていないから、開けることはできたのだが、ドアの前にたくさんの荷物を置いて、無理やり入れなくしていた。志を同じとするはずなのに、この仕打ちの意味が僕にはよく分からなかった。開けてほしいと僕は言った。ハルはやりすぎだと返す。

「どうしてそんなことを言うんだ。君だって世界をよりよく変えようとしていたじゃないか」

「確かにそうだ。俺は世界を変えようと言った。だけど、これは違う」

 ハルの声は震えていたが、なぜそうなっているのか僕には本気で分からなかった。ハルの父親だって、ハルだってこれが望みだったはずなのに。世界は今より良く変わっていっている。プライベートが尊重され、ハルの父親もきっと喜んでくれる世界が来ようとしているというのに、僕に世界を変えてくれと頼んだハル本人が、僕のことを否定している。

「何が違うんだ」

 ハルは何もしゃべらなくなった。僕の疑問の声だけが、薄ピンク色のドアの前でむなしく散る。そのうちだんだんと腹が立ってきた。国はこんなにハルや世界のためにいろいろと行っているというのにハルはそれを認めない。理由を聞いても返さない。腹が立つのも無理はない。

 ああそうか——。これが“嫉妬”か。

 当時、僕がちょうどアマデウスやサリエリのことについて調べていたのもあって、それを嫉妬と判断した。よりよく世界を変える案を考えたのが妬ましくて、僕にこれ以上知識をつけさせないように部屋に入れないようにしているのだ。なんと浅ましくて愚かすぎる考えなのだろう。

 なぜかとても心地が良くなった。優越感というか、愉悦心というか、ハルを勝ち越したという気持ちが僕の中でぶくぶくと膨れ上がって、思わず口角が上に向く。今まで仲間だったはずのハルが、僕の中でとても小さなものに見えてくる。こういう時小説のキャラクターたちは何をしていたか思い出し、本で仕入れたたどたどしい恨み節をドアの前で放つ。

 十六年間。今まで社会の空気によって抑圧されてきた感情が一気にあふれ出し、ハルに向かって言葉をぶつける。気の赴くままに投げつけたそれはハルの心にしっかり痛みを与えていることだろう。とても、とても気持ちが良かった。二十五世紀の小説を読んでいたころとは比にならない。昔の小説を読んだ時よりも恐ろしいほどの快感が僕の身に襲い掛かった。

 しかし、そんな快楽という名の火も、薪、つまり返答がないのならばいつか鎮火する。ハルは何の言葉も返してはくれなかった。

 面白くない。

 更に強い口調で吐いてみる。もはや罵倒になっていたそれだが、その時の僕に歯止めは聞かなくなっていた。やはりドアの向こうからは何も聞こえない。

 気持ちも収まり、引き返すことにする。最後に僕はやり遂げるよという言葉を残して。

 きっとハルは荷物の奥にいたのだろう。僕の罵倒を全部しっかりと胸に刻んでいたのだろう。一言、ハルの胸から絞り出すような声が僕に届く。ハルのそれはやけに僕の頭に残っていた。

「ごめんな……」

 次の日から、僕はハルの家に行くのを止めた。情報を吸収するほうから、発信するほうにスタンスを変えたのだ。未来は明るくなること間違いなしだった。面白くなっていくはずだった。僕の目には希望しか映っていなかった。

 しかし、その二週間後、ハルは自殺しようと試みた。


 ■


 急いで階段を駆け上がる。一般の人に配慮して薬品のにおいを極限まで消し去り、できるだけ普通の家の形に近づけた薄ピンク色の病院は、それゆえにどこまでも同じ光景を広げていた。拡張現実のナビサポートコマンドがないとすぐに迷子になってしまいそうだ。

『次の通路を左に曲がり、突き当りが目的地です』

 誰の耳にも優しい柔らかで温厚な声に指示されながら、僕はただひたすらに通路を進む。誰かの配慮なんてしている場合ではない。ずかずかと我が物顔で渡っていく。

「ここか……」

 エヌコード0047FT。それがハルの病室だった。僕は思い切りドアを開く。ハルはベッドの上でたくさんのチューブに繋がれながら、広い病室でただ一人天井を見上げていた。

 その顔には涙が伝っている。

「ハル……大丈夫……?」

 僕の声に気が付いたハルは目線をこちらに向ける。何もかも失ってしまったような、からっぽで虚ろな眼差しをしていた。頬は少しこけ、深く刻まれた隈が睡眠不足を示している。拡現にも危険を表示する赤文字がずらりと並んでいて、もはや別人かと思わせる風貌だった。

「ああ、アキか……」

 僕を視認したハルは体を起こし、姿勢を変えようとする。僕のためにやっているのだろうが、今は安静にしていてくれとハルをなだめながらベッドに横たわらせる。

「アキぐらいだよ。起こそうとする俺の体を押さえつけるのは」

「え?」

 突然ハルが言った内容に僕は思わず戸惑ってしまう。

「みんな逆なんだ。俺が体を起こそうとするとその意思を尊重して、いかにしたら体に負担がかからないか。どうやったらスムーズに起き上がらせることが出来るのか。そんなことばかり考えている」

 ハルはどういう意図の元、それを言ったのだろう。僕を非難しているのか、肯定しているのか、それすらも分からない曖昧な言葉だ。

 ハルはもう体を起き上がらせることはなかった。僕を試したつもりなのかもしれない。

 ―——静寂。

 お互いすれ違っていた期間のせいか、いまいちハルとの距離が掴めなくなっていた。時間として数十秒。感覚としては数十分にも思える長い時間は、ハルによって壊される。

「ごめんな……。あの時部屋に入れなくて」

「いや……」

「……俺はアキに世界を変えたいって頼んだこと、ずっと後悔してたんだ」

 僕が立ち去るとき、ハルが言ったごめんねを今、思い出す。

「どうして……?」

「俺は確かに、父さんのために世界を変えたいって言った。それは嘘じゃない。確かに本心だ。だけど俺にはこの世界に変えるべきところが見つからなかったんだ」

 ハルは何も思わなかったのだろうか。昔の世界と今の世界を比べて、面白みに欠けているということに。つまらないこの世界を変えようとは全く感じなかったのだろうか。

「だから、ハルは僕に頼んだというの?よりよく世界を変えるために僕を無理やり参加させようとしたの?」

「いや、それも違う」

 それが違ったらなんだというんだ。僕にはやっぱり、ハルの考え方がちっともわからない。

「俺はきっと、父さんの気持ちを理解したかっただけなんだ」

 ハルには物心ついた時から母親がおらず、ずっと父親に育てられてきたらしい。とても優しい人だったそうだ。とても優しくて、この世で誰よりも優しくて、だからこそ、父親のある一つのことが理解できなかったらしい。

「昔の本を好き好んでいたことか……」

 ハルは頷く。常に昔の世界に憧れを抱いていて、しかも、一番好きなロリータを読んだときは毎度涙を流し、その日の夜にはいつも悪夢にうなされていたそうだ。

「ごめんなさい。ごめんなさい……。父さんの悲痛の声は、してくれた優しさと同じぐらい記憶に残ってる。ごつごつした腕とか、疲れ切った表情と一緒にね」

 ハルはそこで僕から目を背ける。

「俺は父さんが死んだ理由を知りたかった。優しすぎる父さんがそこまで追いつめられる理由をずっとずっと求めていた。だけど、それを理解する前に父さんは死んでしまった。だから俺には父さんを理解する方法が本を読む以外なかったんだ」

 初めて聞いたハルの思い。ハルの過去。

「俺は過去の本が好きにはなれなかった。みんな獣のように生きる昔の世界がどうしても羨ましく思えなかった。憧れるところが何一つなかった。だけど、みんな昔の世界に憧れてた」

「みんな……?」

「そう、みんな」

 そうつぶやいた僕の言葉を聞いてハルは自嘲気味に笑う。

「実はアキ以外にももう一人、世界を変えようという名目で過去の小説を読ませた人がいたんだ」

 その名前はフユっていうんだ。ハルは悲しげにつぶやく。拡張現実の人物検索コマンドにかけると見覚えのある顔が出てきた。直接話したことはないが、ハルと一緒にいることは時々見かけていた。背の高い女の人だった。

「彼女とは父さんを失った日に偶然知り合ってね、この間まで身の回りの世話をしてくれた人なんだ」

 知らなかった。ハルの家はいつ行ってもきれいに整理されていて、知的天井を自動掃除の設定にしているものとでも思っていたのだが、どうやら人が整理していたらしい。

「俺は彼女にも頼んだ。真面目な彼女は熱心に読み込んでくれたよ。だけど、これらの考えを大々的に広めようとしたんだ。それはいけなかった。俺の本当の目的は父さんのことを理解することだったから。もちろん否定した。駄目だと強く言い聞かせた」

 ハルはそこで息を深く吐く。これから話すことはそれほどまでに苛烈なものなのか。

「だけど彼女は聞かなかった。本を読んで自我を持ち始めていたのかもしれない。これは悪いことではなく、正しいことだから広めるべきだと彼女は全世界共有サーバーに書籍データを投稿しようとしていたんだ」

「俺は止めなければならなかった。アキやフユ、それに父さんを見て、昔の書籍は人を変える魔力を持っていることに気が付いていたから。それが全世界に投稿されてしまったら今の日々はもうやってこないことを知っていたから」

 ハルの声は震えていた。それはつい先日ハルの家に訪れた時と同じようで、もしかしたらその時、ハルは話題に上がっている女の人と一緒にいたのかもしれない。そんな予測が僕の中で浮かぶ。

 でも仮にそうだとしたら、なぜ僕が罵倒している間、彼女は声を発さなかったのか。何か僕に後ろめたいことがあったのか。それとも――。

「だから、俺はフユの首に手をかけた」

 思わず耳を疑った。あのハルが、人を殺そうとするだなんて想像すらしていなかった。

「なにも、そこまで……」

「俺にとってはしなければいけない大事なことだったんだ。泡を吹いて倒れているフユを見て痛感したよ。俺は世界を守るために人をも手にかけることのできる人なのだなって」

「今その人は……?」

 検索コマンドで表示されたフユに死人判定は付いていなかった。ならば、今、彼女はどこにいるのか。

「殺しそこねたよ。今、都内の病院にいる」

 その人は死んではいない。意識は戻らないらしいが、今も生きている。僕はそれを聞いて少しだけほっとした。

「でも、これはまずいことだ。きっと彼女が目を覚ましたらいうだろう。昔のことを話してしまうんだろう」

 彼女を止める必要があったとハルは言う。自分のやったことだったから、自分が広めてしまったことだったからどうにかして止める必要があった。でも失敗した。ハルはフユを殺し損ねたことで、世界を終わらせるきっかけを作ってしまったと、嘆く。

「そもそも、禁止されている昔の書籍を読むことならいざしらず、人を殺そうとするなんて昔の世界であっても最も悪いことだ。たくさんの罪を俺は誰かに裁かれたくなった。だけど、この世界にそんな機関はない。たくさんのセラピーに、たくさんの薬を投与されて、社会に復帰させられる。ただそれだけだ。俺はそれを耐えきる自信がなかった。たとえ社会復帰しても罪の意識につぶされて生きていける気がしなかった。俺は社会に生きる資格はない。だから俺も死のうとしたんだ。だけど死ねなかった」

 言いながら、ハルはとても苦しそうに僕を見た。拡張現実内でハルの心身ストレスが異常値に達したことが表示される。ハルは僕をも止めようとした。僕にこんな考えを教えたことにも罪を感じているようだ。

「俺が悪かった。嘘でアキを騙したこと、本当に悪かったと思っている。だから今からでもいいから世界を変えることを止めてほしいんだ」

 今が最良の状態なのだとハルは言った。つまらなくても、平和なのだから最良なのだと。僕には同意しかねた。

 ハルがなぜそこまで罪を感じているのかまずわからなかったし、だから僕を止める必要も別になかった。確かに人を殺そうとしたのは悪いことだが、しっかり理由のあった行動だ。僕が攻める気にはなれない。僕に過去を教えたことよりも、殺そうとしたことよりも、世の中を良くしようとしている僕の行動を止めようとしていることの方が罪を感じるべきではないのかと考えてしまう。意見を曲げる気は全くなかった。それでは幸せになれないと僕は反論する。ハルはそうかとつぶやいた。とても悲しそうだった。病室を出るとき、ハルはまたも言う。ごめんね、と。

 その日以降、僕はより一層法律改正に向けて運動をすることを決めた。ハルは保守的になっているのだ。きっと新たな世界を見たら受け入れてくれる。そうかたくなに信じてがむしゃらに努めてきた。支持者はどんどん増えていった。一部の自治体は先んじてプライベート公開を禁止し、たくさんのところから注目されることとなった。

 順調だった。すべてが順調なはずだった。

 しかし、突如として事件は起こる。

 プライベート公開を先行して禁止した自治体の一つで暴行事件が起こったのだ。また、別の場所では他人を信用しきることが出来ないのが心から辛いといった言葉も上がりだした。今までの平和が一気に崩れだした。確かにつまらない世界は望んではいなかったが、プライベートを禁止するだけで暴力沙汰が起こるまでとは予測もつかなかった。僕は怖気づいてしまった。自分がしていることの重大さがようやく実にしみてきた。しかし、後には引けなかった。たくさんの人の期待が僕にかかっているとわかっていたからだ。

 確かにこの世界はつまらなくはなくなっていた。小説の題材にできるぐらい奥深いものと化していた。しかし、そこは地獄だった。誰も裁かれず、自己を持つ者だけが、勝者となる、阿鼻叫喚の巣となっていた。


 ■


 数年後、慈愛に満ちていたはずの世界は荒れに荒れ、何事にも個性を出さなければいけない風調が世の中で広まり始めていた。薄ピンクの建物は辺りを見渡せど数えるほどしか視認できず、数少ないそれらも、周りの奇抜なデザインや派手な色で装飾された建物に存在感を奪われ、注視してみないと目にも止まらない。目に優しいということは、実体感がないということなのだ。印象が薄いともいうのだろうか。プライベートを秘密裏にするというだけで、ここまで何もかもが変わるものなのか。当時の僕にはまったくもって理解できていなかった。ここまでは望んでいなかった。人々は自分以外を心から信用することをせずに、あくまで表面上の付き合いに甘んじている。今まで注視すれば即座に表示されていた他人の個人情報も、閲覧することができなくなっていた。

 プライベート禁止法はまだ実現していない。たくさんの自治体でたくさんの問題が発生し、実用化が見送られたのだ。今世の中では賛成派と反対派が凌ぎを削っている。

 そして、今僕は大きな会議場にいる。第一に意見を発案した張本人として僕はプライベート禁止賛成派の顔とも呼べる存在となっていた。僕の言葉によってたくさんの人が動くが、その言葉はもう僕のものではなくなっている。ただ僕はわかりやすい象徴として別の人が書いた意見を口に出して発言するだけだ。

 しかし、それも今日で終わる。

 僕の発言を聞きにたくさんの人が集っている。みんな奇抜な様相だ。髪の毛を思いっきり染めている人もいれば、あえて日焼け跡を作り目立つようにしている人もいる。そんな個性の魔境ともいえる空間の中でひときわ目立つ衣装をしている人がいた。

 黒。

 その服を見た人は、もれなくそう思うだろう。まるで喪に伏しているかように上下を黒一色で染めている。その他手袋も、髪の毛も、目の色も、刀を納めている鞘の色も、全てが光すらも通さない漆黒で揃えてあり、肌が唯一の別色となっていた。

 ハルである。今回僕の話を聞きに来ている人は、九割型プライベート禁止に意欲的なため、注視してもアクセス制限としか表示されない。全員が設定で外部からの閲覧権限を拒否しているのだ。そんな中で唯一、ハルだけは外部からのアクセス権限に制限を設けていなかった。目立って目立って仕方がない。自分の情報を開示せずに、他人の情報は見放題なのだ。周囲の人々はこぞってハルの個人情報に目を通し、そしてあまりの内容に皆が目を疑っている。僕も開示してみることにした。

 十六歳で二十九歳のフユという女性を殺害未遂。のちに殺害。十七歳でプライベート禁止法を推していた重役の政治家を絞殺。十八では三人の人を殺していた。いずれも世界を変えるという意志の元、僕を支持していた有名な人たちだった。

 僕の頰に笑みが浮かぶ。

 ハルはずかずかと人を割って僕のもとに近づいてくる。途中、ハルの腕を掴む者がいた。最近僕を支持し始めた新人の人だった。どうみても危険な存在だから僕のもとには近づけさせないという優しい配慮なのだろう。だけどそれは愚かすぎる行為だった。

 ――瞬間、男の腕が宙を舞う。ハルは刀を抜いていた。黒く染められた刀身は黒光りして、その切っ先から紅い雫が一滴落ちる。それが床に落ちた男の腕に垂れていくのを直視した男は、苦悶の表情で悲鳴を上げ、思わず腰を抜かしてしまう。何が起きたのかわかりかねていた周囲の人々は、男の悲鳴で自我を取り戻し、思わず数歩後ずさった。ハルの刀がゆっくりと持ち上がり、腕を失った男へ向かって振りかぶる。たくさんの人を殺してきたのだろう。卓越した刀裁きは、一瞬のうちに男の首から心臓を真っ二つにし、それに気が付かない男の血管は絶えず懸命に血液を心臓に送り届けようとする。行き場をなくした血潮は外へと漏れ出していて、胸元が大きく開いた変なデザインの服を真っ赤に染め上げた。

 周りの人は一気に外へと逃げ出す。この建物に出入口は一つしかなく、いち早く逃げ出そうとする自我に飲まれた人間たちは、前の人を蹴飛ばし、割り込み進んでいく。その光景を見ている僕も、ただ傍観していたわけではない。拡張現実を捜査してとあるコマンドを実行した。そのたった一つの出入口を閉めるためのコマンドだ。

 僕のために話を聞きに来た人たちの表情が絶望に染まる。唯一の希望が絶たれ、どうしようもなくなった彼らの後ろで、人が一人、また一人と倒れていく。恐る恐る後ろを向いた彼らの視界にはまさに地獄絵図な世界が広がっていたことだろう。彼ら全員の息の根が止まるのにそこまで長い時間はかからなかった。

「なあ、ハル」

 残ったのは僕とハルだけ、あとは全員死んでしまった。密閉された空間で、たくさんの血の匂いに鼻を曲げながら、僕は、ハルは、お互いに目線を合わせる。僕もまた、一瞬のうちに切っ先を喉元に突き付けられていた。

 だが殺さない。なぜ殺さない?僕が知り合いだったからか、それとも僕の言葉を聞くためか。

「やっぱり、ハルの言うとおりだったよ。前の世界が一番だった」

 僕はいつぞやのハルが浮かべていたであろう自嘲気味の笑みを浮かべながら、ぼそぼそと言葉を紡ぐ。

「僕は未来を作っているつもりだった。この世界がもっともっとよりよくなるために、面白くなるために全力を尽くしてきたつもりだった。だけどそれは過去の失敗を繰り返していただけだったんだね」

 ハルはやっぱり何も返さない。僕はそれを肯定と受け取った。

「ハルにたくさん悪口を言ったことがあったね。遅くなったけど謝るよ、ごめん。でも、なんでだかわからないけど、あれらの言葉を言ったとき、とても気持ちが良くなったんだ。今までずっと胸の奥に溜め込んでいたものが一気に弾けた気がしてさ。多分僕はずっと隠していたんだと思う。この世界で第一に学ぶべき優しさの教育が行き届いてなかったってわけじゃない。きっと、きっと僕は生まれながらにこういう存在だったんだ」

 一息。

「その間ハルは羨ましいよ。昔の考えに触れてもなお、性格が歪むわけではなく、ずっと社会のために生き続けた。人を殺しているのだってそれは社会に対して害になると判断したからだろう?」

「……俺はそんな大した存在じゃない。お前らを悲しい道に陥れてしまった贖罪が主な気持ちだ。俺はお前らのことで昔の考え方を広めることは危険だといち早く気付けた。それを押し付けて、あまつや殺している。自己中のなれの果てだよ」

 ハルは吐き捨てるような口調で返答する。僕の言葉がそれほど気に障るものだったのだろうか。

「でも人のことを思ってる。苦しまないように配慮してる。人のことを信じちゃいないけど、ハルはとってもとっても優しいんだよ」

「俺はっ」

 ハルは何かを言おうとした。だが、僕には届かない。なぜなら、

「僕は、ハルのようにはなれないなぁ」

 その言葉がすべてだった。ハルは何かを言おうとしていたが、いくら言っても届かないことを知ったのか、これ以上何かを言うことをやめ、刀と一緒にうつむいた。

「ハル」

 僕の声に反応してハルが顔を上げる。その顔は何かを求めていた。僕の言葉を求めていた。それが何だったのか性格の悪い僕にはわからなかったから、せめて最後まで性格悪く勤めてやろうと思った。これからのハルの祝福のために。これまでのハルの賞賛のために。

「僕を、殺して」

 涙を流しながら、ハルは刀で僕の心臓を貫いた。ものすごい痛みが僕を襲った。初めて悪態をついた時と同じような、未知の感覚だった。

 僕は失敗した。何もかも失敗した。この世界を良くはできず、友達を罵倒し失って、最後はその友達に殺される。この世界を良くしようとしたのもつかの間、すぐに責任が持てなくなったし、たくさんの人に迷惑をかけて、たくさんの人の人生を変えてしまった。

 どうすればよかったのだろう。何を間違えたのだろう。ハルの頼みを無視すればよかったのだろうか。頭の悪い僕にはもう、何もわかりはしない。考える気力もない。

 視界がくらむ。ハルが刀を引き抜いた拍子に、僕の体はハルにもたれかかる風になった。

「ハル……ごめんね」

 息が苦しい。瞼が重い。

 ほんと、どうすれば幸せになれるんだろうな。

 次の瞬間、僕は絶命した。


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パブリック 佐島 紡 @tumugu

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